プロシュート√【再会】


原作沿いでの出会いの後、もしも二人が約束を果たしに来たらの話。






 夜の十時を過ぎた頃。リストランテも落ち着きを取り戻し、一息吐いた名前の元に『その報せ』は齎された。

「……本当に来てくれたのね」

 奥まったところにある座席。そのテーブルのひとつに『彼ら』はいた。彫刻のように美しい男と、彼を『兄貴』と慕う青年。一週間ほど前にもこのリストランテを訪れた彼らは、名前の姿を認めると二人揃ってナイフとフォークを置いた。

「なんだ、あれは世辞だったのか」

 そう言ったのは見目麗しい男の方。片方の口角だけを持ち上げた笑み。皮肉げなそれはしかし本心からのものではない。そうわかっていたから、名前も「まさか」と笑った。

「驚いただけ。あなたの方こそ社交辞令にしてしまうんじゃないかって、私、気を揉んでたのよ?」

 一週間ほど前、深夜のリストランテにて。管を巻いていた青年を迎えに男はやって来た。そして名前に口止め料と手間賃を置いていったのだけれど、代わりにと名前は彼らに再度の訪問を求めた。
 ーー今度は営業時間に来てほしい、と。
 そこに確実性はなかった。名前はそう望んでいたけれど、同時に諦めも既にあった。彼らはきっと自分の世界に帰ったのだろう。名前は二人が自分とは違う世界の人間なのだと朧気ながら察していた。
 だから、驚いた。この穏やかな夜、それでもなお若者で賑わうリストランテに彼らがいることに。
 驚き、肩を竦める名前に、青年は片眉を上げた。

「ほう?オレがそんな軽薄な男に見えたか?」

「いいえ?でもあなたってとても魅力的な人だから……私のことなんて忘れられても仕方ないわ、ってね」

 男の口許に宿るのは相変わらずの揶揄い。 真面目な顔で冗談を言うのを意外に思いながら、しかしこの言葉の応酬を楽しむ自分もいる。
 ほんの数分、言葉を交わしただけなのに。それなのに不思議と名前の心は落ち着いていた。彼のことをずっと昔から知っているような錯覚さえ抱くほどに。彼との会話は名前にとってごく自然なものだった。
 しかし通じ合っているのは名前と男の間だけ。二人に挟まれた格好の青年はおろおろと視線をさ迷わせ、そして。

「あ、あのっ!!!」

「ん?」

「あ、兄貴はそんな人じゃあありませんぜッ!!」

 振り絞られた勇気。その証に握り締められた拳。そうしたものを認め、名前は目を瞬かせた。
 しかし虚を突かれたのは名前だけではない。男の方もまた微かに目を見開いた。それから
「…………、」と深い溜め息をひとつ。ーーやれやれ。そういった風で青年に対して呆れを示したものだから、彼も自分に向けられた反応に首を傾げる。

「って……アレ?」

 名前を見つめ、それから『兄貴』へと。救いを求めるように目を向ける青年はまだまだいたいけな少年のそれ。濁りのない眼に、名前は思わず笑みを溢す。

「大丈夫よ、ちゃんとわかってるわ」

 そう言って、青年の肩を叩いた。

「今日は来てくれてありがとう。お口に合ったかしら?」

 何がなんだかわからない。そう言いたげに目を瞬かせていた青年であったけれど、名前が訊ねると途端に輝きを取り戻す。
 「はいッ!」食いぎみに答えた青年。その横で男は笑いを堪えた風、であったけれど、口を挟むことはしなかった。青年がひとつふたつみっつと料理を褒めていくのを止めるのも。
 そのどちらにもーー青年の無邪気さだとか男の分かりにくい優しさだとか、そういうものにーー微笑ましく思いながら、名前は「それはよかった」と笑みかけた。
 青年が頼んだのはソーセージをふんだんに使ったブロッコレッティ・エ・サルシッチャ。だったらしいが、ナポリらしく厚い生地も今は腹の中。スップリやフリットも食べたらしいのに、青年の前にあるのはレモンのグラニータのみが置かれていた。
 対する男の方はそれとは対称的。アンチョビとモッツァレラチーズのピザはまだ四分の一ほど残っている。というのもアルコールの方が恋しいのか、男はグラスにご執心だ。ちなみに中身はグラッパーー芳しい香りを放つ度数の高いブランデーである。
 琥珀色の液体。それを透かし見るのは蒼い瞳。澄んだそれはさながらソレントから眺める海。知らず知らずのうちに感嘆の溜め息を溢すと、視線に気づいた男は「なんだ?」と片眉を持ち上げた。

「“忍冬は耳の形に葉末を巻きたり。鈴蘭は白き歯にして野ばらは鼻なり。赤き竜胆は唇よりも紅きなり”……」

 そんな仕草すらも映画のワンシーン。思わず、と口ずさむ名前に、男はしかし顔を顰めた。

「お前……それは男に言う台詞じゃないだろ」

 そこに含まれるのは呆れの色。けれどそうしたって普遍的な美というものは決して揺らいだりなどしない。東施効顰という言葉があるように、美人というのは顰めっ面すら美しいものだ。
 つくづく思い知らされ、名前は「そういうのを超越した美しさってあるのね……」と呟く。

「おい、話を聞けよ」

 そう突っ込みを入れられるのも右から左、名前の耳には届かない。

「な、なんのことですかい?」

 が、戸惑った風な声をかけられればさしもの名前も我に返る。
 名前の肩を叩いた青年。不思議そうな顔がまたいたいけで、どことなく『彼』を思い起こさせる。
 そんなものだから名前の笑顔も殊更柔らかなもの。

「とっても綺麗ねって褒めたのよ」

「はぁ……」

 わかったような、わからないような。
 青年は名前と『兄貴』を交互に見やり、曖昧な声を洩らす。綺麗。その言葉に納得はいくが、だがしかし話の流れが掴めない。そういった様子で首を捻る彼にーー或いは自分のペースを崩さない名前にかーー男は舌打ちをひとつ。

「それを言うんなら、」

 するりと伸ばされる手。ひんやりとしたそれが名前の顎を捉え、上向かせる。頬をなぞる指先。悪戯に伝う様はグラスを流れる露のよう。さしもの名前も目を丸くして男を見つめた。にやり、と意味深長に笑う男を。

「“微笑は葉末の露の玉。或いは松明、または燐火、黄昏の星、牧の野火”……ってな」

 どこか甘やかな掠れ声。覗き込む碧眼は思わせ振りに瞬き、力強い手が心に与えるのは安寧だけではない。それとは相反するものーー理由のない焦燥感、胸を焦がすのは果たしてーーなんだろうか。
 ともかく男は名前に幾つかの感情を齎した。名前すら知らない、蝋燭の炎のように儚いものを。与えられ、名前は暫し瞬き、そして。

「うーん……、あなたに褒められてもいまいち実感が湧かないわねぇ……」

「なんだそりゃあ」

 青年がしたように首を捻ると、男は『らしくもなく』吹き出した。少年が愉快な冗談を聞いた時のようにくつくつと肩を震わして、男は「面白いな、アンタ」と目尻を拭った。
 その瞳がまた美しくてーー名前は目を逸らす。

「私は単純なの。美人とか格好いいとか頼りになるとか……まぁそういうのを直接言われた方が嬉しいと感じるようにできてるのよ」

「へえぇ、そりゃ安上がりなもんだ」

「そうでしょうそうでしょう、もっとおだててくれていいのよ?サービスしちゃうわ。ババはどう?それともスフォリアテッラの方がいいかしら」

 誤魔化すように言葉を募るのはどうしてだろう?冗談めかした物言いしかできないのは?ーー彼の目を真っ直ぐに見つめ返せなくなったのは、どうして?
 そのいずれもを名前はなかったことにした。気づかなかった、そう、何も。何もかもが気のせいで、気の迷い。だってそうじゃなきゃおかしい。これっぽっちの会話だけで動揺するなんて!
 名前は「おすすめを」と笑う男に背を向けた。「それじゃあ用意してくるわ」なんてのは口実。騒がしい心臓を落ち着けるための逃避に過ぎなかった。








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アンケートで兄貴とペッシを〜とコメントくださった方へ。ありがとうございました。