雪の女王X


 文通はカラスを介して行われた。既に両手では数え切れないほどとなった手紙の山。目覚めている間はそれを読み返し、カラスとお喋りをするのが私の日課となっていた。
 カラスの名前がジゴロというのを知ったのもこの時。ーー変わった名前ね。喉元まで出かかった言葉を飲み込むのは一苦労だった。でもそんな失礼なことを言わずに済んだのは本当に幸い。だって私はすっかり彼のことを気に入っていたのだからーー。
 私は手紙に多くのことを書いた。
 私の名前、家族のこと、好きなもの、嫌いなもの。彼がとうに知っているであろうことから、今まで話したことのないものまで。それは成績表で一番低い点数をつけられた教科であったり、今住んでいる小さな町についてどう思うかといったことまで、実に多岐に渡った。
 そして私はカラスにも同じことを語った。生まれた場所、誕生日、両親について。それから、ええっと、エトセトラエトセトラ……。

「それじゃあ君は随分と肩身の狭い思いをしてきたんだね……」

 今日は小さな町で常々私が感じていたことについての話をしていた。
 それはジゴロに私の髪や瞳の色を褒められたことから始まった。そう言ってくれるのは『彼』以外にいなかったから、ついついそんな話までしてしまったのだ。

「でも仕方のないことだともわかってるの。私とママだけが違う色をしているんだもの、みんながヘンに思うのはおかしくないわ」

「……それでも、容姿ばかりを取り上げられるのは寂しいことだよ」

 話していると、なんだかもうひとりの私がいるような気になってくる。私をバラバラにしてもう一度組み直しているみたいな、そんな感じ。人体模型みたいになった私を私が見下ろしているのだ。

「大丈夫だよ、『違う』のは君ひとりじゃない」

 私の話を聞いて、ジゴロは酷く甘ったるい声で呟いた。
 蜂蜜にさらに砂糖を混ぜ込んだみたいな色。それはきっと私が憧れたケーキの味。道端から眺めるしかなかったショーウインドー、ママが『いけないこと』と言った贅沢品はたぶんこんな味がしたんだろう。

「僕だってほら、とても素敵な色だろう?君とお揃いなのは嬉しいんだけど、これってなかなか目立つからさ、まぁそれなりに苦労しているんだよ」

 ジゴロは冗談めかして言った。それは慰めの言葉であったけれど、それ以外の色も孕んでいた。そしてそれは私のものと似ていた。私の髪と彼の羽根の色がそうであるように。
 ジゴロはカラスだ。でも普通の黒色とは違う。目を見はるほどの金の色。私のより濃い色は自己主張が激しく、彼からカラスらしさというものを奪っていた。

「……私も、素敵だと思う。光の束を重ねたみたいであなたにぴったり、……うまく言えないんだけど……好きだなって思うわ」

 途端に彼がとても近しいもののように思われて、私は彼の背中を撫でた。
 彼は「ありがとう」とだけ言った。
 口数の多い彼にしては珍しいこと。その声が滲んでいるように感じたけれど、私はそれに触れることをしなかった。代わりにその頭へと唇を落とした。何故だか無性にそうしたい気分だった。
 それからまた私は手紙に目を落とした。正確には、そこに書かれた文章を。
 私はもう彼の手を覚えていない。どんな筆致だったかなんて、これだけの時間が過ぎてしまえば記憶も薄らいでいくのが自然。それに子供の頃のままとも思えなかった。彼は幼い頃から聡明であったけれど、『薔薇』なんて難しい漢字まで書いていた記憶はない。
 だから懐かしいという感情が沸くこともなかったのだけれど、手紙のやり取りというのは私の心を穏やかにさせてくれた。
 王子様ーーつまり『彼』は、昔のことを殆ど覚えていないそうだ。だから私のことも朧気で、それでも自分を知っているなら話がしたいと言ってくれた。
 けれど勇気が出ないのだと彼は謝った。『もしかすると貴女を落胆させてしまうかもしれない』その一文を私はそっとなぞった。私の知る『彼』はそんな繊細さを持ち合わせちゃいなかったけれど、だからといって無理を迫るのは本意ではない。
 私はいつまででも待つつもりだった。どこまでだって追いかけるつもりだった。その思いこそがバラバラの『私』を『私』足らしめるものだった。

「……名前は、」

 静寂に落ちるのは澄んだ声。ささやかなそれに、私は黙って耳を傾ける。
 ジゴロは迷った様子だった。言うか、言わないか。

「……不思議な子だね」

 迷った末に囁いたのは、小さな溜め息に似た声。
 私は肩に止まる彼を見た。彼もまた私を見ていた。その琥珀の瞳で私をじぃっと見ていた。私を、或いは私の中身を。バラバラにされて取り出された私の中身をじぃっと見ていた。
 「あなたは、」私もまた迷った。言うか、言わないか。正しいことはわからない。でも彼を傷つけるようなことだとか失望させるようなことを言いたくはなかった。

「あなたも、おんなじ。……だと思うわ」

「思う?」

「……だって、あなたのことはまだ知らないことばかりだもの」

 そして私が選んだのはこんな曖昧な言葉。この長くはない日々の中、感じたことを有りのままに伝えた。
 ジゴロは沈黙の後に「それもそうだね」と笑った。空気の揺れる感覚。肌に感じるそれに緊張はない。……よかった。そう、素直に思う。

「それじゃあ、ええっと、……何から話そうか」

「なんでもいいわ。なんなら千夜かかっても平気よ」

「シェヘラザードになるのはさすがの僕でも難しいかな」

 彼はまた笑った。今度はおかしそうに、くすくすと。笑ってから、なんでもないかのように。それまでと同じ調子で彼は口を開いた。

「僕はね、本当は女の人が怖くてたまらないんだ」

 そんな、重たい台詞を。

「……怖い?」

「うん、僕よりずっと小さな女の子も、ずっと歳上の人も。僕をあの目で見る女の人たちが……怖くてたまらない」

 確認のために思わず繰り返した言葉を彼は丁寧にも拾い上げる。そしてあっけらかんとした顔でより詳細を語って聞かせてくれた。

「それでも関わらずには生きていけないし、周りには結婚しろとか言われるし……、だから僕もまぁそれなりに……うまくやっていけるように頑張ってみたりなんかしているんだ」

 でも私は気づいてしまった。伏せられた目。微かに震える体。そうしたものに気づいて、ーーどうしようもなく悲しくなった。こんなことを明るく話す彼が。そうしなければいけなくなってしまった彼のことを想って、勝手に泣きたくなった。

「別に、別に、そんなに頑張らなくたっていいんじゃないの?苦手なものなんてみんなあるものでしょう?私なんてどんなに言われたって玉葱は食べられないし、水泳の授業なんてどうしたら逃げられるかっていつもいつも考えているもの。だから、あなただって、」

 言葉を連ねてみたけれど、そのどれもが彼には届かない。彼は優しい顔で「うん、」と頷く。「ありがとう」と微笑んでくれる。でもそれだけだ。それだけで、彼はきっとこれからも自分を傷つけながら生きていくんだろう。
 それでも私は「他にも道はあるはずよ」と諦め悪く続けた。

「結婚、だって。無理に女の人を好きにならなくたっていいじゃない。それこそ男の人でもそういう考えのないずっと歳の離れた人でも……好きになるなら人じゃなくたって、」

「でもそれは罪だろう?」

 彼は冷静だった。冷静で、私よりも多くのものを見ていた。
 彼の言葉は私にとって冷水と同じだった。その言葉は私の目を覚まさせた。
 私は咄嗟に首に下げたロザリオを手繰った。それは指が凍るくらいで、この時ばかりは憎いとすら思ってしまった。ロザリオを、そこに連なるものを。偉大なるものの存在を。私たちを縛るものの存在を恨めしく思った。
 私は唇を舐めた。いやに口の中が乾く。からからに枯れて、喉がひりひりと痛む。足元にぽかりと穴が開いたような気さえした。部屋がぎゅっと縮まったような、理由のない閉塞感が私に迫った。
 それでも、私は、

「……罪でも、いいわ」

 私は小さな体を抱き締めた。抱き締めて、痛む喉から声を絞り出した。

「いいわ、私、私だって背負うわ。それであなたが救われるなら……それでも、いい」

 ここにママがいたらきっと頬を張られていたろう。パパがいたら『反省室』に入れられていたろう。でもここにはママもパパもいない。……神様だって、きっと。

「……君は、」

 彼は何か言いたげに私を見上げた。けれど今度は何も言わなかった。目を細めて、私の指に体を擦り寄せた。それは泣きそうな私を慰めるようで、尚更私は胸を痛めた。
 同時に私の中である考えが浮かんだ。もしかすると。そう思い至ったけれど、しかし私がそれを言葉にすることはなかった。
 代わりに私はひとつの決意を固めた。『遅い』と怒られたって『何やってるんだ』と呆れられたって構わない。それでもきっと最後には彼も『仕方ないな』と許してくれるだろうから。