楊ゼン×原作沿い武官IF


同タイトルのものと同じ。恋人設定。殷への行軍中。





 ーー美しいものは好きだ。
 鉄刀が日差しを浴びて煌めくのも、朝露が儚げに揺れるのも。それが人工的であってもそうでなくとも真の美は人の胸を打つ。だから名前は美しいものが好きだった。

「……楊ゼンさんって案外こういったことには気を回しませんよね」

 故に。天才道士楊ゼンの一際艶やかな髪も好ましく思っていたし、行軍中はそれが傷んでしまうのではとハラハラさせられた。
 だというのに当の本人はちっとも気にしちゃいない。そりゃあ人並み以上に身綺麗にしているし、他の道士よりも外見には気を遣っている。
 が、しかしそれはあくまで男の中での話。女人よりも余程麗しく美しいというのに、彼は名前程にも自身の手入れに時間を割いていなかった。
 それが、名前には堪らない。例え土埃にまみれようともその美しさが損なわれることは欠片もない。しかし世の中に永遠など存在しないのだ。いつ何時その髪が潤いをなくすか。気が気ではなかった。
 そんなわけでいつからか名前が彼の髪の手入れをするようになっていた。馬油を染み込ませ、象牙の櫛でとかし。そうして穏やかな夜を過ごすのが名前は一等好きだった。
 だからなんというか……心中としては複雑なのだ。世話をするのは好きだが、けれど彼の髪が傷むのは見ていられない。
 そう、名前は微妙な顔のまま楊ゼンの髪を梳る。

「でもお陰でこうして君を独占できるから、……うん、やっぱり改善はできそうにないな」

「うっ……、その言い方は卑怯です」

 その心中を見透かしたように。肩越しにちらりと向けられた目は悪戯に輝いている。麗しき翡翠の眼。それに見つめられるだけで弱りきり。だというのにそんな言葉まで添えられていてはーー名前は何も言えなくなってしまう。
 名前は呻き、口を尖らす。けれどしかしその手は欲に素直なもの。相変わらず丹念に櫛を通している。そんなだから楊ゼンもおかしそうに笑うのだ。

「でも少しは労ってあげてくださいよ?せめて頭巾を被るとかして……」

「うーん……、それはあんまり格好よくないね」

「……まぁ、確かに」

 辺りはすっかり闇。ぱちぱちと炎の爆ぜる音が耳につくほどの静寂。
 楊ゼンの前にある焚き火は決して大きなものではなかったけれど、その滑らかな輪郭や白磁の肌を照らすには十分だった。いや、その光が仄かなものであるからこそ一層その姿は儚げ。芙蓉の化身のようである。
 それが隠されてしまうのは名前としても心苦しい。勿体ない。もっと見ていたい。そう思わせるほどの魔的な力があった。
 殷の皇后、妲己には人を誘惑する術があると聞く。それは彼女独自のもの。他にはない力、だというがまったくもって疑わしい。名前には楊ゼンにもそうした能力があるのではないかと常々思っていた。

「じゃあせめて髪を括るとか。ほら、以前結わいていたことがあったでしょう?あれよりもずっとしっかり結い上げてくだされば……」

「なるほど……」

 名案だ。そんな風に名前は明るい声を上げる。
 対して楊ゼンはどうだろう。一理ある。そういった語調ではあったけれど頷く様子はない。一体何が不満なのか。
 そう問うと。

「だって君はそっちの方が好きだろう」

 ーーと。
 口角を上げて佳人は言う。ひとたび流し目を送れば城は傾き、もう一度見やれば今度は国が傾く。そんな人の言うことには不思議と説得力がある。そう言われれば確かに、と。
 名前は記憶を手繰った。己でも気づかぬこと。しかし彼には悟られてしまったこと。覚えはあるかと思い出を辿る。
 靡く清涼な蒼。それは澄んだ川の流れ。或いは天高く広がる蒼穹。それが宙を流れ、きらきらと光を放つ。
 その、様に。

「見惚れなかったと言えば嘘になります……」

「だろう?」

「……悔しいですが」

 美しいものは好きだ。目を奪われるのは本能的なもので名前自身にはどうすることもできない。
 しかし自分ですら気づかなかったことまで看破されるとは。
 口を曲げる名前に、楊ゼンはやはり肩を震わせる。「ねぇ、名前、」そして、ふと。笑いを消して、振り返る。

「……楊ゼンさん?」

 不意を突かれ、驚き瞬く目。それが楊ゼンの透き通った双眸に映り込む。凪いだ瞳。それは沈黙したまま、代わりにしなやかな指先が名前の流したままの黒髪を掬い取った。

「名前、君は永遠はないと思っているようだけど、」

 そっと屈み込む。目を伏せ、恭しく髪を一房持ち上げて。そうして寄せられる唇。その酷く緩やかな動きを、名前はどこか遠くから見ていた。絵画でも見ているような気分だった。

「……我れ君と相知り、長命絶え衰うること無からんと欲す。山に陵無く、江の水つくるを為し、冬に雷、震震として、夏に雪ふり、天地合すれば、乃ち敢えて君と絶たん、ってね」

 落とされる温もりが伝わることはない。決して有り得ないこと。そのはずなのに、いやに熱い。熱が駆け上り、頬は燃えるようだった。
 楊ゼンから移されたのだ。その穏やかな瞳。奥底で揺らめく焔。灯る熱が、名前に移る。眼差しと言の葉によって。
 それは永遠の愛を誓う歌だった。命ある限り、あなたへの愛は永遠に変わらない。山が平らになり、川の水が涸れ、冬に雷鳴が轟き、夏に雪が降り、天地がひとつに合わさる。そういう時が来ない限り、絶対に離しはしない、と。そんな熱烈な愛の歌だった。

「とはいえ君に世話されるのは好きだから、今のまま心配しててくれてもいいけどね」

 そんな歌で惑わしておいて。楊ゼンは瞬きのうちに炎を消す。瞳に横たわるのは心地のいい静けさ。とはいえ微笑は変わらず慈しむもの。髪を梳く指先も、また。

「わたしに、どうしろって言うんですか……」

「だから好きにしたらいいって」

 ほとほと弱り果てた名前には抵抗の術がない。偽ること、取り繕うこと。そんなことは忘れ去り、口を突いて出るのは真実。その一点のみ。

「……わたしはどっちもーーお世話するのも永遠もーーどっちも欲しいです」

 我が儘だ。しかしそれこそが本心。心からの望みは欲深く、けれど楊ゼンはそれを楽しそうに受け入れた。

「いいよ、叶えてあげる」

 笑いながら抱き寄せる手。その掌の上で弄ばれたのだと理解しても突き放すことなど思いもつかない。

「……どうにも敵う気がしません」

 その体に顔を埋め、悔しいと溜め息を溢すことしか、ーー幸福にともすれば緩みそうになる頬を抑えることしかーー名前にはできなかった。







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歌は漢代無名氏『上邪』より。