もしも赤井と組織を抜けFBIの世話になったら

 駐車場に入ったときから嫌な予感はしていた。生えっぱなしの雑草。剥がれたタイル。外観からしてお世辞にも綺麗とは言いがたかった。
 でもこのモーテルで一泊を過ごす計画でハイウェイを走ってきた。州を跨いで、ここまで来た。そして明日には指定された目的地に着かなければならない。そう、FBIから任務を請け負っているのだから。
 車を降りる前、名前は運転席を窺った。赤井秀一。彼がこのモーテルを選んだのだ。「前に一度、世話になったことがある」過去をあまり語りたがらない彼が、地図を見ながらそう言った。だから名前も頷いた。「わかった」……それがまさかこんなうらびれた場所だなんて!
 しかし赤井が感想を述べることはなかった。名前をちらりともせずさっさと車を下りる。だから慌てて名前もその無愛想な背を追った。
 ――本当に、ここに泊まるの?
 言いかけて、口をつぐんだ。いつもの嫌味を言われるんじゃないか。たとえば、そう。「いつからそんなご立派な身分になったんだ?」とか。とりあえず「我が儘な女だな」とは言われそうだ。
 この勝手気ままな赤井が気にせず泊まったんだ。名前が我慢できないのはおかしい。それでは赤井に負けたことになる。謎の闘志が名前のうちに湧いた。それにもしかすると酷いのは外観だけで中身は案外違うのかもしれない。実はマネージャーが老夫婦でそういったものまで手が回っていないとか、退っ引きならない事情があるのかも。一度思いつけば、それが正しいように思えた。
 だが名前の予想は外れた。
 軋むドア。雑然としたオフィス。ぐるりと見回しても人のいる気配はない。薄暗さに躊躇しているうちに、赤井はずかずかと押し入った。「ちょっと、」名前が咎めても立ち止まらない。寂しげに孤立したベルに手を伸ばす。甲高い音がキーンと響いて、名前は顔をしかめた。
 二度、三度と鳴らしてようやく姿を現したマネージャーは、なんだかくたびれた顔をした女だった。起き抜けみたいな頭にだらしない服装。女は赤井と名前を見ると露骨にめんどくさそうな顔をした。「二人ね」髪を掻き上げ、鍵を押しつける。そして欠伸を隠すことなく奥に引っ込んだ。結局、ルームナンバーは鍵を見なきゃわからなかった。

「……なにこれ」

 部屋もまた外観と違わず酷い有り様だった。
 埃が溜まってるとか、そういう問題ではない。ひび割れた壁紙の隙間から虫が這い出てくるのを見つけたときには、さすがの名前も呆然とした。ベッドから壊れたスプリングが飛び出てるのなんて可愛いものだ。もしかして、と覗いたバスルームでは排水溝が詰まっていた。おまけに蛇口も壊れかかってる。
 これは酷い。酷いとしか言いようがない。
 こんなところで一晩過ごすのか。考えただけで頭が痛くなる。ふらふらと革の傷んだ椅子に座り込む。ぎぃっと嫌な音がしたが、つぶれなかっただけで上等だ。

「……こんなとこがいいなんて、酔狂な趣味もあったものね」

 呑気に紫煙を燻らせている赤井を睨む。彼が煙草を吸ってるのなんていつものことなのにそれすら今は憎らしい。次は取り上げてやろうか、と名前は睥睨した。

「マネージャーがかわったらしいな」

 ふぅ。どこかの撮影みたいにゆっくりと息を吐いて、一言。赤井は言って、また窓の外を眺めながら煙草をくわえた。
 マネージャーが、かわった。と、いうことは。

「あなたが来たときはこうではなかった、と」

「そうでなきゃ来るものか」

 やれやれ。溜め息を吐きたいのは名前だって同じだ。恨みの行き場がなくなってしまった。これ以上彼を責めることもできず、名前は唇を噛んで不満を飲み込んだ。まったく、散々な日だ。
 夕飯は買っておいたハンバーガーで済ませることになっていた。それは予定通りなのに、冷えたそれはいつも以上に不味く感じる。こんな味だったかしら、と名前は眉間に皺を寄せながら水で押し流した。固くなったパンがいつまでも喉の奥に貼りついてるようだった。
 そう思ったのは名前だけではない。
 いつもの仏頂面で咀嚼していたかと思うと、突然赤井は呟いた。「……まずいな」ぼそり。吐き出して、また一口。飲み込んで、ペットボトルを手に取り、そして一口。ごくり、脈動する喉。一連の動作はいつもよりずっとゆっくりで、どこか疲れてるようだった。

「これならアンタになにか作らせとけばよかったな」

「なにそれ」

 名前は口を尖らせた。
 「いつもはあれこれ注文つけるくせに」やれ味が濃いだのやれ肉を増やせだの。そう言って満足に褒めることなどないくせに。

「こういうときばかり調子のいいことを言って」

「そうだったか?」

 首を傾げる姿は嘘を言っているようには見えない。し、言葉からもそんな色はしなかった。だから赤井は本心を言っている……のだろう。
 名前は目を逸らした。

「……そんな風にしたって、言いなりになんかならないから」

 どうせ、今までも同じセリフを吐いてきたに違いない。そうやって色んな女をたぶらかしてのらりくらりと生きてきたのだ。その想像は色鮮やかに名前の脳裏に描けた。自然、拳に力がこもる。
 それを隠して、名前はつんと顔を背けた。このままではいらないことまで言ってしまいそうだった。

「……アンタが手強いのは知ってるさ」

 だから、こう言った赤井がどんな顔をしてたのか名前は知らない。知らないでよかったと跳ねた心臓の下で安堵する。その声音だけで胸がさざめいてしまったのだから、と。

「……つかれた」

 死にかけのバスルームをなんとか稼働させ、やっとこれで1日が終わると名前はベッドに倒れこもうとした。
 が。

「それ、使わない方がいいぞ」

 と赤井に止められた。
 彼は名前より先にバスルームを使ったあとだった。濡れた髪もそのままに、寝酒を煽っていた。
 彼が使っていたのは部屋にある2つのベッドの片方。だから名前は余った方に足を進めたのだけれど。

「どうして?」

「自分の目で見ろ」

 別に教えてくれたっていいじゃない。名前はぶすくれながら布団を剥いだ。そして彼の言葉が正しかったことを知った。
 剥き出しになったスプリング。その針金が何かの罠のようにベッドの上に立ち上がっていた。

「どうしよう」

 これでは満足に眠れない。それどころか怪我をしてしまう。名前は途方に暮れた。ベッドは2つ。片方は使えず、もう片方は赤井の領土。
 となれば床で眠るか……。その考えはすぐに打ち消した。こんな汚いところで寝たら得たいの知れないものに感染してしまいそうだ。
 そうやって頭を抱える名前に、赤井はなんでもないように言った。

「ならここから先はお前が使え」

 節くれだった指がシーツに線を引く。彼は自分の領土の半分を名前に与えようとしていた。
 名前はすこしだけ迷った。すこしだけ迷って、唇を引き結んだ。

「領土侵犯は許さないから」

 赤井の反対側に座って、背中越しに訴えた。するとその肩がくつくつと震える。名前には見えないけど、笑っているらしかい。酔いでも回ったのだろうか。

「ずいぶん嫌われたものだな」

「だってあなたタバコ臭いもの」

 名前は即座に言い放った。
 常々思っていた。煙草を吸うのだけはなんとかならないのかと。こびりついた臭いはそうそう取れるものではないから、名前の鼻には赤井の匂いがいやと言うほど染み付いていた。
 赤井は「……そうか、」とだけ答えた。それが気落ちしているような声音だったから名前は狼狽した。

「別に、禁煙しろなんて言うつもりはないから」

 赤井は答えなかった。ただ黙ってコップを置き、もぞもぞと布団に潜った。「寝る」なんの宣言だか。ぶっきらぼうに言い捨てて、目を閉じる。「そう」釈然としないが、こうなった赤井が口を割るとは思えない。
 名前も諦めて電気を消した。
 そうすると夜の気配が一気に忍び寄る。部屋に満ちた静けさ。水の流れる音。機械の動く音。話し声。足音。それから、ベッドの軋む音。

「どうした」

 寝返りをうつと、夜闇の中で赤井と目があった。深い深いみどりの目。それを知覚して、名前は知らず止めていた息をほうと吐き出した。

「眠れないの。……うるさくて」

 ひそやかに耳打つ。そろり、走らせた視線。壁の向こう。そのあとを追って、赤井は「……あぁ、」と納得の声を漏らした。彼にも耳をすませば聞こえたようだ。隣室の淫猥な騒ぎが。

「こんなの馴れてるだろう」

「そう、だけど」

 でも、なにかが違う。なにかが、今日は。
 名前は目を伏せた。困惑した。ひどく落ち着かない気分がして、それに気づくと余計に身のやり場がなくなった。すぐ近くにある吐息も体温も視線も。なにもかも認識してしまうとそこにばかり意識が向いてしまう。眠りから遠ざかってしまう。

「……なら、」

 また空気が震える。視線が交わる。彼の手が、伸ばされる。
 すべてがスローモーションに見えた。なのに名前は動けなかった。「こうすればいい」そう言って、彼の中に完全に閉じ込められてしまうまで。なにも、抵抗できなかった。

「なに、して」

 発した声は驚くほどささやかで、心を写したみたいに揺れていた。でもそれを気にかける余裕はない。だって、名前はとらわれてる。視界いっぱいの体。頭に降る声。身を包む匂い。そうしたものにとらわれて、動けなかった。

「これで少しは遮れるんじゃないか」

 彼の声は差し込む月明かりのようだった。穏やかで、ほんのちょっとのぬくもりがあって。そのしずけさが名前にはちょうどよかった。

「これでも足りないなら子守唄でも歌ってやろうか、名前」

「……いらない」

 からかいにそう返したけど、うんと頷いたら赤井はどうしたのだろう。歌ってくれたのだろうか。名前のために。名前の、ためだけに。
 次はお願いしてみよう。もしも断られたら……それはそれでおもしろい。赤井の弱点なんてそうそうないのだから。
 そんなことを考えながら、そっと頭を寄せた。ほんのわずかにあった距離さえ自分から埋めてしまった。すると世界からかけ離れたような心地になる。この世の果てにでもたどり着いたみたいに。
 聴こえるのは心臓の音だけ。それに耳を傾けると、少しだけ、本当に少しだけ、安心した。そんなこと、口が裂けても言わないけど。