名前の所持品は必要最低限のものしかない。だから家にあるのは家具だけで、そこが守るべき場所だという意識は低い。一応の住み処。借りの宿。そういった認識だ。
とはいえその家の主は名前で、住人も名前しかいない。それなのに、どうして。
「また来たの」
呆れ半分に名前は言った。
ドアを開けた先。玄関に上がった時点で名前の鼻は覚えのある匂いを嗅ぎ取っていた。だからリビングまで行く間に呆れは遠退いていたのだけれど、その姿を見るとこう言わずにはいれなかった。また来たの、スコッチ――と。
スコッチとはもちろんコードネームだ。本名は知らないし名前にはどうだっていい。とにかく組織ではスコッチと呼ばれる男は、名前の家で名前のリビングで名前のソファを独り占めして寝っ転がっていた。
「おお、おかえり」
早かったなぁ、と大きな欠伸。整えていないのか、疎らに生え揃った髭がなんともだらしない。そこにもまた溜め息が出る。「こういうのを"ちゃらんぽらん"って言うのね」覚えたての日本語はまだつたない。上がるんだったか下がるんだったか。音の具合が定かでない。また今度、聞いておかなくては。
今日組んでいた相方を思い浮かべながら、名前は腰に手をやった。
「人の家でなにを呑気してるの」
「ええ、なにを今さら」
スコッチは自分の家みたいに気を抜いている。寝癖が飛び出た髪をさらにぐしゃぐしゃにしたり。シャツを捲ってボリボリお腹を掻いたり。別に、名前は気にしないのだけれど。でも、
「だって、バーボンが」
良くないって、言ってたんだもの。
そのままを伝えただけなのに、なんだか決まりが悪い。決まりが悪いし居心地が悪いし据わりが、悪い。だから最後の方はちっちゃくなってしまった。ぼそぼそ。言い訳する子どもみたいに俯いて。見下ろした先には所在なさげな指先が戸惑っていた。
「へぇ、」バーボンが、ねぇ。スコッチは含み笑う。バーボンがね、そうかそうか。ニヤニヤニヤニヤ。
「なんで笑うの」名前が咎めてもちっとも言うことを聞かない。「そりゃ嬉しいから笑うに決まってるだろ」なんて、意味がわからない。
「もう、」名前は口を尖らせた。
「バーボンはそんな風にしないのに」
「そんな風ってどんな?」
「そうやって、意地悪しないってこと」
名前は言って、肩に背負いこんでいた荷をテーブルに下ろした。中身はタオルとか化粧品とか、そういったごくありふれたものだ。そうではない幾つかの荷物は既に処分してあった。
そんな軽い鞄でも下ろすと幾分か気が楽になる。それはきっと猟犬から人へとかえるからだろう。鉄錆からの解放。仕事をする上で最も幸福な一瞬だった。
なのに、名前の安息にスコッチは土足で踏みいってくる。
「そうかそうか、お前はバーボンの優しいとこが好きなんだな」
「……誰もそんな話してないのだけど」
荷を解きながら名前は答えた。スコッチに背を向けて。ただ鞄を開け中身を片づけていく。
でも彼は怯まない。
「まぁまぁ、そう拗ねるなって」
朗らかにそう言って、ソファを立つ。ぎぃっと鳴る嫌な音。いい加減直した方がいいのかしらと頭の片隅で思う。共同住宅の一室。組織から支給されたままのソファは革がところどころ剥げ始めていた。
「嬉しいんだよ、俺は。二人が仲良くやってくれて」
頭に置かれた手に振り返る。「どうして?」見上げた先にあるいつもの黒い目。黒いのにどこか青を想起させる瞳。そう、彼の目は夏の色をしていた。それが日常に溶けていくのが嬉しいのに、時々名前には怖くなる。怖くて、見えないフリをする。
「そりゃ仲いい方がいいだろ?仲間なんだし」
――今も。
スコッチの目はどこまでもまっさらだ。遠く遠くの青を連れてくる。名前に、夢を見させる。
仲間。とスコッチは言うけれど。でも名前は二人とおんなじにはなれない。だって名前は狼だ。組織の猟犬。飼うものと飼われるもの。どうたって対等にはなれない。なれるはずもない。そもそも、望むことすら。
けれどスコッチはそういうものを容易く乗り越えてしまう。温かな手にあやされながら、このぬくもりを喪う日から目を背けた。今は、今はまだ、このままで。
「さぁ、名前、」
「……うん」
促され、共にソファに沈む。「おつかれさま」撫でる手は幼子を相手にするようでくすぐったい。
「仕事は無事に?」
「じゃなきゃ私はここにいないでしょ」
「そりゃそうだ」
からからと軽快に笑う。改めて、彼はここにふさわしくないと思う。もっと別の――それこそ真逆の組織こそ彼には似合う。でも名前は意地が悪いから口にしなかった。決めたのはスコッチだもの。そう、言い訳して。
「バーボンとはうまくやれたか?喧嘩しなかった?」
またバーボンの話か。スコッチはどれだけ名前とバーボンの仲を気にかけているのだろう。
「彼がうまくやれない日があった?」名前は床に置いてあったペットボトルを手に取った。が、キャップが簡単に回り、開封済みということが分かる。だが中身はさほど減っていない。その横には、やっぱり飲みかけのペットボトルが一本。
「ちょっと、なんでいくつも開けてるの?」
「え?そうだったか?」
スコッチはペットボトルを拾った。彼の目にも二本が飲みかけだと映ったらしい。決まり悪げに頭を掻く。「あー……」悪い。右手で謝るジェスチャー。名前はそれでは足りないと彼の手の甲をつねった。「痛い痛い」笑いながらで説得力もなにもあったものじゃない。
「人のものを勝手に……」
「いやほんと悪い。今度奢るからさ」
ごめん、と言われれば許すほかない。勝手に冷蔵庫から持ち出され勝手に飲み散らかされたとはいえ、もとより拘りなどないのだから。だいたいこれが始めてでもない。スコッチは平気で名前の家に私物を持ち込むし、そしてそれが名前のものと混ざってしまってもまったく気にしない。それは名前もまた。
でも簡単に許してしまうのはもったいない気がして、スコッチの言葉に頷いておいた。「楽しみにしてる」何がいいかしら。そういえば、バーボンがおすすめのお店を教えてくれた。そこに連れていってもらおうか。あぁ、でも、どうせならバーボンも誘ってみたい。
そんなことを考えながら、新しいペットボトルを冷蔵庫から出した。汗ばむ肌に吸い付く水滴が気持ちいい。
「それで?バーボンとは仲良くやれたか?」
「……まだ続けるの」
名前は仕方なくソファに戻った。そうすると今度はスコッチの膝の間に座らされる。そして彼は名前の髪を意味もなくすいた。
スコッチに折れる気配がないことを察すると、名前は渋々口を開いた。あまり、仕事の話はしたくないのだけれど。
「バーボンは……そうね、さすがとしか言いようがないわ」
今日の――いや、もう昨日になるのか。名前とバーボンはとあるパーティーに参加していた。もちろん遊びではない。情報収集の一環だ。バーボンはターゲットの昔の部下で、名前はその恋人。どちらも設定だけで嘘にまみれてる。ターゲットが年老いていることにつけこんで、バーボンはうまいこと男の過去になった。
「ターゲットの来歴を調べるのは当然だし、その中の誰かに成るのもありふれたことだけど、バーボンの演技力はすごいわ。ベルモットにも張り合えるんじゃないかしら」
「べた褒めだなぁ」
「だって本当にすごかったもの」
ほうっと息を吐き出す。染み出す憧憬。彼は、本当にすごい。
飽きたのか、スコッチは名前の髪から手を離した。でも次にその手は名前のそれに伸ばされる。重なる指先。名前の彩られた爪を弄びながら、スコッチは笑った。「そうだなぁ、」頭に降りかかる吐息がくすぐったい。
「俺もすごいと思うよ」
その声音には何かが滲んでいた。名前のものとは違う、何かが。名前にはそれがどこか悲しい色であることしか分からなかったが。
訊ねようと、振り仰ぐ。けれどそこには彼のいつもの笑顔があった。太陽のような、名前には眩しすぎる笑み。朗らかで、あたたかくて。だから名前は諦めた。きっとスコッチは秘密を話さない。そういうところだけスコッチとバーボンは似ている。
「なぁ、バーボンっていい男じゃないか?ジンよかずっと。……あ、もちろん客観的に見てって話だぞ?俺が女だったらとかそういう気持ち悪い想像するなよ?」
「誰もそんな話してないじゃない」
「いやいやこういうことは先んじて言っておかないとだな、」
名前は何も知らない。何も気づかない。そういうこと。それで、スコッチともバーボンともやっていける。
このときの名前はただ安寧を望んだ。永遠などないと知りながらも仮初めと認められなかった。名前にできたのはただスコッチの求めるままに振る舞うことだけ。彼がさも下らない話をしているという風を装いながら、水面下で何を考えているのか。その顔が真面目なものであることなど、名前は知らないままでいいのだ。
「それで、どうだ?今日……じゃない、昨日か。昨日一晩恋人のフリしてドキドキしたろ?」
「するわけないでしょう、仕事なんだから」
「でもさぁあのバーボンとだぞ?なかなかいないだろあんなかっこいい男」
名前はスコッチの顔を見ないで済むよう窓の向こうを眺めながら考えた。「そうね……」高く澄み渡った空はバーボンの目のようだった。それを美しいと思うのは正しいのだろうか。その正しさは誰にとってのものだろうか。
「……ここで私がバーボンを認めたらどうなるの?」
「え、」
一瞬、虚を突かれた。そんな声だった。「うーん……」それから思案する唸り声が続く。名前の頭に顎を乗っけて、スコッチは思考しているらしい。彼が何を言うのか、何を名前に求めるのか。殻の奥がぴりぴりと疼いた。はりつめた心臓が様子を伺っている。
「そしたら、名前に頼もうかな」
スコッチは言った。なんでもないように。昼食をどうするか決めるかのように。あっけらかんと。名前に言う。
「もしものとき、バーボンと名前が支え合えるようにって」
「……なにそれ」
思わずスコッチを見た。ぐるりと体を反転させて、真正面から見た。
スコッチはあいかわらず笑っていた。とても真剣な話をしているようには見えない。いつもの冗談を言っているときの顔。からりと上がる口角に細まる目。人好きする笑みで、もしもの話をする。
「もしもだよ、もしも」
あくまで仮の話。空想の世界。なのに名前には容易に思い描けた。そんな未来が見えてしまった。
「もしも、なんてない」
名前は目を閉じた。それだけでは心許なくて、スコッチの胸に顔を埋める。筋肉の隆起と呼吸する心臓。それに触れているのに、不安は消えない。
「バーボンに支えなんているのかしら」口早に言うのは焦りから。でもそんな自分からも目を逸らしたくて、スコッチの冗談に乗る。彼の目論み通りだとしても、名前にはそれしかない。
「なんでもできるのよ、バーボンは。私なんか、いなくたって」
「そんな人間いやしないさ」
スコッチは名前の背を抱いた。撫でる手は穏やかであたたかいのに、どこか寂しさを纏っていた。
「だから、もしものときは」
頼んだ、と彼は言った。名前の父であり兄であり師であり友である男が初めて名前にした頼みごとがこれだった。
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お題箱よりスコッチにのろけ話をする、です。
唖然とするスコッチを入れ忘れましたすみません!でもスコッチはのろけられても我がことのように喜ぶと思いますたぶん。