フーゴ√【悲恋end】


原作後。戦いの中で主人公が死んでしまったら。





 垂れ込める暗雲。その下を足早に逃げていく人々。そんな中をフーゴはぼんやりと歩いていた。
 思考は霧がかり、一寸先は闇。虚ろな目は何ものも映さず、何ものも受け入れず。ぶつかる人のことも、それが舌打ちをし、睨みつけてくるのもーーどうだってよかった。
 雨は身を打ち、内側までも冷やしていく。心にも雨は降りしきり、侘しさが忍び寄る。空虚。吹き荒ぶのは冬の風。春は雪の下に埋もれ、時は凍りついた。
 ーーあの日、ヴェネツィアの船着き場にて。ボートを見送ったその瞬間から、フーゴの時間は止まっていた。

『風邪、引くわよ』

 降りかかる声にのろのろと顔を上げる。名前。変わらぬ菫色の瞳は変わらぬ愛情を湛えてフーゴを案じていた。
 その温もりに手を伸ばしかけてーーフーゴは笑う。
 ーー何をバカな。
 その先にあるのは絶望だと知っている。伸ばした手は届かない。あの日以来ずっと。ーーもう二度と、触れることは叶わない。

「いいさ、それで上手い具合にあの世に行けたらちょうどいい」

『……そういうのは言葉にしちゃダメよ、本当になってしまったらどうするの?』

「構わないよ。ぼくはもう……疲れたんだ」

 独り言を呟くフーゴに、道行く人は奇異の目を向ける。だがそれすら視界に入らない。フーゴの世界には二人だけ。自分と、それから名前しかいなかった。
 でもそれは幸福とは程遠い。世界に二人きり。そんな夢想をした少年時代もあった。ほんの少し前の話だ。でも思ったより楽しくなかった。名前の目には自分しか映らず、自分以外の者の目には名前は見えず。真実二人きりの世界だというのに、フーゴの心に巣食うのは悲しみばかりであった。
 そしてそれは今の名前にはどうすることもできないもの。彼女もまた手を伸ばしかけ、悲しげに目を伏せた。

『……あなたにそんな顔をさせたいわけじゃなかったのに』

「…………、」

 ーーそれならあの日、一緒に来てくれればよかったじゃないか。
 しかしそれは言葉にならなかった。
 過去はどうしたって変えようがない。名前はボートに乗り、フーゴは船着き場に取り残された。それが真実。そしてその先に起こったことも、今ではもう。

『あなたはいつだって正しかったわ、フーゴ。だから気に病む必要はないのよ』

 別れ際、言った台詞を繰り返し、名前は微笑む。眉を下げて笑うのすら聖母子像のようでーーそれを見るのが好きだったのを思い出す。
 しかしその想いもいつかは薄れていくのだろう。人は過去を忘れて生きていくもの。この恋すらもいずれは川の流れに溶けていくのだ。
 ーーそれが、酷く悲しい。
 悲しくて、手放しがたくて、喪いたくなくて。だからこんな夢を見てしまうのだ。
 ーー名前が今も自分の元にいてくれているなんて。
 そんなのは都合のいい妄想。本当の名前は蒼ざめた馬に連れ去られてしまった。海の遥か彼方にある緑の島にーー或いは海辺の王国にーー連れ去られた彼女は永久の眠りに閉ざされている。
 だから、今フーゴが見ているのは彼女の残滓。残された影に未練がましく縋っているだけだ。
 そう、わかっているのに。

「それじゃあずっとぼくの側にいてください。ぼくが正しいって言うんなら……天国なんかじゃなく、ぼくを選んで」

『フーゴ……』

 半透明の少女は瞳を揺らす。けれど頬に伝う涙もなければ、その身を濡らす雨粒もない。名前はただそこにいるだけ。何に触れることもできない。フーゴを慰めることも、抱き締めることも。できないのが苦しいのだとーー名前は唇を噛む。
 苦悩に喘ぐ顔。そんなものは生前であったら見る機会もなかった。彼女に相応しいのは春のような笑顔であって、朽ちゆく秋や凍える冬は彼女からはずっと遠いところにあった。
 ーーそれが今やどうだ?

「……ぼくだって、そんな顔させたくはなかったよ」

 幸せにしたかった。自分の手で彼女を幸福へと導きたかった。それが叶わぬ願いなどではないと自惚れていた。保証などどこにもないのに、永遠を信じていた。同じ道を歩いているのだと思い込んでいた。
 でも、初めから違っていたのだ。
 脳裏を過るのは流星のように散っていった人々のこと。名前と同じに愚かで、正しかった人。フーゴが勝手に仲間意識を抱いていただけで、彼らが見ているのはフーゴの見ている景色とは大きく違っていた。
 フーゴは名前を見た。記憶と寸分違わぬ少女を。なのに遠くへと隔たってしまった人を。見つめ、「だけど、」と自嘲する。

「それでもぼくは君を手放せない。例え幻なのだとしても……ぼくはもう、眠りから覚めてはやっていけそうにないんだ」

 夜の眠りだけが安寧。暗闇の中でようやく息がつけるのは真昼が耐え難いほどに眩しいから。
 寄るべもなく、友もなく。取り残されてしまった今ーーひとりの苦しみに潰されてしまいそうだった。
 だから今の名前が幻想でも妄想でもどうだって構わない。
 そう言うと、名前はぎこちない笑みを浮かべた。

『……いいわ、ずっと一緒にいてあげる。今度こそ、永遠に。この命が尽きた後も、その先でも』

 約束よ、と名前はフーゴを抱き締める。しかしそれは仕草だけ。腕から伝わる温もりもなければ、柔らかな感触もない。フーゴに与えられるのは雨粒の冷たさばかり。非情な現実だけだった。
 それでもいいじゃないか、とフーゴは己に言い聞かせる。こんな結末が自分には相応しい。栄光とは程遠く、安らぎは過去となり。夢だけが魂に仄かな明かりを灯す。それでいいじゃないかと言い聞かせるのだけれど。

 ーーそういえば、好きだと伝えることすらできなかったな。

 そんなことを思い出して、無性に泣きたくなった。






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クリスティーヌ・ド・ピザン『バラード』より引用。