ブチャラティ√【悲恋end】


同タイトルのものとの繋がりはなし。
主人公がどこかのマフィアに嫁ぐ話。
原作終了後設定。ブチャラティは出てきません。ミスタとお話しするだけ。





 夜のバールといったらそれはもう雑多な音で溢れている。グラスをからからと鳴らす氷。有線放送から垂れ流される流行りの音楽。給仕係の衣擦れ。酔っ払いのやたらと大きな声。
 仕事帰りのビジネスマンや仲睦まじい恋人たち。そんな人々で混み合った店内は嫌に脳内を刺激する。薄暗い照明と、対照的な喧騒。その差にーー或いはそれ以外の理由のせいでーーミスタの心は落ち着きどころを失っていた。

「…………」

 ミスタはちびりちびりとクレーマ・ディ・リモーニを飲み進める。そうしながら隣に座る名前の様子を窺った。彼女が何らかの『合図』を出すのを。彼女から切り出してもらわないとーー余計なことを口走ってしまいそうだった。
 対して名前の視線は虚空。ぼんやりとグラスを傾け、リキュールの瓶に貼られたエチケットを指でなぞった。正確には、そこに書かれた産地の名を。

「……なんだか、懐かしいわね」

 そこにはカプリ島と書かれていた。名前が注文したリキュール、レモンチェッロのラベルには。ミスタにとっても名前にとっても思い出深い場所が記されていた。
 名前は遠くに目を馳せた。その先は過去か、それとも天上の国か。郷愁か憧憬か。ともかく恋うる眼差しで『何か』を見つめた。
 見つめ、目を閉じて。そして名前は思い切りグラスを傾けた。

「おい、そんな勢いよく飲んだら……」

 止めようとするが追いつけない。ごくりと上下する喉。アルコールを嚥下し、名前は「平気よ平気」と笑った。

「あなたってそんな心配性だったかしら」

 揶揄う名前の頬は仄かに赤らんでいる。だが言葉はしっかりしているから、彼女の言葉に嘘はない。
 だがミスタとしては気が気でなかった。彼女が平静であればあるほどーー焦燥感が募る。
 ーーいっそのこと、泣き喚いてくれたら。
 そうしたらどんなによかったか。そう思うのに、言葉は胸中に留まるばかり。積み重なり、肥大化し、苦しいほど。
 なのに口は思うように動かない。
 「オレは繊細なんだよ」彼女の調子に合わせて言うが、真実は別。知らず知らずのうちに真似ていたのは『彼』。今ここに『彼』がいたならこう言って名前を止めたろう。そう思ったから、きっと。
 ーーでもそれならこんな結末にもなりやしなかったが。
 置かれた状況を思い出し、内心で苦笑する。『彼』がいてくれたならーー今よりもっと、幸せになれたろう。

「そろそろ止めとかねぇと明日起きらんねぇぞ。花嫁が欠席なんて前代未聞なんだからな」

 だがもう『彼』はいない。だからミスタが代わりに彼女を止めてやるしかない。
 その気持ちを知ってか知らずか。名前は「わかってるわかってる」とおざなりに手を振り、レモンチェッロを注ぎ足した。

「いやわかってねぇだろ」

 こうなったら実力行使。飲みやすさに反してアルコール度数の高いそれを取り上げようとミスタは手を伸ばした。
 ーーけれど。

「いいじゃない、夜が明けるまでは私だってただの乙女に過ぎないんだから」

 その言葉に、微笑に、心臓は凍る。
 名前は微笑んでいた。安らかに、穏やかに。しかしその水底にあるのはーー諦念。天使の迎えを待つ者の目。死の宿る双眸で彼女はミスタを通り越し、どこか遠くを見ていた。

「ったく……どうなっても知らねーからな」

 だからミスタもまた諦めるしかなかった。ミスタはミスタであり、『彼』は『彼』でしかない。彼女の友ではあるけれど、最愛の人ではない。そんな当たり前のことが、やけに胸を締めつけた。
 名前は一生をかけて『彼』を愛すのだろう。
 そう、悟ってしまったから。

「……そんなに嫌なら断ればよかったのに」

 最早地上に安息の地はない。眠りだけが憂いを癒し、夜こそが唯一の友。死ぬことは眠ること、ただそれだけの話だと語る眼ーーその表情に。
 思わず。そう、本当に意図しないところでーーミスタは呟いていた。
 口にしてしまってから、ミスタは『しまった』と思った。これは胸に秘めておくべき言葉だった。名前には言ってはならぬ言葉だった。
 ミスタは名前を窺い見た。名前はミスタを見上げていた。とても静かな眼差しで。

「別に、嫌ってわけじゃないわ。ちゃんと自分で決めたんだもの」

 名前は「心配しないで」とミスタの腕を叩いた。あなたが気に病むことじゃない。言外に言って、またグラスを傾けた。

「でもほら、もう皆と今までのようには会えないでしょう?だからなんだか名残惜しくて、」

 明日の式が終わったら、名前はこの街を出ていく。『彼』の愛した街を離れ、遥か東の異国へと。ーー『花嫁』として送られるのだ。
 そんな『少女』は口許だけで笑う。多くのものを諦めてきた『大人』の顔で。遠くを想い、目を細める。

「私、この街が好きなのね」

 囁きはグラスを揺らさない。吐息は喧騒に溶け、過去のもの。しかしそれすらもミスタの耳は拾い上げる。

「……そんな顔しないでよ」

 どんな、とは聞かなかった。聞かなくても自分のことだからわかっていた。名前の瞳。哀しみを湛え、潤んだ瞳に映るのは、ーー彼女を案じる友の顔。当事者である彼女よりもよほど苦しそうに歪んだ自分の顔だった。

「しょうがねぇだろ。今だけは堪忍してくれ。お前はオレにとっても大事な……ダチなんだからよ」

「ふふっ……そう言われると結構照れるわ」

 名前は冗談めかして笑う。

「ま、でも……案外何てことないのかもしれないけどね。別宅も用意してくれてるし、私はただそこに居るだけでいいって話だし」

 笑って、肩を竦めて。頬杖をついて、もう片方の手は空になった酒瓶へと。その指が辿るのはラベルに刻まれた小さな文字。懐かしい名前を惜しむように、人差し指はゆっくりとなぞる。

「それに結婚なんてのは所詮救世主さまとの結びつきでしかないのよ。成就されるのは天国にて。確か、……そう、ピューリタン的にはそんな感じよね」

 纏まりのない言葉。言い訳じみた調子。それはどこか空虚。視線は交わらず、ーーけれど、しかし。

「だから……だからね、ちょっとだけーーちょっとだけ、寂しいだけよ」

 ぽつりと落ちた声。揺れる瞳。それは頼りなく、だがそれ故に真実であるのだとわかった。
 「名前、」何かを言いかけて、しかしミスタは口を噤んだ。ーーいったい、何を言えばいいのだろう?何が彼女の慰めになるのかすらもわからなかった。

「……この夜が明けたら」

 どこかで声がする。雨が降り出した。そう言う声がする。冷気が足元に忍び寄り、照明は深い影を落とす。翳りは額へ、鼻筋へ、眼へ。落ちて、心を蝕んで、思い出を食い潰していく。

「私、死んでしまうのね」

 そんな、未来を視た。

「ユニコーンやネバーランドともお別れ、もう二度と……黄金の真昼はやって来ない」

 名前は息を吐く。か細い息を。今際の時、最期に旅立つ魂の流れ。そんな吐息を洩らし、「だからね、ミスタ」と顔を上げる。

「覚えていて。私が私を忘れてしまっても。ここにいた私のことを覚えていて」

 そこに笑みはない。冗談だとか揶揄いだとか、そういった類いの色は一片も。静かな目で、けれど真剣な色でーー名前はミスタを見る。
 名前はーー愛する人の愛した街を守るためにその身を捧げる道を選んだ少女は。政治的な理由から異国のマフィアに嫁ぐことになった少女は、この日はじめて友に希った。
 それは縋るようですらあった。最後の希望を見つけた者の目。必死に、切実さを滲ませて、名前はミスタに願う。

「……あぁ、」

 ミスタは『少女』の手を取った。
 街に雨が降るように、その心にも涙が降る。ひたひたと心を濡らすわびしさと、きりきりと心を締めつけるやるせなさ。

「忘れたくたってそうやすやすと忘れられるもんか」

 そうしたものをすべて抑え込んで、ミスタは口角を持ち上げた。

「覚えてる、ちゃんと……お前が忘れてしまっても。ブチャラティのことが好きで堪らなかったお前のことを、オレは忘れない」

 それはぎこちない笑みだったろう。
 だがそれを名前が指摘することはなかった。彼女はミスタに応え、その手を握り返しーーそっと離した。
 そして。

「……ありがとう」

 明日の朝には『花嫁』となる『少女』は、泣き出しそうな目で微笑んだ。







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エミリ・ディキンソン『人妻にーー一夜明けたら私はなります』
ポール・ヴェルレーヌ『街に雨が降るように』
より引用。