緋色後設定
昼休みの教室は音で溢れている。笑い声や話し声。床を蹴る音やペンを滑らせる音。そうした喧騒の中で、名前もまた言葉を重ねていた。
「あ、これ美味しそう」
「ほんと。……ここなら歩いて行けるかも」
「こんなとこ知りませんでした。新しくできたんでしょうか」
「そうかも。ね、今度行ってみない?」
二人で覗いていた雑誌から顔を上げて蘭は微笑む。彼女の笑顔が名前は好きだ。そこに組み合わされたセリフがまた喜ばしいものであったから、名前の顔にも自然と笑みがこぼれる。
「ぜひ」彼女たちといると楽しいことばかりだ。そう思いながら、再び雑誌に目を落とす。載っていたのは抹茶に拘りがあるという甘味処の情報。積み上げられたアイスクリームも豪華なパフェもとろけるチョコレートも、どれもこれも食欲を掻き立てられる。
「ね、なんの話してんの?」
そこで席を立っていた園子が帰ってきた。肩に回された手に促され、名前は蘭と交わした約束を話す。すると、園子も頷いてくれた。「いいじゃない」美味しそう、と園子も雑誌に目を走らせる。
「じゃあ次の日曜はここで決まりね」
あとで真純も誘おうということで話はまとまった。明後日が待ちきれなくてうずうずする。午後の授業はたいへんな試練になりそうだ。
3人はそのまま名前が買ってきた雑誌を顔をつきあわせて眺めた。女の子の好きそうなお店の情報からメイク術、流行のファッション、そうしたものを越えてたどり着いた先。
「へぇ、明日ってラブレターの日なんだ」
キスの日と並んで紹介されていたイベント。語呂合わせでできたという日だというが、そんなものでも年若い娘は浮き足立つらしい。
「でも私たちには縁のない話よねぇ」
うんうんと名前も蘭も同意する。工藤新一は所在不明だし、降谷零とは家を共にしている。恋文など送る機会がない。可能性があるのは園子だけだが、今の時代携帯があれば手紙は用をなさない。キスの日については……3人とも触れなかった。みな自分には早いと思っているのだろう。
そんな話をしたのを、夜になって思い出した。
「……書いて、みるべきかしら」
今夜の零は何時に帰るか分からない。そう連絡がきたのは夕方になってからだった。なんでも溜まった仕事をいい加減処理しなくてはならないのだとか。警察だと名前に話して以来、彼は隠すことなくそちらの用事に出掛けるようになった。潜入捜査員としてそれが正しいのかどうなのか。間違いだとしても降谷零の優秀さなら問題はなかろうと名前は気にしないことにしている。
とにかく、今夜は彼に会えない。すでに日付を跨いでいて、名前は入浴も済ませていて、なのに帰宅する気配がないということはそういうことだろう。朝になっても、会えるかどうか。
寂しい、といつもなら思うところ。しかし今の名前には別件がある。そう、ラブレター、恋文のことで。
これまでも名前が寝る前に零が帰ってこないことはあった。そういうとき名前はメモを残していた。今日あったことを綴って、最後にお疲れさま、おやすみなさいと書くだけの手紙ともいえぬ走り書き。でも恋文の日と聞いてしまった以上意識せぬわけにはいかなかった。
「でも、可愛いレターセットなんてないし」
結局いつものメモ帳を取り出す。真っ白なそれは女らしさの欠片もない。せめてペンくらいは、と思ったが、それも学校で使う四色ボールペンぐらいしか手元になかった。
「…………」
名前は項垂れた。こういうとき、蘭や園子なら。いや真純だってレターセットかペンかどちらかは持ってるだろう。きっと、ないのは名前だけ。これではいつ零に愛想を尽かされるか分かったものじゃない。
「……そうなっても、恨みはしないけど」
でも悲しいのだけは事実だから、いつも通りの内容を書き記しながら最後にひとつ、変化を加えた。本当にささやかな変化を。
「……よし」
この小さな印に零は気づくだろうか。名前の葛藤を、想いを感じとるだろうか。ドキドキしながら名前は眠りに就いた。
名前が目覚めたとき、零はまだ隣にいた。今日は土曜日。いつもより遅く起きた名前より長く眠っているなんて。
名前はそっと目元にかかる髪をどけた。その下にある閉じた目。呼吸に震える睫毛すら変わらず美しいけれど、しかしいつもより眠りが深いのが気にかかる。寝顔から強ばりが抜けきっているのだけが救いだ。
名前は音を立てないようベッドから身を起こした。静かに足を下ろし、零の眠りを守ろうと気を配った。
けれど。
「おはよう、名前……」
降谷零という男は元来眠りが浅い質である。常より深いとはいえ、他人の気配には敏感で。だから名前が彼の腕から抜け出しただけで彼もまた眠りから出奔してしまった。
「ごめんなさい、起こしてしまって」
慌てて体を屈める。「まだ寝てていいわ」頭では透と零とバーボンの今日のスケジュールを思い起こす。午前中は確かその誰にも予定は入っていなかったはず。
眠りを促そうと瞼に手をやる。「お疲れさま、零」それなのにその手は当の本人に捕まれた。
「零?」
どうしたの?そう首を傾げる名前を放置して、零はその手を掴んだまま下に動かす。そして音もなく名前の掌に唇を落とした。すっ、と触れ、離れる柔らかさ。手はまた上へと引っ張られ、零の頬に添えられる。そこは朝の少しだけ冷たい空気を纏っていた。
「ありがとう、名前」
零の目が柔和に笑む。唇がほのかに弧を描く。ありがとう。噛み締めるように言われ、名前の胸は大きく音を立てた。
「お礼、なんて。どうして」
「だって、嬉しかったから」
――名前からラブレター貰えるなんて、ね。
思ってもみない幸運に驚かされたよ、と零は言う。名前の掌に頬擦りしながら、無邪気に微笑む。
「気づいて、くれたの」
「そりゃあ気づくよ。だって名前のことなんだから」
名前がしたのは印だけ。ハートを少し、付け加えた。それだけなのに。なのにこんなに綺麗に笑いかけてくれるなんて。
「……今度は、ちゃんとしたの書くわ」
もう片方にも手を添えて、名前は誓った。次はちゃんと用意をしよう。零を思ってレターセットを買おう。そしてもっと時間をかけて文面を考えなくては。そもそも恋文なんて、どう書けばいいのか。そういうことも含めて勉強しよう。
「そんな、気負わなくてもいいのに」
「私がそうしたいの」
名前は言って、零の額に唇を重ねた。
「だってあなたのことを考える時間ってすごく幸せなんだもの」
「……そっか」
そう呟いた零の耳は、少しだけ赤くなっていた。