楊ゼン×原作沿い武官IF
同タイトルのものと同じ設定。魔家四将戦後、要塞建設中の話。
殷の時代、建築といえば土と木によるものであった。だがそれは未成熟、とても仙道の戦いに耐えられる代物ではない。
故に軍師が授けたのは磚ーーレンガの生成方法である。粘土を突き固めたそれは石積みの城壁など比べ物にならないほど。
「軍師どのには頭が上がりません」
彼が与えたのは磚だけではない。ほぞによる接合技術の向上、『ト』と呼ばれる支えのための部品。お陰で周の建築技術は大幅に上がった。
そう名前が本心から言うと、豊水にて手を清めていた楊ゼンは笑った。
「感謝など要らないでしょう。この要塞だって僕たち仙道のためなのですから」
楊ゼンは視線を走らせ、建築途中の建物を振り仰いだ。
殷と周の国境。そこに建てられている要塞は軍師太公望の指示によるもの。魔家四将の襲撃を退けて以来、この要塞の建築は始まった。
彼ら仙道の戦いは凄まじく、影響は広範囲に及ぶ。とても普通の人間が介入できるものではない。兵士とて、ただの屍になるのが関の山。ならば戦いの場を移せばいい、というのが太公望の考えだった。
彼は人を仙道の戦いから遠ざけたい様子であった。人間とてこの動乱の世の責はあろうに、それでも彼は名前たち兵ですら犠牲を出すまいとしていた。
「いいえ、それならば我ら人のためでもありましょう。ですからやはりありがとうとお伝えしたいです」
故に名前は太公望のことが好ましいと思う。どこまでも他者を思う心。その気遣いに胸を打たれないはずがない。自己犠牲の心すらも窺わせる様子に、だからこそ彼と共に戦いたいのだと思うようになったのだ。
「……そうですか」
その、心中までもを吐露したわけではない。
けれど天才道士にはお見通し、であったのだろう。彼は一段と表情を和らげ、微笑んだ。
世に並ぶことのないたおやかさ。玉の如き顏は神女を彷彿とさせる。
斯様に美しい人がこの人界に降り立ったというのは未だに信じがたいこと。仙道とはいえ元は人。そのはずだが、楊ゼンにはそんな面影はない。世俗の泥なども彼の前では自ら避けていくだろう。
「名前さま!豊邑から報せが届きました!」
改めて感じ入った名前の元。飛び込んできたのは一人の兵の声。まだ年若い青年の呼び声に、名前も楊ゼンも目を向ける。
と、途端に狼狽えるのは彼が未熟ゆえ。きっと楊ゼンの美しさにたじろいでいるのだろう。
そう微笑ましく思った名前は、常よりも柔らかく部下に答える。
「ちょうどあちらのことが気にかかっていたところです、ありがとう」
「い、いえ……!そ、それでは失礼いたします!」
名前としては青年の緊張を解きほぐすつもりだった。だが普段の行いが悪いのか。狩りや修練場で兵に指導している印象が強かったからだろう。労いに肩を叩いた、それだけで青年は体をびくりと震わし、慌てて駆けていってしまった。
行き場をなくした手は中途半端に宙をさ迷ったまま。追い縋ることもできず、名前は呆然と背中を見送った。……これは、日頃の行動を改めなければならないかもしれない。もっと女人らしく振る舞うべきか。いやしかしそれでは部下に示しがつかないだろう。ーーそんなことを悩みながら。
「随分慕われているんですね」
「いえ、今のは怯えられていただけでは……?」
だというのに、楊ゼンはのんびりとしたもの。どこか感心した様子で呟くが、生憎とそれは勘違いだ。言っていて悲しくなるがそれが真実。勘違いは今のうちに正しておかなければ。
と、微妙な顔で名前が言うと、楊ゼンはぱちりと目を瞬かせた。
「…………」
「な、なんでしょう、」
「いえ……、」
勿体ぶった様子で言葉を止め、それから楊ゼンは何故だか面白そうに目を細めた。意味深長な眼差し。含みのあるそれに名前は問い詰めたいと思った。
が、彼は微笑ましいとばかりに笑い、決して口を割ろうとはしない。「それよりも、」とたった今受け取ったばかりの木簡を指した。
「どなたからです?やっぱりお父上かな」
「……そのようです」
気にはかかるが問うてもはぐらかされるだけだろう。
真実を知るのは諦め、名前は刻まれた文字を追った。見慣れた筆致。父、南宮括のものだ。少々荒っぽいそれは所々理解するのに時間を要する。が、伸びやかなその様は平和な証とも言えよう。
「どうやら殷からの密偵が現れた模様です」
「って報告が来たってことはそのスパイさんは見つかったわけだ」
「ええ、そのよう……ですが、」
歯切れ悪く答えると、楊ゼンは首を傾げる。いったいどうしたのか。眼差しで問われ、名前は再度木簡に目を落とす。
そうしたって内容は変わらない。殷からの密偵、ケ蝉玉。彼女は太公望に正体を暴かれ、白日の元に晒された。
……が、しかし。
「しかし周は密偵の方を受け入れたようです」
「は?」
虚を突かれた。そんな風に目を丸くする楊ゼンは珍しいもの。だがそれも致し方ないこと。何せ名前だって目を疑った。密偵を受け入れた、だって?それはもう心が広いどころの話ではない。
俄には信じがたい報告に、名前と楊ゼンは顔を見合わせた。
「えーっと、寝返った、ってわけじゃないんだよね?」
「はい、密偵であることを明らかにしたまま、今もまだ周の情報を集めているらしく……」
「……わけがわからない」
頭を抱える楊ゼンに、名前は木簡を差し向けた。口で説明するより見てもらった方が早い。そう思い、手渡そうとしたのだが、楊ゼンがそれを受け取ることはなかった。
「……本当だ、そう書いてあるね」
楊ゼンは名前の手元、木簡を覗き込む。身を寄せて、顔を近づけて。すぐ隣、衣擦れの聞こえるほどの距離。さらりと流れる楊ゼンの髪が名前の頬を擽った。
「ケ家といえば殷の名家。いずれは一族ごと引き込むつもりでしょうか、太公望どのは」
「うーん、そこまで考えてるのかな……。いやでも師叔なら有り得るか。わざと道化を演じて負けるのも計算の内かもね」
「はぁ、やはりすごいです。己すらも駒にするとは」
けれど嫌な感じはしなかった。
縮まったのは物理的な距離。けれど名前には全く別のーーつまりは精神的な繋がりをもーー感じさせたのだ。
楊ゼンといえばどこか距離のある人だった。あくまで仙道。そういった様子で人と深く関わろうとはしない。勿論親切であったし、仕事仲間としてはこれ以上ないというほど頼りになった。
それでも消せない壁がある。この国を横切る黄河のように、深い深い隔たりがあるように思えてならなかった。
「名前さんは本当に師叔のことを尊敬しているんだね」
「はい、だってあれほど民に心を砕いてくださるんですもの。微力ながらもお支えしたいと願うのが道理というものでしょう?」
「ははっ、それは褒めすぎな気もするけどね」
けれど、今。交わす言葉はどこまでも近しい。そう感じられ、名前は微笑んだ。
「しかしこうなったなら早く豊邑に戻らなくてはなりませんね。いくら太公望どのが良しとしたとしても、やはり自分の目で確かめないことには安心できませんから」
「そうだね、彼女の宝貝がどんなものかも知りたいし。こちらも殷の情報を引き出せたらいいんだけど」
空では鳥が羽ばたきねぐらへ帰る頃。暮れなずむ草原を二人並んで歩き出す。昨日よりもずっと縮んだ距離を間に挟んで。