偉大なる死


 長い間、光から遠ざかっていた気がする。
 亀から出、日光に目を細めながら名前はそんなことを思った。
 停まる列車。その傍らにはまだ真新しい血痕が残っている。
 鮮やかな赤。鮮血は生きていた証だ。彼が、彼らが確かに生きていたーーそう、彼らだって必死だったのだーーその証。名前は指先でそれを掬い取り、唇を噛んだ。

「名前、もう出てきて平気なの?」

 先に外へと出ていたトリッシュ。突然生死をかけた戦いに巻き込まれた彼女は気丈にも名前を気遣ってみせた。
 そんな彼女に「ええ」と小さく頷く。平気だ。この体も、……心も。傷ついちゃいない。泣きたくなんかなるはずもない。

「それより……気になることがあったから」

「気になること?」

 その問いには答えなかった。いや、答えられなかった。それよりもずっと、名前の意識は奪われていた。車体の下、右腕を失った男の体へと。
 歩み寄り、そして名前はその顔を間近で見た。土と血で汚れた顔。しかしそれが本当は彫刻のように整っているのを確かめてーー名前は息を吐いた。
 ーーあぁ、やっぱり。
 勘違いなんかじゃなかった。遠退く意識の中。亀を覗き込む二人の男を見た。その顔に見覚えがある。そう思ったのは、悪夢なんかじゃなかったのだ。

「……知り合いだったか?」

 遠くで声がする。ブチャラティだ。死闘を終えたばかりの彼が名前を気にしている。だから名前は笑わなくてはならない。なんてことはないのだと。気にしないでほしいと。

「……いいえ」

 そう思いながら、名前は微笑んだ。

「友達に、なれたかもしれない人よ」

 呟きは風に浚われた。でもそれでよかったのだ。叶わぬ夢であった。最初から、きっと。誰もが救われる道などありはしなかったのだ。

「主よーー……」

 そうわかってはいたけれど、祈らずにはいられなかった。
 どうかこの人たちに安らかな眠りを、と。



 男たちは敵だった。何より名前たちには時間がなかった。だから彼らを弔うことだって当然できない。せめて、とその顔から汚れを拭い取ることくらいしか。できない自分が、名前はもどかしかった。
 しかし考えている余裕はない。
 ピストルズから話を聞き、名前は慌てて車内を駆けた。
 スタンドは普通当人が生きていなければ消滅するもの。だから無事だと頭ではわかっていたものの、その姿を見つけた時には心臓が止まるかと思った。

「ミスタッ!!」

 騒いでいる乗客なんかどうだっていい。名前は跪き、意識のない彼の手を取った。ーーまだ、温かい。この温もりと柔らかさは生きた人間のもの。先程の『彼』とは違うーーミスタは、生きている。

「早ク『ミスタ』ヲ治シテヤッテクレヨォーッ!」

「あぁ、大丈夫よNo.5。すぐに治すから……もう、泣かないで」

 そう言う名前の声も頼りない。それくらいに彼の傷は深かった。頭に三発。弾丸はピストルズが途中で止めたとはいえ、血が出ているのに変わりはない。
 名前は必死で息を整えてーー冷静にと言い聞かせながらーー時間を巻き戻し続けた。
 ごぷり、と肉の盛り上がる音。貫かれた傷口。それがみるみるうちに塞がっていく。巻き戻っていく。
 ーー『あの人』が、死んだから。
 列車に挟まれたままの体。バラバラになって河岸に捨てられた体。そうした光景を頭から振り払い、名前はミスタの手を握り続けた。
 ーーすると。

「ミスタッ!!」

 ぴくり、と指先が震える。それに合わせて固く閉ざされた瞼も。震え、幕が上がっていく。
 その様に、No.5は声を上げた。涙と歓喜の入り交じる声。それだけ彼はご主人のことが大切なのだろう。

「名前……?」

「ええ、そうよミスタ。あなたのお陰でみんな無事よ」

 そしてそれは名前も同じ。彼の真っ黒な瞳が自分を映し出すのを認めて、ぎこちなく口角を上げた。ともすればNo.5と一緒になって泣き出してしまいそうなのを抑えて。彼の手を取り、立ち上がるのを支えた。

「そうか……。しかし……、ッ、痛みが残ってるようでならないな」

「それだけ傷が深かったということよ」

 顔を顰めて頭を振る。そんな彼と共にブチャラティたちの元へ向かいながら、名前は泣き止まないNo.5に声をかけ続けた。

「ねぇ、あんまり泣いてるとふやけちゃうわ。ほら、ミスタももう元気になったんだし……」

「そうだぜNo.5。いい加減泣き虫は卒業しなくっちゃな」

「デ、デモヨォ〜〜〜!うえェェェーン!ヨカッタヨォミスタァ〜〜〜!」

「あぁ〜もう、よしよし」

 どんなに声をかけてもNo.5は泣くのを止めない。むしろ酷くなっているような気がする。
 ひしりとしがみつくNo.5。指先の彼を、ミスタは「仕方ないなァ」と言いたげに撫でてやった。ーーたぶん彼はいい父親になるだろう。そんなことを名前はぼんやりと思った。
 ーーそれから、後は。

「……ありがとう、ミスタ」

「ん?」

「なんだか同じようなことばっかりあなたには言っているような気がするけど。ありがとう、……お疲れさま」

 つい先日だってそうだった。彼は単身敵に向かい、深い手傷を負った。その時も名前が治したのだった。No.5のことなんか言えないほど、泣きそうになりながら。
 幾度彼に救われてきたろう。死に怯える名前を何度裏切ってくれたろう。ーー本当に、感謝してもしきれない。

「やめろよ名前。お前にまで泣かれたらオレはどうすりゃいい?ナランチャやフーゴにぶっ殺されるだろ?」

 そんな名前の心中など知る由もない。ミスタは大袈裟だと笑い飛ばし、名前の頭をぐしゃぐしゃにかき混ぜた。
 その手の温かさに安堵する。
 ーーあぁ、もう大丈夫。
 こんな時なのに安心できるほど、その手は力強かった。