ボスに監禁される
教会でボスに捕まったら。
主人公が痛い目にあってます。
目覚めた名前が最初に知覚したのは地下室特有の湿った臭い。それから剥き出しのコンクリート、無造作に転がされた体の下、広がる地面の冷たさだった。
「随分と図太い神経をしている。よくもまぁこんな状況で眠っていられるな」
それ以上に冷えきった眼差し。暗がりの向こうで妖しく光る目に、しかし名前の反応は緩慢なもの。
「あなたが私の手を切り落としたりなんかするからでしょう」
知らん顔の男に名前は淡々と答える。そこには怒りも悲しみもーー恐れすらもなく。歯応えのなさに男は鼻を鳴らした。
名前は身を起こそうとして、後ろ手に手錠を填められたままだということに気づいた。
その右手は名前の持つ最後の記憶では地面を転がっていたのだが、今ではすっかり元通り。痕跡といえば手首にべったりとついたままの血痕くらいなもので、それすらも時間が経った今は硬直し膚を赤黒く彩るばかりである。
しかし切断されたというのにまたこの状態に逆戻りとは。どうやらこの男、自分で切り落としたくせに、ご丁寧にもまた手枷を填めてくれたようだ。有り難くて涙が出る。……なんて、思ってもないことを思い浮かべたりなぞして、けれど名前の顔色は変わらない。
「それは失礼。痛みには慣れているかと思ったものでな……」
「じゃあ勉強になったでしょうね、人間は誰だって痛みで意識を飛ばすものよ」
「そうらしいな。ついでにいえばお前は即死させるか、その『スタンド』が追いつかないくらいのスピードで切り刻んでやらないといけないということも学んだ」
男はマフィアのボスらしく身の毛もよだつような台詞をなんの躊躇いもなく口にした。その目は静かで、穏やかとすら言えた。言葉に嘘はなく、それを実行することこそが正しい道なのだと知っている言い方だった。それこそが平和への一歩なのだと男は確信していた。
「切り刻むといえば以前わたしの正体を探ろうとした者にも同じような罰を与えたな。その時は確か……爪先からちょっとずつ切断してやったのだったか」
「そう、悲しい特技ね」
言うと、途端に横っ面を張られる。
冷たい床の上で名前はぼんやりと仲間のことを思った。きっとブチャラティは己を責めるだろう。あの日、あの教会で起きたこと。彼が組織のボスに反旗を翻したこと。その際に名前がボスの手に落ちたこと。その一点をきっと彼は生涯背負ってしまうのだろう。
それはとても悲しいことだと思った。名前には彼を責めるつもりなど毛頭ないし、いっそのこと彼には全てを忘れてもらった方が名前としては心安らかなくらいだった。
「……『裏切り者』は、」
男は名前の前に膝をついた。
「必ず始末する。必ず……どんな例外もなく、だ」
それは名前と視線を合わせるためであったけれど、そこにあるのは優しさなどではない。
男は名前の髪を掴んで引き起こした。そうしてやっと名前は男の目を間近で見ることが叶った。
猫のような目だ、と名前は最初に思った。その後でこれは蛇かもしれないなと思い直した。けれど結論づけるには何分視界が心許ない。
ここが地下室だと感じたのは感覚的なものだったけれど、それはあながち間違いではないらしい。明かり取りひとつない部屋。水音が聞こえるから運河の側なのだろうがそれ以上のことはようとして知れない。
埃だとか黴だとかの混じった臭いに、名前は漠然と厭だなと思った。
その臭いはなんだか昔を思い起こさせる。昔、十年ほど前のこと。今と同じく虜囚に身を落とした時も、拘束された館からは似たような臭いがした。古めかしい書物だとかどことなく湿った感じのするシーツだとか。そんなものを思い出して、名前は顔を顰めた。
「……臆病者」
「なに?」
「だってそうでしょう。我が身可愛さで娘を殺そうとするなんて」
言い終わるが先か否か。ともかく気づいた時にはもう名前の体は吹き飛んでいて、ぐしゃりと床に叩きつけられた後だった。
「……っ、」
痛みは遅れてやってくる。まったく呑気なもので、それは衝撃から名前が胃液を吐いてからのことだった。体の中心部がいやに熱く、そこから鋭い痛みと鈍い痛みが体内を反響するように駆け巡った。
名前は体を折り曲げてそれに堪えた。なんてことはない、大丈夫。そう己に言い聞かせるのはさほど難しいことじゃない。名前からすれば久方ぶりに会う親類みたいな感覚。我慢していれば直に体は回復する。それは自動操縦のようなもので、体の真ん中にぽっかり穴が開いたっておんなじことだった。
「……ほう、」
男は興味深そうにそれを見下ろしていた。
「なかなか便利なものだな」男の爪先が名前の顎を持ち上げる。
無理矢理上向かされる顔。血のこびりついた唇を真一文字に結んで、名前は男を見上げた。
「そしてやはり……似ている。わたしに、わたしのスタンドに」
男が名前を生かすのは恐らくはそれが理由なのだろう。
「見逃すことはできない。血縁関係があるか、……確かめなくては」
「…………」
それがわかっていたから、名前は男の求めるものは何一つとして差し出さなかった。
きっとこんなのはささやかな抵抗だろう。男ほどの権力があれば調べあげることなど造作もない。だから名前が沈黙を守り、幾度となく血を流そうとも、それは時間稼ぎにしかならないのだ。
「無駄よ、……わかっているでしょう?」
「……そうだな」
蹴り飛ばされ、口内が血の味でいっぱいになる。吐き出すものも赤く、それも唾液ばかり。
だが名前は口許に湛えた笑みを崩さなかった。「……かわいそうな人」そう、憐れんでやった。
「あなたは自分を信じてあげられないんだわ。齎された苦難の道を自分なら越えられるって……信じてあげられない、かわいそうな人」
これは挑発のためではない。名前の本心からの言葉だった。名前は心の底から男を憐れんでいた。
それがわかるからか。男は容赦なく名前を痛めつけた。
「……神にでもなったつもりか」
今度は足の指が砕かれた。「思い上がるなよ」僅かに滲む怒気。男は苦悶に歪む名前の顔を覗き込みながら、傷つけたばかりの箇所を踏みにじった。尊厳だとか矜持だとか、そうしたものも一緒に。
「神などいやしない。お前に救いなど齎されない。与えられるのは乗り越えられない苦難、その前に沈むことしかお前に道はない」
ぐしゃぐしゃにしてやるとばかりに冷徹な目を向けられながら、けれどやはり名前は目を逸らさない。微笑を浮かべ、男を見上げる。
「神さまならいるわ。だから私はもう救われているの。あなたが何を言ってもそれはもう無駄なことよ」
名前は仲間のことを想った。
男は名前の情報を引き出そうとしている。その親類縁者から裏切りの目的、ひいては背後にある組織についても。名前がちらつかせればそれだけ追いかけてくる。追いかけなくてはならないのだ、男にとっては。そうして自分を探るもの全てを消し去ろうとする。
だから名前は今ここで男の足止めをする道を選んだ。それがやがては仲間のためになるのだと信じて。
この世界の希望を想って、血塗れの名前は微笑んでいた。