その忘れ物に気づいたのは買い物に行こうと靴を履いたときだった。
傘立ての中。白のレースがあしらわれたものと一緒に男性用の黒い傘までそこにはいた。
「……どうしよう」
名前は眉を下げた。今日から梅雨入り。そう、天気予報でさんざん言われていたというのに。朝の回らない頭からはすっかり抜け落ちてしまっていた。零が忘れていたとしてもそこは名前がしっかりしなくてはいけないところなのに。
既に空は厚い雲に覆われている。重苦しい灰色からはすぐにでも水が溢れ出しそう。彼が帰ってくるまでもつとは思えなかった。
――ここは、届けに行くべきだろうか。名前は考えた。零が濡れるのは好ましくない。風邪を引く、そんなのは絶対にダメだ。しかしここで名前が出ていくというのもどうなのだろう。彼の仕事は特殊なものだし職場に家族が顔を出すのはいい顔をされないかもしれない。常識的に考えてここは――どうなのだろう。
経験不足。その言葉が重くのし掛かった。名前には家族というものの当たり前がわからない。父も母も物心ついたときにはいなかった。おまけにここは日本だ。名前が住んでいた土地とはあまりに風習が異なる。
自分が失敗する分には構わない。けれど零にまで火の粉が及ぶのは到底看過できない。悩んだ末、名前は文明の利器を取り出した。すなわち携帯電話である。
使い続けて二年は過ぎたそれを操作し、メッセージを作成する。
「ええっと……、"傘、を忘れたけど、どうすればいい"……」
いや、これだと名前の真意に沿わない。これだと零は『車だし走れば平気だよ』と返すに違いない。名前は少しでも彼を汚したくないというのに。
「……"届けられる、か、買うか、選んで、ほしい"」
苦心して打った文章にそこに私用のアドレスを載っけて送信。これで一安心だ。息をつき、やっと名前は家を出た。その間に連絡が来てはいけないから、と黒い傘を供につけて。
結局返信が来たのは近くのスーパーから帰ったあとだった。
降谷零のメッセージはいつも通りの簡素なものだ。『じゃあ届けてもらおうかな』それだけなのに、ただの文字列なのに、名前には零の慎ましい笑い声まで聞こえてきそうだった。
携帯でのやり取りは顔が見れないというデメリットはあるけれど、その分記録に残しておけるというメリットもある。だから名前は零とのやり取りを全部保存していた。組織にいた頃はご法度だったが今は違う。優しい零は名前の行動を制限したりなどしないから、名前は好きにしていた。零とのメッセージを、それが積み重なっていくさまを、密かに楽しんでいた。
今回のものもしっかり保存して、それから時計を見、移動時間を考える。今から行けば零の休憩時間に間に合いそうだ。そうとわかれば行動あるのみ。名前は急いでその旨を返信した。
車を走らせている間、そういえば零の職場に顔を出すのは初めてだと気づいた。途端に自分の格好がひどく心配になった。格好だけでない。彼と出会うまで気にしたことのなかった容姿にまで不安が募る。降谷零。警察庁のエリート。部下からは慕われ上司からは信頼される、そんな男の家族として自分は正しいのか。
元々の経歴も後ろ暗いことしかない上、零に頼りきりの現状。今の生活も名前が名前として生きていけるのも零がいたからで。つまり名前にはなにもないわけで……。
こんな悩むことになるなら零に反対せず式を挙げておけばよかったのかもしれない。いやしかしそれはそれで随分と精神が削られそうだ。
つらつらと考えている間にも時間は平等に流れ、名前を目的地に運ぶ。目的地――いやに圧迫感のあるビルに着いてしまう。ごくり、と自然に鳴る喉。しかし幸いなことに名前が中に入る必要はなかった。気を利かせたであろう零が既に出入り口まで来ていてくれたからだ。
「待たせてごめんなさい!」
慌てて駆け寄ると、零に抱き止められた。くすくすと笑い声が名前の旋毛を擽る。「そんなに急いでこなくていいのに」頭を撫でられるが、名前は頑として折れなかった。
「零を待たせるわけにはいかないもの」
「俺は名前を待つ時間きらいじゃないけど?」
名前は違うの?と傾く首。名前は言葉に詰まった。「それ、は」ズルいだろう。
名前はそっぽ向いた。
「……私も、零を待つのは好き」
不承不承。口を尖らせ、小さな声で。密やかに伝えるのはあまりに可愛いげがないと自覚しているけれど。でも名前にはまだ声高に愛を叫ぶには早すぎた。だからいまだに彼と目を合わせて好きとか愛してるとかそういうセリフを言えないでいる。零は恥ずかしげもなく堂々と名前に伝えてくれるというのに。
そんな零はいつもならしゃんとした大人なのに、時々無邪気な子供のような振る舞いを見せることがある。
たとえば。
「よかった」
目をくしゃりとつぶって。にいっと口角を上げて。頬を緩める様はいたいけな少年のようだ。この笑顔に名前は弱かった。降谷零となってから時折見せる少年らしさ。もとより彼には歯が立たないというのに、そんな武器まで持ち出されてはたまったものではない。名前は零の胸元に顔を押し付けてぐりぐりと押しやった。「ははっ、照れてる照れてる」楽しげな声が降りかかるが顔を上げることはできなかった。
このときの名前はすっかり零に夢中になっていた。彼しか目に入っていなかったし彼しか感じていなかった。
だから。
「あれ、降谷さん?」
そんな声が聞こえてきて、慌てて飛び退いた。
声の主は零より些か若いようだった。スーツを着た男性は手に膨らんだビニール袋を持っている。恐らく昼食を買いに行った帰りなのだろう。
そんなことを冷静に考える頭とは裏腹に、心臓はばくばくと音を立てていた。あまりの煩さに頭が揺れそうだ。そのくらい驚いていたし、焦っていた。
そんな名前とは対称的に零は落ち着き払っていた。「おお、」男性の名字を気安く呼ぶあたり、近しい間柄なのだろう。風見さんみたいな感じかしらと推測しながら名前はあわあわと視線をさ迷わせていた。
咄嗟に俯いてしまったが、男性の視線が零から名前に移るのは肌でわかった。じいっと見つめられる感覚に思わず身構えてしまう。
「あれ、もしかして降谷さんの奥さんですか?」
――降谷さんの、奥さん。それだけが名前の頭を貫いた。奥さん、いや、まぁ、それは正しい。正しいのだけれど。人にそう呼ばれるのに名前は慣れていなかった。だから頬が赤くなるのも必然だ。
「あれ、お前は知らなかったっけ?」
「知りませんよ、風見さんとかと違ってお会いしたこともないですし」
「そっか、じゃあ改めて紹介するけど……俺の奥さんです」
「…………っ」出かかった奇声を胸を押さえることで封じこめる。俺の奥さん。他人から呼ばれるよりずっと破壊力のある発言。できるなら今の言葉を録音しておきたかった。あぁ、でも、二度も三度もこんなのを聞いてしまったら身がもたなそうだ。
そんな思考を押し隠して、名前はわたわたと頭を下げた。
「は、はじめまして、名前と申します。あの、よろしくお願いします……」
こんなことになるならイメージトレーニングしておくべきだった!後悔が打ち寄せる名前を放って、男性と零は笑顔で話を続ける。
「やっぱり降谷さんの奥さんは美人ですね。予想通りだ」
「そうだろ?お前も早く結婚したらどうだ」
「うわ、降谷さんにそんなこと言われる日が来るとは。あー、でも羨ましいな」
「お前もきれいな嫁を貰えるように祈っといてやるよ」
ははは、と和やかに進む会話。しかし今の発言は聞き捨てならない。名前が美人だって?それなら、それなら、
「でも、世界一きれいなのは零ですから」
名前が言葉を発した瞬間。水を打ったように静寂が広がった。
なにかまずいことを言ったかしら?あわあわと零を見るが、どうやらそうではないらしい。一瞬固まっていた彼だったが、すぐに小さく吹き出し、笑い出した。
男性の方はといえば。
「ベタ惚れじゃないですか」
やだやだと降参のポーズをとった。そして「なんか、俺お邪魔みたいなんでとっとと退散しますね」と言って、足早に去っていった。とはいえ帰り際笑顔で手を振ってくれたので気分を害したわけではないらしい。
「さすが、名前だな……」
零はまだ笑っていた。目尻に溜まった涙を拭いながら笑っている。
そんな彼を覗きこみ、名前は疑問をぶつけた。
「どうしてそんな笑ってるの?」
私にとって、零が何より尊いものだってことは当たり前なのに――――
「どうしたの、零」
ぼうっとしてるとご飯奪っちゃうわよ、と目の前の名前は朝食を前にして箸を進めている。
「あぁ、ごめん、ちょっと今朝の夢を思い出してて」
にやつく頬は隠しきれなかったらしい。さしもの名前も「機嫌いいみたいだけどなにか良いことでもあった?」と訊ねてくる。
良いこと。確かに良いことはあった。それは合ってる。けれどその良いことに自分が関わっているだなんて露ほどにも思っていない顔で名前は首を傾いだ。
さらりと頬にかかる髪。日に染まるそれは魔女と近い色をしているのに与える印象は真逆だった。それを結い上げ、ベールや綿帽子や角隠しが被さるさまを思い描く。どちらも名前の紅い唇によく映えるだろう。
「ねぇ、」気づけば顔を緩ませたまま名前の手に手を重ねていた。
「ドレスと白無垢、名前はどっちが好き――?」