夕闇に鳴く鶫


 日はとっぷりと暮れ落ち、辺りには宵闇が垂れ込める。灯りとなるのは高速道路の照明と、レストエリアから漏れ出る光のみ。車を盗み出すには絶好の機会であった。
 そんな微かな灯りの下、名前はフーゴと顔を突き合わせて地図を覗き込んでいた。ヴェネツィアまで、高速道路ならば最短で約五〜六時間。これから取るべき経路をなぞり、名前は高揚を抑えて口を開いた。

「運転手が盗まれたのに気づくのと、蛙が車の部品に戻るの、それからその二つを結びつけるのに……この時間なら六時間以上は絶対にかかるわ」

 たかが盗難。警察もわざわざ夜更けまで捜索に駆けずり回ったりはしないだろう。追手が警察とどれほど親密かは知らないが、そこまでの権限があるとは思えなかった。
 そう名前が言うと、フーゴも答えて顎を引く。

「ええ、この方法ならひょっとしたらヴェネツィアに着くまで追手を完全にまけるかもしれませんね」

 彼の語調は普段通り。表情も落ち着いたもの。けれど肩を寄せている名前にはわかった。彼もまた高揚を抑えているということが。

「この車に決めようぜ!!」

「ナランチャ!『目撃者』なんぞいねーようにしっかり見張ってろよ」

 背後ではミスタとアバッキオが車を物色していた。相も変わらず駐車場は静寂に包まれ、人っ子一人いる気配もない。亀はジョルノが持っているし、見張りはナランチャだけで十分だった。

「『今なら盗み時』っスよォ〜!!現在オレたちの百メートル以内には人間はひとりもいねえからよォォーー」

 エアロスミスで辺りを探りながらナランチャは言う。のんびりとした調子。エアロスミスの性能は確かなものだ。だから名前たちは安心して作業に集中することができた。

「それで?誰がやる?」

「ここはオレの出番だろう。この車にしようって言ったのだってオレだ」

 フーゴは「好きにしたら」と肩を竦めた。ーーここはミスタに花を持たせてやろう。そう言わんばかりの目配せに名前とアバッキオは密かに笑った。

「そうだな……、一分以内にエンジンをかけられたらさっきのミスも帳消しにしてやるよ」

「バ……ッ、そりゃムチャだろッ!!」

「やってみなきゃわからないわよ、ほら急がなきゃ」

 ひとり運転席に乗り込んだミスタは気づかない。アバッキオの目が揶揄いに満ちているのも、名前の口角が上がっているのも。そして何より、自白してしまっていることに。
 先刻まで乗っていたトラックが突然事故を起こした。その理由は依然としてわからないが、やはりミスタが何かやらかしたのだろう。
 予想は的中。名前たちは笑みを交わし合う。たぶんブチャラティは未だ気づいていない。だからまぁ、ここは口を噤んでおいてやろう。

「貸しひとつだな」

「そうね、……何で返してもらおうかしら」

「たっぷり考えとこうぜ」

 にやりと耳打ち。悪い顔で笑うアバッキオに名前もくすくすと肩を揺らす。……ミスタの反応が楽しみだ。慌てふためく様を想像し、また笑みを深めた。
 ーーそんな時。

「どうかしたのか、ナランチャ」

「いや……」

 首を巡らせたナランチャが一点で止まる。そのまま数秒。目を馳せるものだから、アバッキオが声をかけた。
 ーー何か、異変でも?
 そう緊張する名前だったけれど、振り返ったナランチャの顔は静かなもの。穏やかな緑の広がる景色を背に、彼は「なんでもない」と続けた。

「ジョルノのやつが手を振ってただけ。きっとブチャラティが早く車を手に入れろって催促してんだよ」

 その言葉に顔色を悪くしたのはミスタだ。

「だから焦らせんなって!今エンジンかけっからよ!!」

 オレンジの車は低く唸りを上げる。動き出すまであと少し。けれどそこからが難しいところ。なかなか宣言通りにいかず、フーゴは「手伝うかい?」とドアに手をかけた。

「いい、いい。大丈夫だ、問題ねぇ」

「けど早くしねぇとブチャラティがキレるぞ」

「ナランチャに見てもらったら?こういうのすっごく巧いし」

「なに?代わる?いいぜ、どうせ誰も来やしないし……。つーかミスタって案外不器用なんだな」

 平気だと片手を振るミスタに。アバッキオ、名前、そして話を振られたナランチャが次々に口を開く。
 と、ミスタの眉がぴくりと動いた。

「うるせえ。オレはお前と違って優等生なんだよ」

「へえ?」

 ーー誰が優等生だって?
 その思いは皆同じ。代表して片眉を持ち上げたのは元優等生のフーゴだ。彼は冗談だろうと笑った。ミスタが健全な精神の持ち主ならスタンドなんて発現しちゃいないだろう。そもそもこんな世界に身を落とすことだってなかったはず。
 そう言外に言うが、ミスタはフーゴを無視して名前に目を移した。

「お前だってそっちの方がいいよな、なぁ名前?」

 突然水を向けられ。名前は暫し瞬いた後で悪戯っぽく笑った。

「どうかしら。ほら、女って悪い男の方が惹かれるものじゃない?」

 あくまで冗談。けれどその全てが嘘というわけではない。名前の思考は学生時代へ。高校時代、近隣の学校の中では一番の不良だった幼馴染みが、けれど同時に一番の人気者でもあったのを思い出していた。
 それに、と名前は思う。名前自身だって特別優等生なんかじゃない。幼馴染みが幼馴染みであったから、名前だって盗んだバイクに乗せてもらった経験くらいある。
 それに今ではナランチャからの教えのお陰で車の盗難の仕方だって学んだ。結構いい線いってるんじゃない?とはナランチャの言葉だ。
 名前が言うと、「確かに」とアバッキオが頷く。どこか訳知り顔で。彼は大人だし警察官だったからそういった女をよく見てきたのだろう。

「マジかぁ〜、オレみたいないい子には生きづらい世の中だぜ」

 アバッキオにまで肯定され、ミスタは大仰に溜め息を吐く。落ち込んだ様子に名前は笑い、それから身を翻した。

「どこ行く?」

「ジョルノのとこ。ブチャラティがそんなに急かすなんて気になるし」

 アバッキオの問い掛けに名前は眉尻を下げる。
 ブチャラティはそんなに気の短い性格じゃない。ミスタの手際だって悪いわけではないのだ。むしろ素早い方で、だからこそここまで急き立てるのは気にかかった。

「急かしてるのはトリッシュかもな」

「だったらなおさら行かないと」

 ナランチャに答え、名前は駐車場の外へと向かった。いつの間にかジョルノの姿がない。そのことに訝りながら。