A Small, Good Thing


 車の奪取には成功した。新たな追っ手の気配もない。亀の中はすっかり安全。
 だというのに名前の表情は暗いまま、トリッシュに縋りついていた。

「ごめんなさいトリッシュ……、私、なんにも気づかなくて……」

「もういいわよ」

 つい先刻まで不機嫌だった彼女。さしものトリッシュも繰れ返される言葉には呆れ顔。何とかしてくれとばかりに視線を走らせる。ナランチャ、ジョルノ、その順で見やり、そして応えたのはジョルノだった。

「……まぁ、彼女もこう言っていることですしーー」

 そっと唇を開き、肩に手を添える。
 上向く目。顔を上げた名前が見たのは神の如き慈愛の籠る微笑であった。

「ジョルノ……」

 しかし。しかし、それが美しければ美しいだけーー鮮烈な記憶が甦る。

「私、ジョルノにもすっごく悪いことしたわ……。私ったら本当に呑気で……」

 歪む顔。悔恨により鬱蒼とした目は涙に潤む。縮こまった体は申し訳なさを如実の表していた。
 そんな名前の脳裏に浮かぶのはつい先刻見た光景。ーー血の海の中、横たわるジョルノの姿だった。
 名前が見た時、確かに彼の体は死に向かっていた。死にゆく者の姿。恐ろしいほどに冷たい死の気配。そしてーー重なるのはかつて見た絶望。十年前、掌から零れ落ちた命の面影だった。
 ーー思い出すだけで心臓が凍える。
 ぶるりと肩を震わした名前、「そんな気にすることないって」その体を優しく抱き締めたのはナランチャの力強い腕だった。

「気づかなかったのはオレだって一緒だよ。結果勝てたんだからいいじゃん」

 殊更に明るく笑い、名前の頭を撫でる。乱雑に、しかし慰めは色濃く。幼子にするようにナランチャは名前をあやした。

「で、でも……ナランチャには他に役割があるわ。それに引き換え私は……」

 けれど名前は食い下がる。頑是なく首を振る様はまさしく童。心までもが『あの日』に巻き戻る。あの日、すべての戦いが終わったあと。仲間の胸で涙を流したあの日に。
 ーー私のスタンドは『治癒』以外に能がない。
 少なくとも名前はそう思っていた。一見万能に見えるがその実器用貧乏。広範囲には効かないし、そもそも触れなければ効力を発揮できない。それに戦いへ応用できるほど名前は賢くなかった。ーーそう、ジョルノのようには。

「私には『それ』しかないのに肝心な時に役に立てなかった……。それに、」

 ジョルノはあの戦いで大きく成長した。物質に命を吹き込む。その能力を使って傷を癒す道を見つけ出した。
 ーー私とは違う。
 彼は聡明で、名前よりもずっと強い。
 ーーだから、もう。

「私なんて、もうなんの価値もないんだわ……」

 ずうんと音がしそうなほど。重い影を背負い込んで、名前は顔を覆った。
 その姿に三人は顔を見合わせる。トリッシュとナランチャは困った風。常の名前ならばその様子くらい察することができるのだが、この時ばかりは盲目。気配りなど念頭にもなかった。

「……そんなことありません。あなたは必要な人ですよ」

 そしてそんな名前の顔を上げさせたのはーーまたしてもジョルノだった。

「君は言いました。スタンドとは思い込みの力、想像力が重要なのだと。……だからぼくも確信することができました。あの時、絶対に『できる』って」

 ジョルノは身を屈め、名前に視線を合わせた。春の芽吹き。若草色の瞳は命の光。生きている者の輝きだった。ーーそこに冬の気配はない。雪は溶け、暖かな日差しが射し込んでいた。

「だから……名前、君のお陰なんですよ」

 その言葉は気休めかもしれない。慰めによるものかも。彼の優しさから生まれた言葉。しかしーーいや、だからこそなのかーーそれは名前の心に響いた。
 「そ、そう?」名前は戸惑いがちに目をさ迷わす。「それなら……よかった、」曖昧に笑みを象る口元。
 「そうだよ名前!」それを認め、好機とばかりにナランチャは意気込む。

「一度や二度失敗したくらいなんだよ!大事な仲間だってのに変わりはないって!」

「ナランチャ……」

 必要だ。大切だ。そう言われて気分を害す者がいるだろうか?もしいたとするならそれは相当な変人、ひねくれ者に違いない。
 ともかく名前の思考は単純であった。少女のように移ろいやすく、影響を受けやすい。褒めそやされ、表情を緩めるのにそう時間は必要なかった。

「そ、それなら……もう少し頑張ってみようかな、なんて」

「うんうん!次がんばろーぜ!」

「そうね、そうよね」

 ナランチャと仲良く手を合わせる名前。そこにはもう翳りはない。夜は明け、日は昇る。温かな言葉は陽光のように名前の心を晴らしていった。

「単純……」

 だからトリッシュが呆れた様子で呟いたのには気づかなかった。そして勿論、自分たちを見つめるジョルノの眼差しが、幼子を見るようなそれであったのにも。微笑ましいものだと自分たちよりも年下の少年に思われていることなど、想像だにしなかったのだ。