アバッキオ√【後日談】


原作終了後、数年後設定。恋人同士。
喋るモブ(名無し)が出てきます。




 名前はアバッキオの横顔が好きだった。特に車の助手席から見える顔が。何の翳りもない眼差しだとか、名前を何処かへと連れ出してくれる手だとか、そうしたものが名前は特別に好きだった。
 だから今も名前はその顔を横目に窺い見ていた。遠慮がちなのは、以前じいっと見つめていたら怒られてしまったからだ。曰く、気が散るんだとか。そう言われてしまえば名前とて我が儘は言えない。
 以来、こうしてひっそりと眺めるのが習慣となっていた。でもきっと彼にはバレているのだろう。むっつりと引き結ばれた唇に、小さく笑みを溢した時だった。

「あ、」

 それは名前の反対側にあった。つまりはアバッキオの側に。けれど名前が思わずと声を洩らして初めて彼は気づいたらしい。

「…………」

 名前の視線の先。辿ったところで僅かに見開かれる目。黄金色が怪訝と呆れと……つまりはそういった感情に彩られる。

「ガレージセールよ、きっと」

 誰が見たって明らかなことを名前は呟いた。

「でもこんな大がかりなのははじめて」

 発祥地のアメリカでもお目にかかったことがない。こんなにも一切合切を売りに出そうなんて人は。

「まさか寄ってみたいだなんて言わないよな」

 その家はもう目と鼻の先。あとちょっとで追い越してしまうというところでアバッキオは嫌そうに名前を見た。
 けれどそれは確認のようなもので、彼にはもう名前の答えがわかっていた。わかっていたから、名前が何を言うよりも早く、車寄せに車を入れていた。
 一軒家の前庭。そこにはひとつの部屋があった。ひとつの部屋のように家具たちが整然と並んでいた。これで天井と壁があったならそのまま暮らせそうなくらいだ、と名前は思った。
 伸ばしっぱなしの雑草。その上に置かれているのは二つのベッドだった。ストライプのシーツが被せられたベッド。揃いの枕だってある。
 その脇にはナイトテーブルがあった。その上には読書灯と栞の挟まった本が一冊。名前は興味深げな顔で手に取った。ペラペラと捲ると他人の生活を覗き見している気分になる。

「おい、そろそろ気は済んだか?」

 名前は本を閉じた。
 アバッキオは辺りを気にしていた。
 ……心配性。
 思ったけれど、揶揄うことはしない。きっと彼は彼でもっと別のことが言いたかったろう。名前が彼に思ったのと似たような、けれど違うことを。
 だから名前は眉を下げた。

「もう少し、」

 予想通り彼は顔を顰めた。でも彼は何も言わず、名前に手を貸した。つまりはこの盛大なガレージセールを物色し始めたのだ。
 アバッキオはテーブルに近寄った。レモン色のテーブルクロスがかかっていた。夕食を食べる準備か、食器類も一緒だ。でも中身はない。真っ白なお皿はどこか寒々しくて悲しい気持ちになる。
 けれどアバッキオの関心は別のところにあった。彼はテーブルやら書棚やらに手の甲を打ち付けて、その強度を確かめるのに熱心だった。

「……ま、悪かねぇな」

「でしょう?」

 名前は打ち捨てられた幾つかの段ボール箱を開けた。中にはあまり使われた様子のない調理用具が眠っていた。
 きっと誰かからの贈り物だったんだわ、と名前は思った。例えばそう、結婚祝いだとか。
 その時名前の頭にはあるひとつのイメージがあった。名前と、それからもうひとりの。
 名前はアバッキオを見た。彼はテレビをつけていた。チャンネルを幾つか回して、結局一番最初のところで止めていた。

「おい見ろよ、こいつ最新式だぞ」

 どうやら彼はそのテレビが気に入ったらしかった。名前にはそのテレビが今家にあるのとどう違うのかわからなかった。でもそういうのはよくあることで、多分これから先もずっと続いていくのだろう。
 でもそれでいいんだわ。名前は思った。ううん、それがいい。
 だから名前は「幾らくらいなのかしらね」と答えた。アバッキオはテレビを気に入っていて、名前は使った形跡のないモカマシーンが気に入っていた。そのくらいが丁度いいのだろう、きっと。
 名前は続けて、「それにどんな人なのかしら」と言った。

「優しい人だといいんだけど」

 そう言うと、アバッキオは鼻で笑った。まさか、と。

「そもそもこれが本当に売り物なのかも怪しいな」

 アバッキオは誰かの悪ふざけだろうと踏んでいるらしかった。ご機嫌な若者か、或いは頭のふやけた酔っ払いか。彼はどこまでも用心深く、そんな彼が隣にいる限り、名前はどこまでも楽天的だった。
 「それじゃあしっかり守ってちょうだいね」名前は笑った。「信じているわ、ディア」
 片目を瞑ると、やっぱり彼は嫌そうに顔を顰めるのだった。
 家主が出てきたのはそんな時だった。この豪快なガレージセールの開催者。それはご機嫌な若者でも頭のふやけた酔っ払いでもなかった。

「こんにちは」

 そう言ってしんと静まり返った家から出てきたのはどこか草臥れた顔の男だった。

「こんにちは」

 名前は無精髭の目立つ顔を見て、何とはなしに父のことを思い出した。父と、母のことを。それから幼馴染みの家族のことを思った。

「ごめんなさい、人がいるだなんて気づかなかったものだから、」

 名前が謝ると、男は「気にしないでいい」と手を振った。それは寛容というよりも諦念。何もかもがどうだっていいみたいな空気たった。

「これはそういうつもりで、そういうものなんだから。じっくり見ていくといい」

 でも悪い人ではなさそうだ。グラスを片手にソファへと身を沈める男を見て、名前はぼんやりと思った。それから目配せをした。一瞬。アバッキオは溜め息を吐いた。

「……好きにしろ」

 その許しは苦虫を噛み潰したようであったけれど、何もかもが本心なわけでもない。その証拠に、先ほどから彼は乱雑に仕舞われたレコードをいやに気にしている。だから、名前にはそれで十分だった。
 名前は改めて男に向き直った。

「あの、あそこにあるテレビですけど、お幾らで売るつもりなんですか?」

 男は覇気のない目で名前を見た。
 「幾らでも」言って、男はまたグラスを呷った。「君のお好きなお値段で」そう言われ、今度こそ名前はアバッキオと顔を見合わせた。
 それがよほどおかしかったのか。男はそこで初めて笑った。

「私の心配はしないでほしい。いや、する必要はないと言った方がいいか」

 男はグラスを置いた。なのに名前にはなんだか彼がひどく危うげに見えた。ソファに座っているはずなのに、崖の淵だとか薄氷の上だとか、そういうものが足元に広がっているように思われた。

「売れても売れなくてもいいんだ。どの道私の元には何一つとして残らない」

 男はぽつりぽつりと続けた。この家具も屋敷も、売ったお金は全部彼の妻の元に振り込まれることになっているらしい。
 そこまで言って、男は苦々しく、そして自嘲を込めて口角を釣り上げた。

「いや、元、だな。元妻だ。もう私とはなんの関係もない人だ」

 言ったのは男の方であるのに、名前には彼自身が傷ついているように感じられた。
 原因はアルコールだったと男は語った。アルコールと、そこから始まった幾つかの事柄が終焉へと導いたのだと。
 名前はテーブルに置かれたグラスを見た。中には透明な液体が入っている。
 「それは酒じゃない」名前の視線を理解して、男はまた笑った。「もう酒は止めたんだ。それももうなんのためだかわからなくなったが」アルコール中毒者更正会は正しく機能したと男は肩を竦めた。

「すまない、詰まらない話を聞かせてしまったな」

 言い終え、男はどこか気恥ずかしそうにまたグラスを手に取った。その中身が水だというのは真実らしく、彼の目はどこまでも静かだった。静かで、寂しげだった。

「君たちはこんな大人になるんじゃないよ」

 男の言葉に、今まで息を潜めていたアバッキオが肩を揺らした。動揺。「……あぁ、そうだな」そう言う声もどこかよそよそしく、決まり悪げだった。
 名前は男を見た。男も名前を見た。名前はその瞳の中に幾つかの可能性を見ていた。ーー彼の方も、そうだったらいい。
 名前は微笑んで、「小切手でいいかしら」と言った。

「あそこのテレビとモカマシーン、それからレコードを」

 男は目を見開いた。何もかもを諦めきった男の手を、名前はそっと包み込んだ。

「だからつまり……何もかもが無駄だったなんて思わないでほしいってこと」

 慰めの言葉なら幾らだってあった。でも名前が口にしたのはそれだけだった。名前は母ではないし、彼の妻でもない。名前は名前でしかなくて、その未来など名前にすらわかりやしないのだから。だから、男にそれ以上の何を言うこともなかった。
 名前は小切手を書いて男に渡した。男は掠れた声で「ありがとう」とだけ答えた。そこで男とは別れた。

「……お人好し」

 車が走る。何でもない日常の中を走っていく。
 暫くは沈黙が続いていた。けれどやがてアバッキオが呆れた様子で呟いた。
 あのガレージセールはもう見えない。たぶんあの男との縁もこれっきりだろう。彼がこれから歩む未来にも名前たちが歩む未来にも互いは存在しない。あるのは彼から譲り受けた家具だけで、けれどお互いそれだけで十分だと思っていた。
 それでもアバッキオの口は止まらない。「まったく、縁起でもないものを……」口を曲げて溢すのを聞いて、名前はくすくすと笑った。

「そこらへんは、ほら、当人の頑張り次第じゃないかしら」

 名前は冗談めかして続ける。

「お酒はほどほどに。浮気は……ごめんなさい、あんまり許してあげられそうにないわ」

「お前もな。だがその点についちゃあ……まぁ、そう気にしちゃいないが」

 名前はアバッキオを見た。どこか遠くに目を馳せる男の横顔を。その肌に皺が刻まれ、艶やかな髪に白髪が混じる様を思い描いた。その時彼の座る椅子やテーブルやベッドなんかがどういった具合なのかを思った。その時彼の横顔を窺い見る自分のことを思った。悪い気はしなかった。
 たぶん、幸福とはこういうことなのだろう。漠然と思い、名前は微笑んだ。








ーーーーーーーーーーーーーーーー
誕生日記念に。
恐らくこの話での二人は同棲直前か結婚直前です。
共感を抱く相手でもなければ意見が合うことも殆どないけど、相手が自分とあまりに違うから丁度いいなと思っている二人でした。わかりにくくてすみません……。