ミスタ√【悲恋end】


この話のIF
その後のもしも話。もしも政略結婚が上手くいかずパッショーネとの間で抗争が起こったら。
だいたい十年後設定。






 真夜中だというのに屋敷にはどことなく張り詰めた空気が漂っていた。だがそれも致し方ないこと。何せ今は抗争中。一度は手を結んだ中国系マフィアから手酷い裏切りを受けてしまったのだから。

「…………」

 『その件』について考えるたび、ミスタの中にはえも言われぬ感情が込み上げる。苛立ち、怒り、或いはーー悲しみ。そう、彼女のことを想うといつだって胸が痛くなる。過去も、現在も。もしかするとこれから先、未来まで。

「……はぁ、」

 そんなことばかりが亡霊の如く脳内をさ迷うものだからどうにもこうにも落ち着かない。まったく、らしくない。自分自身に呆れ果て、溜め息を吐く。
 子供だった頃はよかった。青臭い考えを誰に憚ることなく行動に移せた。だが今は?ーー二十代もとうに過ぎ、『いい大人』と形容される歳になった。ミスタはもう無鉄砲な若者ではない。守るべきものーー組織や社会という枠組みに手足を縛られていた。

「…………」

 考えてばかりいても仕方がない。
 意味もなく眺めていた窓辺を離れ、ミスタは自室を出た。
 仄かな灯りだけが等間隔に並ぶ廊下。するりと足元に絡みつく空気は夜の冷たさ。思わず肩をそびやかし、ミスタは階下を目指した。外の空気でも吸って頭を冷やそう。そういう魂胆であったのだけれど。

「……?」

 途上、漏れ出る灯りに足を止める。微かに開いた扉の隙間。細く伸びる光は今際の呼吸のよう。ぼんやりと思い、ーーはた、と気づく。
 そうだ、この部屋はーー。

「ミスタ……?」

 小さく開かれた扉の間。覗く小さな顔は闇夜に殊更白く浮かび上がる。黄金の髪も煙る紫の瞳も。折れそうな首筋も影を落とすほど浮いた鎖骨も。ーー名前のすべてが目を焼いて、ミスタはたじろいだ。
 何もかもが無意識のうち。灯りに目を留めたのも、ドアをノックしたのも。この数秒間だけがまるで吹き飛ばされたかのように現在だけがミスタに与えられた。夜のただ中に捨て置かれた少女と共に。

「どうしたの、こんな夜遅くに……」

 名前は小さく首を傾げた。そうすると絹糸の髪がさらりと頬を撫でる。
 「眠れないの?」微笑み。けれどどこか影のあるそれ。ミスタは曖昧に笑み、顎を引く。

「あぁ、まぁ、な」

 意味もなく頭を掻く手。なんだか手持ち無沙汰な気分だ。身の置き場がない。視線が定まらない。
 そんなミスタを前にして、名前は考えた風だった。沈黙。それはほんの僅かな時間だったのだろう。けれどミスタには永遠のように思われた。無性に居心地の悪さを感じた。

「……そんなところにいたんじゃ風邪を引いちゃうわ」

 名前は少し困ったように笑った。「中へどうぞ」昔から変わらない笑い方。眉尻を下げ、仕方ないなぁとでも言いたげに。笑う名前に、ミスタはほっと胸を撫で下ろす。その理由には気づかない振りをして。

「あなたは座ってて。今お茶淹れるから」

 名前の部屋はどこかよそよそしい空気に包まれていた。が、それはあまりに単純なこと。だってこの十年余り、名前はこの屋敷から遠ざかっていたのだから。……名前が住んでいたのは遠い異国、東の大国だったのだから。
 けれど何もかもを忘れてしまったわけではない。帰国したばかりだというのに、名前は「カフェでいい?」と訊ねてきた。

「ミルクなしで砂糖はいっぱい。……そうだったわよね?」

「……っ、あぁ、サンキュ」

 備え付けのキッチンに立つ名前。その背をぼうと眺めること数分。手渡されたのは適度に冷まされたティーカップ。好みの味、好みの温かさ。そうしたものを飲み下し、胸が熱くなる。
 名前はミスタの前に座った。小さく軋むソファ。彼女の手にあるのは熱々のカモミッラ。ミスタの視線に気づいた名前は恥ずかしそうに笑う。

「私も眠れなくて、」

「そう、か」

 ミスタは慰めの言葉を吐きかけて、……躊躇った。
 だって何を言えばいいというのだろう?選択したのは名前だ。ミスタだってそれを止めやしなかった。彼女の犠牲のお陰で十年の平和が齎されたのは事実で、それが崩壊したのも最早どうしようもないことだった。
 ミスタがなんと言って慰めようとそれは空虚。現実は変わらない。名前の夫がパッショーネを裏切ってイタリアで麻薬を売り捌いていたことも。事が露見し、二つの組織の間で今なお抗争が続いているのも。ボスが仲間の身を案じ、イタリアへの帰国を促したのも。こうして懐かしい館で名前がひとりの時を過ごしているのも……すべてが取り返しのつかないところまで進んでいた。

「……酷い雨ね」

 ぽつり、囁きひとつが静寂に落ちる。ゆらりと立ち上がる影。名前は胸元にショールを引き寄せながら窓辺に立つ。
 闇夜を窺う目。それは凪いでいて、底を見せない。奥深い森。或いは広大な湖のそれ。夜を映し出し、物憂げに光る。

「……私のしたことは本当に意味のあることだったのかしら」

 カーテンを握る左手、その薬指には褪せた指輪がはめられていた。契約の証。飼い殺しの首輪。呪いのようなそれにミスタの方が泣きたくなった。名前が涙をひとつも見せないからこそ、代わりに泣いてしまいそうだった。

「……お前は十分よくやったよ」

 ミスタは膝の上で組んだ両手に視線を落とした。そうでもしないと余計なことを口走ってしまいそうだった。

「この十年の平和は間違いなくお前のお陰だ」

「でもそれは仮初めのものだった」

「……あぁ、そうだな」

 どうして未だに指輪を外さないのだろう。
 家庭などというものは彼女たちの間には最初からなかった。男は多くの愛人を囲っていたし、未知の力を持つ名前は所詮人質で、彼女の住まう邸宅には殆ど寄りつかなかったとミスタは聞いている。彼女が義理立てする夫などというのは始めから存在しないのだ。

「だが裏切ったのはアイツの方だ。オレたちの誠意を……大切な仲間を裏切ったのはヤツだ。償うべき罪はあちら側にだけある」

 ミスタが言ったのはパッショーネのボスが言ったのと同じ台詞だった。かつて少年だった『彼』。常ならば恐ろしいほどに冷静な彼が、瞳の奥に焔を圧し殺していたのは記憶に新しい。昔からの仲間を傷つけられたことに、彼もまた怒りを覚えていた。
 だからミスタも自身の怒りを正当化することができた。自分が殺したいほどの憎悪を抱いているのは仲間として当然のことなのだと。そう思うことができた。
 けれど名前が浮かべたのは相変わらずの微笑。

「それでも私が役に立てなかったことに変わりはないわ」

「……ッ、それはっ」

 悲しげな眼差しに。ミスタは言葉に詰まり、俯いた。握り締めた拳が痛かった。
 ミスタが何を言っても慰めにはならない。役割は十二分に果たしてくれた。そう言ってやれるのはパッショーネのボスだけだ。その右腕となったミスタですら、彼女の心を救うことはできない。
 それを思い知らされ、心はきりきりと締めつけられる。……苦しい。息もできないほどに。こんな彼女を見ているくらいならいっそ殺してくれればいいのにと思うほどに。噛んだ唇からは生温い血が漏れ出していた。

「……ごめんなさい、こんなことを言ってもあなたを傷つけるだけなのに」

 歩み寄った名前が身を屈める。ごめんなさい、もう一度囁いて、名前はミスタの手を握った。握り締められたそれを優しくほどき、そっと包み込んだ。
 記憶よりも細くなった手首。痩せた指や青い血筋、温かさにまで悲しみは積もる。

「……そんな顔しないでよ」

「……お前が泣かないから悪いんだろ」

 雨の音がいやに耳につく。心にまで忍び寄り、振り込む雨粒。冷たい銃弾に撃たれ、胸から流れる血は止むことを知らない。
 そういえば十年前も雨が降っていた。
 ミスタは名前の頬に手をやった。冷えた指先と、反対に温かな膚。少し、艶が失われた気がする。
 ーーあぁ、過ぎ去る時間は何者をも刈り取ってしまうのだ。
 あんなに美しかった日々も記憶の彼方。純粋なばかりの少女の恋は惨たらしく殺され墓の中。哀れにも大人にされてしまった彼女はその犯人にすら捨て置かれ、こんなところでひとり胸を痛めている。
 ーーそれが、腹立たしくて堪らない。

「……だめよ、ミスタ」

 紫水晶が柔らかに緩む。十年経った今も変わらない。あの頃と同じ澄んだ色。それが鏡面のようにミスタを映し出す。情けない顔をした男を。映し出して、名前はそっと口を開いた。

「だめよ、私にあなたを裏切らせないで」

 二人の間にあるのはガラス一枚の隔たり。鼻先を吐息が掠めるほど。けれどそれ以上の距離を詰めることがミスタにはできない。唇に添えられた人差し指を払い除けることも。ミスタに口づけを禁じ、名前はやっぱり困ったように笑った。

「私はあなたの知ってる『私』のままでいたい。あなたのことを……『彼』のことを、裏切りたくない」

 ーーあぁ。
 やはり名前には何もかもがお見通しなのだ。
 そう悟り、ミスタも仕方なしに笑った。
 名前はわかっていた。ミスタが好きになったのは一途に『彼』を想う『彼女』なのだと。わかっているから、彼女は死んだはずの自分を今もまだ大切にしているのだ。

「……悪い、」

「気にしないで。あなたは何も……気に病むことはないのだから」

 微笑む彼女が愛おしい。微笑む彼女が憎らしい。どちらも真実で、どちらもそれだけではなかった。愛おしくて憎らしくて、……どうしようもない。
 それでもミスタには何もできなかった。慰めることも抱き締めることも奪い去ることもできず、冷めていくティーカップから目を逸らした。






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拍手で浮気してもいいよとコメントいただいたので……。ありがとうございました。