フーゴ√【バレンタイン1】


アンケート1月分1位記念。
本編完結後。恋人設定。





 二月十四日、サン・バレンティーノ。恋人たちの日に、けれどぼくの気持ちは重く沈んだまま。

「名前……」

 溜め息と共に零れるのは愛しい人の名前。しかし常とは異なりそこには憂いが色濃く滲んでいる。そう、ぼくの心を如実に映し出して。
 鬱屈とした影を背負い、机に向かっていると、隣から「おいいい加減にしてくれよ」といった非難の声が持ち上がった。

「そう何度も溜め息を吐かれちゃ気になって仕方ねぇ。お前のせいでほら、これを見てみろ……真っ白のままだ」

 パッショーネ本部。事務的な仕事をこなすため、ぼくと同じく書類に向かっていたミスタは一文字も進んでいない報告書を示して見せた。
 だがそんなことはぼくにとってどうでもいいこと。

「筆が遅いのはいつものことだろ。ぼくのせいにしないでくれ」

 それどころじゃないのだ、こっちは。生命の危機。そう言っても過言ではない。それほどにぼくは追い詰められていた。
 だからミスタの抗議も聞き流す。今ぼくが話したいのはこの男ではない。下らない応酬をしている余裕もない。ぼくが考えなければならないのはたったひとつ。ーー名前、彼女のことだけだ。

「……はぁ、」

「〜〜〜っ、だからッ!それッ!ヤメロって言ってるだろ!!」

「うるさいな、ぎゃあぎゃあ喚かないでください。それに比べたらぼくの溜め息なんか可愛いもんでしょ」

「オメーのどこが可愛いんだよ!!!」

 ドンと揺れる机。脳内を揺らされる感覚。響く音に顔を顰める。このところよく眠れていなかったから、余計に。
 そうするとミスタは眉根を寄せて尚も言い募ろうとした。恐らくは文句の類いを。言いかけて、けれどふと。深々と息を吐き、首を振った。
 「なんです?」やれやれとでも言いたげな様子に片眉を上げる。が、ミスタが向けるのはいやに優しい眼差し。

「しょうがねぇなァ〜〜〜……、聞いてやるよ。ほら、話してみろ」

「ミスタ……」

 それは兄貴ぶったもの。たぶんきっと、そういった種類のものだったのだろう。ぼくに兄弟はいないからなんとなくでしかわからないが。
 「ま、オレくらいしか相談に乗れる男はいないだろうが」オレは優しいからな、と嘯く口。ぼくの肩を叩く手は慰めの色。底抜けなほどに明るい笑みを、ぼくはぼうと見上げた。

「君……意外と気が利くんですね」

「お……っ、前なぁーー……一言余計だっての」

「冗談ですよ、……ありがとう」

 正直なところ、こういうことには慣れていない。それはミスタも同じだろう。だからぼくの声はともすると見失うほどであったし、ミスタもミスタで聞き返すことをしなかった。ただ虚を突かれたように一瞬だけ目を瞬かせ、……気づかぬ振りをした。

「あー……それで?何があったんだって?」

 頭を掻き、それから。握っていたペンは白紙のページの上。転がせて、ミスタは頬杖をついてぼくの顔を覗き込む。
 その瞳に瞬くのは好奇心。だが不快感はない。むしろその軽さが今のぼくにはちょうどよかった。変に深刻になられても、ぼくまで釣られて気落ちしてしまいそう。そんな気分だったから。
 だからぼくは「大したことじゃあないんですよ」と笑いながら前置きすることができた。大したことじゃあない。……きっと、ぼく以外の人間にとっては。ほんの些細なこと。気にしすぎなのだとはわかっている。
 わかっているが、それでも。

「……最近、名前に避けられてるような気がして」

 ーー彼女のこととなると話は別。
 女々しいとも思うが、しかし心はままならぬもの。一度『そう』思ってしまったら、後は坂を転がり落ちる石のよう。思考は沼に引きずり込まれ、容易には浮上しない。
 ーーあぁ、熱病とはなんと厄介なものだろうか!
 彼女がどんな性格かはぼくだって理解している。そしてそれはミスタも同じ。
 だから彼は「そうか?」と訝しげに眉をひそめた。

「オレが見る限りじゃあいつも通りって感じだけどな」

 名前は嘘を吐くのが苦手だ。ついでに言えば隠し事も。だからぼくの想像は『有り得ない』こと。そうミスタは言う。

「勘違いじゃねぇの?お前神経質だからよぉ……」

「失礼な。細やかと言ってください」

「物は言いようだな……」

 ミスタは呆れた風に目を細める。が、ぼくは無視した。ここで構っていたら話が進まない。
 「ともかく」ぼくは咳払いをして言葉を続ける。「そうとしか思えないんです」

「ここのところ仕事でも顔を合わさないし、昨日も一昨日もトリッシュと遊ぶからって家にも帰ってないんですよ」

「いやそんくらい普通だろ」

「不良の君と名前を一緒にしないでくれ」

 あくまでミスタは名前の肩を持つ気らしい。
 ……まさかこの男、何か知っているのでは?
 ミスタと名前。性質は正反対だが、何故だかこの二人、馬が合うらしい。トリッシュと三人遊びに行くこともしばしば。となると名前から話を聞いていても不思議ではない。
 そう思い至り。しかしミスタは慌てて両手を振る。「睨むなって!」濡れ衣は止してくれと訴え、彼は表情を改めた。

「わかった、真面目に考える」

「……真面目に聞いてなかったのか」

「だって面白そうだったから……うそうそ、冗談だっつーの。だからそのペンは置いとこうぜ、なっ!?」

 万年筆の先を向けると流れる冷や汗。そんなに焦るなら最初から言わなければいいのに。なんというか、学習能力のないヤツだ。
 汚名返上。名誉挽回。そんな具合にミスタは殊更真面目な表情を作ると、まっさらな紙を一枚、ぼくたちの間に置いた。

「けどよぉ……考えようによったらこれはチャンスだぜ」

「は?」

「今日はサン・バレンティーノ、だろ?女を喜ばせるには最高の日じゃねぇか」

 女なんてのはプレゼントのひとつでも贈ってもらえればコロリと機嫌を直すものだ。
 ミスタは訳知り顔で語るが、ぼくの視線は疑わしげなまま。だって、説得力がない。この男に長く連れ添った恋人がいるならまだしも……、やはり相談相手を間違えただろうか。

「プレゼントを贈るのは当然だ。ちゃんと用意してある」

 チョコレートと深紅の薔薇、ジュエリーに香水。それからリストランテの予約だって済んでいる。
 そう言い切ると、ミスタは顔を仰け反らせた。「重……」引くわ、と呟く声にぼくは首を傾げる。確かに今日はそこまで大々的な記念日ではないけれど、想いを伝える日ならばこれでも遠慮した方だと思う。

「ま、まぁそんだけ準備してあるなら大丈夫だろ。名前だって惚れ直すって……うん、たぶん」

「なんだよ、はっきりしないな……」

 ミスタの反応は微妙なもの。相談に乗ると言い出したのは彼の方なのに。結局まともなアドバイスはひとつもなかった。
 ……でもまぁ、悩みとは聞いてもらえただけでも少しは晴れるもの。

「……それ、半分貸してください」

「それ?」

「……報告書、手伝ってやりますよ」

 これで貸し借りはなしだ。
 そう言うと、ミスタはぱっと目を輝かせた。……まったく、現金なヤツだ。