もしも組織の実験体降谷零と兄妹だったら

 降谷零が帰ったとき、家は静まり返っていた。冷え冷えとした廊下。よそよそしい空気。時刻は午後9時を回ったところ。高校の授業はとっくに終わっているはずの時間だった。
 一人分の靴を脱いで、リビングに入る。かちり。幾度か明滅してからついた明かりは記憶よりも陰っているような気がした。そろそろ替え時なのかもしれない。以前に買ったのはいつだったか――思い出そうとしても、その先は不思議と霧がかっている。
 あてどなく放浪するのは無駄だ。零は首を振って、ソファに座り込んだ。崩れ落ちたといった方が正確かもしれない。とにかく糸が切れたようだった。ぐったりと背もたれに頬を乗せる。革の冷たさが心地よく思われた。
 久方ぶりに締めたせいか。首元がいやに苦しく感じる。ネクタイを解こうと指先をねじ込むが、なぜだかもつれて上手くいかない。まったく、忌々しい。乱雑に引っ張り、上着もろとも床に放り投げる。このまま何もかも脱ぎ捨てられたらどんなに楽だろうか。
 そんなことを考えながらも体はそれ以上動かない。まとわりつくシャツを鬱陶しく思うのに、手はまったく別のものを手繰り寄せる。
 小さな文字が整然と並ぶ資料。警察内部から得たそれには、ある事故の調査内容が記されていた。来葉峠にて発見された遺体――身元は――指紋――

「――くそっ、」

 目は文字を追っているはずなのに能は処理を拒む。零は苛立たしげに紙切れを床にぶちまけた。そうしてから拾うのは自分しかいないのにと自嘲した。
 あらゆることが億劫になって、自然と体は傾ぐ。横になると、ソファが軋む音がする。3人がけのそれは一人で使うには十分すぎる広さだった。
 充ちる静寂。あるのは針の回る音だけ。カチ、カチ。等間隔で響く音に意識を向ける。カチ、カチ、カチ。1秒1秒がたまらなく長く感じられる。今の1秒はいつの1秒よりも最も永遠に近かった。
 なにもしたくないと臥せていたはずなのに、秒針を聞いていると胸に焦燥感が込み上げた。また音を立てて、しかし今度はソファから立ち上がる。時計を見上げればまだ10分も経っていない。30分はあったと思ったのだが。
 零は溜め息をついた。ついてから、その大きさに驚いた。そう、あまりに静かだったから、だから――
 「……っ」反響する舌打ち。だがこの苛立ちは誰に向けるものでもない。勝手なのは自分の方だと零は自覚していた。
 ひたひたと響く足音。来たばかりの廊下を戻り、また外に出る。頬を撫でる生暖かい風。車に乗り込んでから、向かうあてなどないことに気づいた。まったく、ままならない。この世は理不尽ばかりだ。
 それでもまぁ高校生の足と彼女の性格を考えればいくつかの候補に絞られた。そしてそのいくつかを回るのに車ならそう時間はかからなかった。
 名前を見つけたとき、彼女の隣には男がいた。男がなにごとか語りかけ、名前が控えめに笑う。すると男はますます気を良くし、距離を縮める。ひそひそ。誰に憚ってかわからぬ内緒話。耳を打つ声に、名前は目を細める。二人の瞳に溢れる穏やかな光。そのさまは平凡な恋人同士のように映った。
 瞬間、吹き荒れた嵐をなんと形容すればよいのか。
 男が高校生なのだろうことは背格好からわかった。ただ制服が彼女の学校のものと違う。いったいどこで知り合ったのか。――どうして、名前は話さなかったのか。
 沸き上がる怒りに似た感情はひどく身勝手なものだった。身勝手で我が儘で無遠慮で。抱くにはお門違いも甚だしい。
 このまま立ち去るべきだ。家に帰って、そしてなにごともなかったかのように彼女を迎えるのだ。おかえり、遅かったじゃないか。友達と遊んでた?そう、よかったね。楽しかったかい――そう、笑ってやるべきだ。
 わかっている。頭では理解している。けれど名前を拒むのも目の前の現実を拒むのも本能的に逆らえなかった。
 車を停める。ドアを開ける。名前が目を見張る。――れ い。唇だけが描く名。声なき囁きが二人の間に落ちる。途端、水滴が落ちたように波紋が広がる。心が、波立つ。忌まわしく浅ましく呪わしいと、この感情のおぞましさにこの関係の歪さに嫌悪をもよおしているというのに。なのに、それなのに。
 どうして、零は名前の手を掴んでしまったのだろう。

「――どうして、」
 
 同じ胎から生まれたわけではなくとも半分は同じものでできているからか。名前も同じ言葉を口にした。どうして。どうして、こんなことを。どうして、こんなことに。
 名前を引きずり込んだ車内で。さ迷い走った先で。出口の見えない夜道に立ち止まって。わけもなく笑いだしたくなった。そういえば、あの男の顔もずいぶんと滑稽だった。呆然とした目。名前、と宙を掻く指。ほんとうに、滑稽だ。

「何を笑っているの」

 名前の声はいささか怒気が滲んでいるようだった。つり上がった眦がテールランプに浮き上がる。名前には白が似合うと思っていたが、考えを改めなければならないらしい。名前には、赫も似合う。
 「いや、」笑いが噛み殺しきれず隙間から漏れ出た。「いや、だって、あんまりにもおかしな顔をしてたから」ひどく残虐な気持ちが奥底から溢れ出す。今の俺こそ滑稽じゃないか。そう思う自分がいるはずなのに、深淵の向こうは遠かった。

「おかしなのは零でしょう」

「そんなことない。俺も、彼も、名前も、みんなみんなおかしいさ」

 言うと、「やめて」と名前の鋭い声が刺さる。「やめて。……彼を、酷く言わないで」良い人なの。すごく、善い人。だから、やめて。名前は自分のことも、そして零のこともどうでもいいみたいに言った。

「――なんだ、」

 こぼれた声は投げやりなものだった。なんだ、そうか。蛇のようにじらじらと這う低い声が自分のものだとは到底思えない。
 残忍な牙が宵闇に姿を現す。

「名前って案外移り気なんだ」

 そう言ってやると、彼女は傷ついた顔をした。「あなたが、それを言うの」声は輪郭を失っている。瞳は夜との境界線を失ってる。なのに白い歯が食い込む唇から目が離せなかった。その下を流れる赫い赫い血液に焦がれた。

「拒んだのに。要らないって、言ったのに。どうして、掴んでしまったの」

 ようやっと心を決められたのに。名前はさめざめと泣いた。「あなたの言う通りにしたのに、どうして」そういえばそうだったな、とぼんやりと思う。そういえば、零が言い出したのだった。『名前、君は僕から離れるべきだ』忌まわしい真実を、浅ましい実験を、呪わしい関係を。零はすべてを知って、すべてに蓋をした。名前には告げず、身のうちに封じ込めた。そうするのが二人にとって最善だと思った。
 ――だって、兄妹で愛し合うなんて気持ちが悪いだろう。
 降谷零は自身の倫理観から背くことができなかった。それは本能的な忌避。血縁ゆえに焦がれ、血縁ゆえに疎む。 因果なものだと他人事のように思う。実際、今思考している己と行動している己との間にはどこか距離があった。

「どうしてって、名前は僕のペットでしょう?」

 だからこう口にした自分に、俯瞰していた降谷零は驚いた。驚いているのに、顔は笑っていた。顔色を変える名前を、ただ眺めていた。
 色をなくした頬。わななく唇。暗く澱む瞳。「…………そう、」絞り出された声からは血の匂いがした。 

「私たち、もうどこにも行けないのね」

 何も知らないはずなのに、名前は現状を正しく認識していた。諦めに押し潰された体。精彩を欠いた顔が歪に笑む。

「そうだよ、名前。俺たちはどこにも行けない」

 天国に行く資格もなければ地獄に落ちる覚悟もない。
 狭い匣の中で、兄と妹はただ泣くことしかできなかった。