ミスタ√【ハプニング】起
ーーいい夢を見せてあげよう。
露店商の男はそう言って笑う。人差し指と親指によって吊るされる小瓶。揺れる硝子瓶の中には星の輝き。琥珀色の飴玉が蠱惑的にちかちかと瞬いた。
なのに何故だかその光から目を離すことができなかった。
ーーあぁ、目が眩む。
気がついた時、ミスタは奥深い森の中に立っていた。
「……うん、こりゃあ夢だな」
記憶を遡ろうとしても先に待ち受けるのは濃霧。意識を取り戻すまでの自分がどこにいたのか、何をしていたのか。それさえも思い出せない。
だから、たぶんこれは夢。起きたら零れ落ちるだけの儚い時間。
そう考え、ミスタは辺りを見回した。夢とわかっていても周囲に気を配ってしまうのは……悲しいかな、職業病のようなものだ。
とはいえ辺りに自分以外の気配はない。陽光すら遮る背の高い木々。深く生い茂る緑。足元に散らばる木の枝を踏み割るのはミスタの足だけ。小鳥の囀りも動物の足音も何も聞こえてこない。自身の呼吸音ばかりが耳について、ミスタは顔を強張らせた。
ーーこれは夢だ。
そうわかっているが、静寂というのは否が応にも緊張感を高めてしまう。孤独は人の心を弱くする。それはミスタとて例外ではない。
だからミスタは己のスタンドに声をかけようとした。
「ピストルズ……?おい……まさか……」
手には慣れ親しんだ感触。ずしりと重い拳銃はミスタの記憶通り。
だがしかし、そこにいつもの影はない。ミスタのスタンド。セックス・ピストルズ。その六人すべてがミスタの呼び掛けに答えなかった。
「夢……だからか……?それとも…………」
その続きは声にならなかった。
別に怖じ気づいたからじゃない。それよりも早く、速く、ーー響き渡るのは悲鳴。
「……ッ!!!」
沈黙を守っていた森が揺れる。ゴォと風が吹き、木の葉を散らす。暗雲。垂れ込める空の下、ミスタの足はひとりでに駆け出していた。
悲鳴が聞こえた。その方向へ向かって脇目も振らず。降りかかる木の葉を払い除け、木の枝が肌を切るのも気に留めず。その声の主が誰かなんてことは考えなかった。考えなくたってわかっていた。
ーー名前。
豊かな金の髪と奥深い菫の瞳。思い描いていた通りの人は木立の間、小さく開けた場所にいた。しかしその姿を認めて感じたのは安堵ではない。
「名前ッ!!!」
鋭い声が迸る。それにびくりと震えるのは名前とーーそんな彼女に今にも襲いかかろうとしていた狼。毛むくじゃらの体。獰猛な牙。低い唸り声。ミスタの声に振り返った獣は獲物を名前からミスタへと移した。
そうしてからミスタは今の自分にスタンド能力が備わっていないのを思い出した。ピストルズのいない拳銃。それはただの鉛玉。特別な力はないし、猟銃なんてものは持ち合わせていなかった。だから頭の片隅で「しまった」と思った。
が、それとは対照的にーー冷静な自分もどこかにいた。いや、大半を占めているのは静寂だった。初めて人を撃った夜。始まりのあの日と同じように、ミスタには狼の一挙手一投足が酷くゆっくりに見えた。
恐怖はなかった。焦りも不安も。むしろ都合がいいとすら思った。少なくともこれで名前の安全は高まった。だから、これでいい。
「逃げてミスタッ!!」
そう叫ぶ声。焦燥感を孕んだ目。必死の形相で名前はミスタを見つめていた。震える体を抱き締めながら。それでもなお彼女の両足は大地を踏み締め、ミスタのことだけを考えていた。
そんな彼女にミスタは笑みを送る。片方の口角だけを持ち上げた、いつもの笑み。地を蹴る狼越しに余裕たっぷりの笑みを送り、ーーそしてミスタは引き金を引いた。
「……っ、とぉ〜〜……、なんだ、狼っつったって大したことねぇんだな」
ミスタの放った銃弾は全弾命中。急所を狙ったそれは思い描いていたのと寸分違わぬ位置に食らいつき、息の根を止めた。
幸運か、それとも……そもそもこれが夢だからか。
夢ならこんな必死になることもなかったか、とミスタは頭を掻いた。……でもまぁ、例え夢だとしても血塗れの名前を見るのは寝覚めが悪い。
終わりよければそれでよし。「ミスタ!!!」声を上げ、駆け寄る名前を抱き留める。その温かさ、柔らかさは酷く立体的。現実味のありすぎる感触に、ミスタは笑った。
「まったく、よくできた夢だな。よくできた、都合のいい夢だ」
そう言うと、腕の中の名前は首を傾げた。「夢の自覚があるの?」その台詞から、彼女もまたこれが夢であると認識していることが伺える。そんなものだからミスタも目を瞬かせた。
「二人して夢だとわかっているなんて……おかしな夢」
「……ま、でも夢なんざおかしくったって不思議じゃないだろ」
名前は怪訝そうに呟くが、ミスタはすぐに笑い飛ばした。深く考えるのは苦手だ。それにどのみち夢であるのだから考えるだけ無駄というもの。
「そんなことより、」ミスタは改めて名前を見た。その足元から頭の先まで。ためつすがめつ眺め回し、ほうと息を吐く。
「深層心理ってヤツか?オレにもこんな趣味があったんだな……」
「え?」
「オレとしちゃあもーちょい大人っぽい方が好みだと思ってたんだがなァ〜……」
顎に手をやり、しみじみと言う。と、ようやく名前は自分の格好に気づいたらしい。
「あら?」目を丸くし、名前はスカートの裾を摘まむ。波立つワインレッド。白いレースの下から白い肌が思わせぶりに顔を覗かせる。
ごくり。唾を飲む音に名前は気づかない。気づかず、「随分と少女趣味ねぇ」と他人事のようにのんびりと呟く。それは普段の名前と変わりない。変わりないのに、見慣れぬ森という非日常感だとか、官能を意味する毒々しいほどの赤色だとかに目が眩む。
ーーこれが、夢だというなら、
ちらりと過る考えに内心首を振る。ーー例え夢だとしても、だ。無理強いするのは趣味じゃない。
「やっぱりこれは私の夢なのよ。やたらと少女趣味なのもきっとそのせいね」
ワンピースと同じ色のケープを被り直して名前は言う。
「これって赤ずきんでしょう?」
童話の、と言われてもミスタにはいまいちピンとこない。狼にだまくらかされる話だったと記憶しているが……、はて、狼も赤ずきんもどうなったのか。食われてしまったような気もするし、狼が退治されたような記憶もある。どちらにせよミスタが夢に見るほど印象的な話ではなかった。
「いやでも……気づいていないだけでオレの中にもオトメがいるのかも」
だが断ずるのはまだ早い。夢なんてのはどことも知れぬ奥底から沸き上がるもの。ミスタの中にも夢見がちな子供がいるのかもしれない。
そう言うと、名前は呆気に取られた顔をしてーー「……似合わない」堪えきれないとばかりにくつくつと肩を震わした。
「それじゃあミスタ、今度はあなたが着てみる?」
「それを?……どーしても見たいって言うんなら着てやってもいいぜ」
「うそ、冗談よ。これ以上笑わせないで」
言ってから、名前は笑って後方を指し示した。
「向こうに家があったわ。小さな……本当に小さなものだけど、夢から覚めるまでならちょうどいいんじゃないかしら」
「覚めるまで、ねぇ……」
「そうよ、まさかこのままってことはないでしょ?」
ミスタは肩を竦めた。「それならいいんだけどな」根拠はないが、なんとなく予感がある。これは普通の夢ではない。そんな感覚が。
でもだからといって敵襲だとも思えなかった。殺気がないというのもあるが、何より先刻から変化がまるでないのだ。夢の中で攻撃してくるスタンドがいるというなら、足元で死んでいる狼がゾンビにでもなる頃合いだろう。
だから元来楽観的なミスタは深く考えることをしなかった。なるようになるさ。それが基本的な考えで、今を楽しむことこそが最善とミスタは知っていた。
「じゃあ休ませてもらうかな。ちょいと気の早い休暇ってことで」
「それがいいわ、どうせ戻ったって待ってるのは仕事だけだもの」
この時ミスタはもちろん名前も全く予想だにしていなかった。深い森が夜に閉ざされてもなお夢が終わらぬことに。