フーゴ√【BAD END】


ボートに乗ったフーゴと。
死ネタ(主人公が死にます)です。
原作ネタバレあり。




 
 ーー魂が凍るとはこのことかと、鮮血に胸を染めた彼女を見下ろして思った。

「……って、ーーねぇ、待ってったら!」

 腕を引かれ、はっと我に返る。
 辺りは目にも鮮やかな春の市場。華やかに賑わう露店に瑞々しい生命の匂い。その人波の中にぼくはいた。その中にありながら、ぼくはそれよりもずっと遠いところにいた。
 そこは冷え冷えとした闇の底。晩秋の墓。大槌を振り下ろされた塔。それは怒りであり悲しみであった。吹き荒ぶ感情は春の嵐。持て余し、余りある。故に他の余地はなく、ぼくの思考はエレボスに呑まれていた。

「どうしたの、フーゴ……すごい顔してるわ」

 その身を引き上げたのは名前だ。ぼくに手を引かれるままに歩いていた彼女。歩幅の違いなんかぼくの頭にはなかったから、立ち止まった今も彼女は肩で息をしている。
 その目。榛の実のように丸い目が今は不安に揺れていた。

「……っ、すみません、」

 そこでようやくぼくは気づいた。彼女の手首を手折ろうとしているのが他でもないこのぼくなのだということに。
 慌てて離した手。けれどその白い肌には赤い腕輪の跡。塞き止められた血の赤さにぼくは青ざめる。
 けれど名前は首を振る。

「ううん、それはいいの」

 狼狽するぼくの目がどこに向けられているか。それを理解した上で、名前は眉を下げて笑った。然り気無く、跡の残る手首をもう片方の手で隠して。

「私、またあなたを困らせちゃったみたいね。ごめんなさい」

「それはそう、ですが。……ぼくも……その、すみません」

 悪いのは名前だ。でも今のぼくには後ろめたさがある。それは第一に跡が残るほどの力を彼女の腕にかけてしまった点。……そしてもうひとつは、その跡が隠されてしまったのを残念に思ってしまったことであった。
 だからぼくは強く言うこともできずーー先刻まではあれほどの嵐を身に宿していたというのにーーしおらしく頭を下げる。

「でもさっきのを許すつもりはありませんからね」

 けれどだからといって『あの行動』を見過ごすことはできない。
 先程見た光景を思い出し、ぼくは顔を顰める。そういうつもりはなくとも目には剣呑な光が灯っていたろう。
 ぼくは露店の陰に名前を連れ込み、「まったく、何考えてんですか」と腰に手をやった。
 しかし名前の反応はといえばケロリとしたもの。

「だってそれが一番手っ取り早いんだもの」

「……確かにそうかもしれませんが、」

 そう言う彼女の体には傷ひとつない。瞳はルリジサの花で体はしなやかなポプラ。ジギタリスの指にヒヤシンスの血筋といった具合。
 しかしその体とて永遠ではない。薔薇の蕾が瞬く間に咲き誇り朽ち果てるのと同じ、時を止めることなどできやしないのだ。
 例えばーーそう、スタンドを出す間もなくその命が刈り取られてしまったならば。

「……絶対なんかないでしょうに」

「それは……まぁ」

 その想像だけで心臓は吹雪に見舞われる。世間は春。けれどぼくの心は冬。凍える海に投げ出された気分だった。
 ーー先刻もそうだった。薬物中毒者の引き起こした騒ぎ。殴り合いを仲裁しようとしたぼくを庇って撃たれた彼女。血染めの体。流れていく命。季節の移ろいと同じように、日が沈むのと同じように。ーーぼくにはどうすることもできなかった。
 気づいたらぼくは騒ぎの張本人を気絶させていたし、名前は名前ですっかり元通り、時間を巻き戻して何事もなかったかのよう。
 でもぼくは。
 ぼくはどうしようもないほどにーー恐ろしかった。真冬に冷水をぶっかけられた気分だった。自分にはどうにもできないほどの怒りと悲しみ。それから彼女を喪うという恐怖。
 あの瞬間ぼくは思い知らされた。
 もしもそれが現実になったならーー耐え難いほどの苦痛と後悔が待ち受けているのだろう。そして咽び泣きだけが唯一の友となるのだとぼくは悟った。

「だからもう止めてくださいよ、第一……あんたに庇われるのは気持ちのいいもんじゃないですから」

「そうなの?」

「そりゃあ……そうでしょう」

 不思議そうに目を瞬かせる名前。大いなる神秘に煙る瞳はぼくには眩しいほど。真っ直ぐすぎて思わずたじろいでしまう。ぼくの主張の方が間違っているんじゃないかという気にさせられる。
 やっぱり『普通』に見えて『普通』じゃない。こんな世界にいるのだ。わかっていたことだけど、名前もたいがい『イカれてる』。

「でも私、あなたが傷つくのは堪えられないわ。自分にできることがあるのに何もせずにいるなんて……堪えられない」

 そんなぼくに追い討ちをかけるように。切々と言う名前の目は真剣そのもの。その頑なさはどこに端を発しているのだろう。
 「それは、」何故、と。聞いてみたいと思った。聞いてしまいかけた。物憂げな瞳に映るのは真実このぼくなのだろうか。今目の前にいるぼくを彼女は認識しているのだろうか。
 ……わからない、ぼくはーー彼女のことを何も知らない。

「フーゴ?」

「いえ、」

 胸が軋んだ。名状しがたい切なさが迫り、この身を蝕んでいく。そんな感覚にぼくは首を振った。

「……ともかくですね、」

 ぼくは名前を見つめ返した。交わる視線。今度こそその目に映っているのを確認して、ぼくは咳払いをひとつした。

「堪えらんないのはこっちだって同じです。庇われたぼくの身にもなってください」

 そう、言うと。

「……なんでそんな驚いてるんですか」

 広がるのは沈黙。すぐ傍ら、市場の喧騒は遠く、透明な隔たりがぼくらの間にはあった。
 名前はぼくを見ていた。ぱちりと瞬きひとつ。そこに横たわるのは驚き。虚を突かれたといった様子に、居心地の悪さを感じてしまう。何か変なことを言ったか、と。
 その気まずさを振り払おうと先手を打つ。というより沈黙に堪えきれなかったのはぼくの方。訊ねると、名前はようやく「だって……考えもしなかったから」と呟いた。

「そっか……」

 そうなのね、と。ひとり納得した風の名前に、ぼくは眉を寄せる。勝手に話を進めないでほしい。置き去りにされる身にもなってくれ、と言外に訴えるのだが名前は見向きもしない。

「……なににやにやしてるんです」

「だって……それって結構自惚れちゃう台詞だから」

 緩む口許は隠しきれず。認めてしまったぼくに、名前はさらに笑みを深くした。
 そして。

「私があなたたちを大切に思うのとおんなじに……あなたも『そう』思ってくれているのね」

「な……っ!」

 悪戯な目がぼくを射抜く。落ちるのは春雷。衝撃に開け放たれた口。阿呆のように狼狽えるぼくを、名前は嬉しそうに見上げてくる。
 ーーそれがまた、綻ぶ薔薇みたいで。

「べ、別にそうとは言ってないでしょう。ぼくはただ……寝覚めが悪いってだけで、」

「なんだ、そうなの?」

「そうです!」

 言い切るけれどぼくの頬には熱が残っていた。たぶん名前から見てもその色は鮮やかなものだったろう。実際彼女の口許は相も変わらず笑みを象ったまま。
 微笑ましいとかそういった類いの目を向けられて、ぼくは思わず視線を逸らした。

「……ともかく、金輪際こういうことは止めてください」

「えー……」

「不満そうにしない!」

 一喝。子供みたいに頬を膨らます名前をぴしゃりとはね除ける。が、それで懲りる彼女ではない。
 悪戯っぽい表情のまま、「……あなたが私と『同じ』だって言ってくれるなら止めてもいいけど」なんて提案をしてくるものだから。

「調子に乗るんじゃあないッ!」

 照れ隠しに叱りつけることしかぼくにはできなかった。

 ……けれど、もし。もしもあの時、正直に伝えていたなら。
 ーーあなたのことが好きだからだ、と告げていたなら。
 こんな結末は迎えずに済んだのだろうか。

「あ、あぁ……」

「なんて……ことだ……」

 声がする。あれはトリッシュだ。あれはジョルノだ。目を伏せるのはミスタで、唇を噛むのはブチャラティだ。言葉を失っているのがナランチャで、

「やめてくださいよ、こんな冗談……ぜんぜん笑えない」

 目の前で横たわっているのは名前だ。穏やかな表情で目を閉じてーー眠りについているのは名前だ。
 コロッセオは静寂に包まれていた。眠りにも程近い空気が流れていた。昨日までは春だったのに、今はもう冬!どこか遠くで鴉が鳴き、驟雨を連れてくる。ぼくの心には嵐が舞い込み、立っていることすらままならない。

「目を、目を覚ましてください名前、」

 ぼくは跪いて名前の手を取った。
 ジギタリスの華奢な指。それは美しい音を奏でようとするのだけれど、砂のようにぼくの手から零れ落ちていく。
 ーー酷く、頭が痛い。
 どこかで耳障りな音がする。がんがんと揺さぶられる頭は釘でも打たれているみたいだ。例えばそれは棺桶。棺に押し込められたような感覚。これではもう闇の底に沈むより他にない。

「うそ、嘘だよ、ねぇ名前、早く起きろって、なぁ……」

「しっかりしろナランチャッ!フーゴも……周囲を見張るんだ!!」

 取り縋るナランチャをブチャラティは叱咤する。その声はぼくにも向けられているらしかったが、何故だかすべての事柄が遠く感じられた。

「ぼくは……ただ……あんたを守りたかっただけなのに……」

 ーーわかっていたはずだ。
 ボスは最初にナランチャか名前を狙う。索敵能力の高いナランチャか、時間を巻き戻せる名前か。そのどちらかを狙うなんてことは容易に想像がついた。
 ……たぶん、名前だって。
 ならばどうして彼女は眠っている?傷口をひとつ残らず塞いだというのに、そこにあるのは脱け殻でしかないのはどうしてか。
 それは、……あぁ、考えたくもないがきっとーー『彼』を大切に思っていた名前ならーーそういうことなのだろう。
 でもそれを言うならぼくだって同じだ。ぼくだってその未来のためにこんな遠いところまでやって来たのだ。
 けれど、名前はもう。

「これじゃ、なんの意味もない……っ」

 微かに残った温もりが惜しい。やがて柔らかさを失う肉体が恐ろしい。
 ぼくは凍りつく体を抱き締めた。
 あぁ、今ならオルペウスが如くアケローンを渡ることだって躊躇いやしないのに!なのにぼくには権利すら与えられない。もう一度の春をと願っても、過去の喜びは彼女と共に凍りつき、喪失の苦しみばかりが永遠を約束してくれる。
 そして唯一の星を喪ったぼくに与えられたのは身を焼くほどの憎悪だった。








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お題箱より。夢主死亡現場に居合わせるフーゴでした。ありがとうございました!