春はまだ遠く


 亀の中には微かな振動すら伝わらない。静寂。穏やかな春の日の午後。そんな具合であるのに、室内は何故だか張り詰めた空気に支配されていた。

「なんかよぉお……スゲー険悪なムードになっちゃってるんですけど……」

 ジョルノに耳打ちしたのはナランチャだ。しかし彼は皆の代弁をしてくれていた。険悪なムード。そうとしか言いようがない現状に、名前は様子を窺うことしかできなかった。
 無論それは名前だけではない。その両隣、フーゴとアバッキオもおんなじだ。フーゴなんかは雑誌で自分と名前の顔を隠しながらも、その壁からひっそりとトリッシュを注視している。
 顔を背けたままの彼女。けれど皆が注目してるのに気づかないはずはない。が、話しかけるなという空気を纏ったまま。依然として口を引き結んでいる。
 ブチャラティはブチャラティで難しい顔をしている。視線は組んだ腕の上。その眼差しが何かを語ることはない。言葉なんかはもっての他。お陰でおいそれと口を利ける状況ではなくなってしまった。

「トリッシュ、ブチャラティに何か厳しい事でも言われたのかな?」

 故にナランチャの声も抑えられたもの。常では考えられないほどひっそりと呟く彼の目は心配そうなもの。心優しい彼はトリッシュのことを気にかけているのだ。

「いや……きっとブチャラティが何も言わないから彼女は不安になっているんだ」

 そしてその問いに答えたジョルノは答えを知っているらしかった。或いはその明晰な頭脳で推測を立てたのか。
 名前にはそんな芸当はできないので感嘆の息を吐くしかない。

「なるほど……」

 言われてみれば確かに。
 追っ手はトリッシュをスタンド使いだと思っているようだが、そんな様子は見られない。父親がスタンド使いならば今後発現する可能性は高いだろうが、しかし彼女は普通の少女だった。
 能力者同士の戦いに無知。であれば巻き込まれただけの現状に困惑するのも、詳細が語られないのにももどかしさが募るだろう。
 けれど残念ながら名前にも彼女の求める答えは与えられなかった。彼女が普通の少女であるからこそーーギャングではないからこそーーこちらの世界のことは話せない。それがこの世界の常識であり、彼女のためでもあるのだ。
 だがトリッシュはーージョルノの言う通り、不安で仕方ないだろう。それが苛立ちとなり、沈黙を守るブチャラティに向けられてもおかしくはない。

「ジョルノは人のことをよく見てるのね。私、そこまで気が回らなかったわ」

「いえ、たまたまですよ」

 気にかけているようで全然思いやれていなかった。真実を話すことができなかったとしても、彼女の気持ちを解すことくらいはできたはずだ。なのに目の前のことに囚われて周りが見えていなかった。
 猛省する名前に、ジョルノは仄かな笑みを刷いた。
 しかし瞬く間にそれをかき消し、再度トリッシュを見やる。

「でも彼女、意志の強い人ですね……。泣いたりして騒がれない分だけましだと思いますが……」

「そうね、私だったらあんな落ち着いていられないわ」

 きっとジョルノの言うような醜態を晒していたろう。十五歳。その頃にはまだエジプトへの旅も始まってなかったからーー。
 そう小さく顎を引く名前の隣。ブチャラティを気にしていたアバッキオが、名前の言葉に鼻を鳴らした。
 「なに?」なんだか嫌な予感がする。そう思いながらアバッキオを見上げると、かち合うのは意地の悪い笑み。口角を持ち上げた彼は「いや、」と首を振りながらも言葉を止めることはしない。

「お前は今だって落ち着きがないだろうと思っただけだ」

 そんな、皮肉っぽい言葉を。

「……そういうのは思うだけに留めてほしいわ」

 言われ、しかし名前に反論の言葉はない。心当たりはある。ありすぎるほどに。自身でもよくわかっていたから、名前は不服げに睨めつけることしかできなかった。
 が、そんなものは小さな抵抗。街のゴロツキ共を相手にしているアバッキオには通じない。
 彼はひょいと肩を竦め、「聞いたのはお前だろ」と返してくる。反省の色はない。むしろその瞳の奥は楽しげである。

「それはそうだけど……」

 だからこそ悔しくて名前は口を尖らせるのだが。

「ちょっとフーゴ、笑わないで」

「いえ、まさか」

「うそ、絶対笑ってたわ」

 くつくつと笑いを噛み殺す気配。揺れる肩を目敏く捉え、名前は詰問する。
 しかしここでも待ち受けるのは敗北。明らかに笑っていたというのにフーゴは認めようとしない。
 そして彼の目もまたアバッキオと同じ。愉快げに細められているものだからーー名前は口を曲げた。
 ーーさっきはあんなに優しかったのに!
 ここにはもう味方はいない。両隣、敵に挟まれた名前は援軍を求めて振り仰いだ。ジョルノ、きっと彼なら慰めの言葉をくれるだろう。ナランチャだって、きっと。
 そう思った時だった。

「うわっ」

「……っ」

 耳障りな音。と同時に傾く体。何かが擦れる音を立てながら車は大きく弧を描く。加わる力は絶大。不意を突かれた身に抗う術などなく、名前は左隣、アバッキオの胸元へと倒れ込んだ。

「あ、ごめんなさい」

「いや……」

 けれどその体がそれ以上さ迷うことはなかった。抱き留める力強い腕。名前よりもずっと大きな体が支えてくれていたから。
 停車する車。慌てて身を起こし、頭を下げるが、アバッキオは言葉少な。その様子も逞しい体も、名前に幼馴染みを思い起こさせた。口ではああいう癖、本質はとても優しいものなのだ。

「大丈夫ですか、名前」

「ええ、でもいったい……?」

 これまでトラックは順調に進んでいた。ミスタが見張っていたから敵の襲来があったわけでもないだろう。実際停車した後も辺りには静寂が満ちている。単純に事故でも起きたのだろうか。だとしたら運が悪いにもほどがある。
 そう考えながら答える名前に、フーゴは優しげな目を向ける。が、しかしそれはたちまちかき消え、

「おいミスタ!おまえ今天井見張ってたよな、何があったんだ?」

「え?オレ?」

 ミスタを指差す顔はひどく険しいもの。だが名指しされたミスタは頓狂な声を上げる。わざとらしい、演技がかった語調で。

「い、いやぁ……全然見当もつかねえなあーー、ちょーど見てなかったもんで……あれェーーもしかしてトラック止まっちゃってるのかなあ〜〜〜」

 なんだかおかしな態度だ。見張りを任された彼が異変を見過ごすなんてこと、これまであっただろうか。……なかった、はずだ。
 しかしミスタは疑問を挟む余地を与えなかった。運転手が居眠りでもしていたんじゃないか。でも大丈夫、車を乗り換えればいいじゃないか。そう言葉を連ねて、さっさと亀の外へと出て行ってしまった。

「……なんかヘマしたな、あいつ」

 そう呟いたのはアバッキオだけだったけれど、名前も同感だった。