熟れた桜桃


 事の次第を聞かされたアバッキオは苦虫を噛み潰したような顔をした。

「酷い顰めっ面ね」

「悔しいんですよ。なんせ自分が眠ってる間にブチャラティが戦ってたって言うんですから」

 元から愛想がいいというわけではないが、今の表情はそういった次元の話ではない。せっかくの顔が台無しだ。子供が見たら裸足で逃げ出すだろう。
 苛立たしげに舌打ちするのを聞いて、名前は隣のフーゴに囁いた。触れるな危険。そんな具合であったから、さすがの名前も直接本人に声をかけることができない。
 そしてフーゴはといえば。訳知り顔で頷き、やれやれと首を振った。
 頭のいい彼のこと。その推測は間違っていなかったのだろう。

「聞こえてんぞお前らッ!」

 ーーまったく耳聡い。
 瞬時に飛んでくる怒号に、名前とフーゴは顔を見合わせて肩を竦めた。


 ナポリ中央駅を出て一時間。ローマまではまだ遠く、フィレンツェなど遥か彼方。だというのに列車が動き出す気配はないし、そもそも敵に居場所を知られてしまった。列車による移動は避けるのが懸命だろう。
 直に『新しい敵』もやって来る。悩んでいる時間はないが、ここを発つにしても慎重に考えなくてはならない。
 そこでブチャラティはヒッチハイクでの移動を提案した。無論普通の、ではない。亀に入ったまま、運転手にはそれと気づかれずに車に乗り込ませてもらうのだ。

「車ならオレが選んでくる」

 その案に皆が賛成した後、一番重要な役割を担うと名乗り出たのはアバッキオだった。先刻のことが余程堪えたのか。頑として譲る気はないといった顔である。
 だとしても異論はない。誰が選んだって構いやしないのだ。それにアバッキオほど用心深い男なら安心だろう。そう考え、名前たちは亀の中に入った。

「……まぁでも、その気持ちはわからなくもないですけどね」

「え?」

 蒸し暑いと思ったのはやはり彼のスタンドのせいだったのだろう。亀の中は丁度いい暖かさ。ともすれば眠ってしまいそうなほどに心地がいい。
 そんな中ソファに座ると、同じく隣に腰を落ち着けたフーゴがふと呟いた。それは本当にささやかなもの。つい口から零れ出たといった風で、故に意味を計りかね、名前は聞き返す。
 ぱちりと瞬く目。純粋な疑問にフーゴははにかむ。羞恥が微かに滲む目元。対照的に白い歯は真珠のよう。薄い唇をそっと動かして、フーゴは「だって、」と囁く。名前にだけ聞こえるよう、少しだけ耳元に顔を寄せて。

「ぼくもおんなじですから。……悔しいのはよくわかります」

 そう囁いて、目を伏せる。
 膝の上、握り締められた拳。その白くなった肌は彼の言葉が本心からのものである証。
 だから名前はその上に手を重ねた。

「それなら私も一緒よ」

 視線が交わる。探るような眼差し。けれど不快感はない。ーーたぶん、彼だから。今の彼に心が伝わるのなら奥底を浚うような真似をされても嫌じゃなかった。

「でも今回あなたはぼくらを守ってくれたじゃないですか」

「今回はね。でもいつもは違うでしょう?私は後方支援ばっかり。仕方ないとはいえ、……悔しい時もあるわ」

 別にこれは慰めの言葉なんかじゃない。名前だって常々思っていたことだ。足を引っ張っている、とまで卑下するつもりはないけれど、されでも歯痒さに唇を噛むことなどありふれている。
 ーーもっと強くなれたら。大切なものをひとつとして取り零すことなく守れたなら。
 そんなことをずっとーー十年以上も考えてきた。
 だから、その悔しさはよくわかる。
 そう言った名前を、フーゴはじっと見つめた。何を言うこともなく、身動ぎひとつすることもなく。じっと見つめ、それから彼は名前の名を呼んだ。小さく、吐息のごとく囁いた。

「ぼくは、ーー」

 重ねた手が握り返される。掌は燃えるよう。瞬間、名前の指先が震えたのは思いもがけぬ熱のせいか。単純な驚きからか、それともーーなんらかの予感のせいだろうか。
 唇がゆっくりと動く。その微かな震えすらも名前には見て取ることができた。目を逸らすことができなかった。ーー理由など、それこそ思うことすら。
 けれど、その答えが齎されるよりも早く。

「オイ、直に出発するみたいだぞ」

 不意に降り立つ影。低い声に今度こそ本当に驚く。それは名前だけでなくフーゴも。驚き、重ねられた手がほどける。

「フィレンツィエ行きのトラックを見つけた。このまま何事もなけりゃあ着くはずだ」

「そうか」

 そう言った彼は疲れたようにどかりとソファに座った。名前の左隣、フーゴとは反対のところに。
 その報告を受け、一人掛けのソファで沈黙を守っていたブチャラティが漸く口を開く。そうか。たった一言。けれどその顔が僅かに緩むのを見て、彼が気を張っていたことを思い知らされる。

「よかった。今度こそゆっくりできそうね、トリッシュ」

 ブチャラティの向こう。皆から離れたところに座るトリッシュに声をかける。
 しかし彼女は硬い表情のまま。「それならいいけどね」ぴんと張り詰められた糸。そんな具合で答え、唇を引き結ぶ。
 ーーいったい、どうしたというのか。
 名前は困惑し、辺りを見回した。フーゴ、アバッキオ、ナランチャ、ミスタ。その誰もが答えを持ち合わせている様子がなく、名前と似たり寄ったりの顔をしている。
 けれどただ一人。ジョルノだけが静かな眼差しでトリッシュを見ていた。