くうっと皮膚が沈みこむ。ごうごうと耳鳴りがする。どくどくと血が脈打ってひりひりと喉がひきつる。
一気に小さくなった世界のなかで、名前にはひとつのものしか見えなくなっていた。わななく首に手をかけ、笑うばかりの男の顔が。
きゅうっとつり上がった口角。ぐんにゃりと折れ曲がった目。ひんやりと恍惚にゆるんだ頬。
ーーあァ、なんて憎らしいの……。
あんまりにも憎らしくて。あんまりにも怨めしくて。だから、だから名前はーー
名前の主はひとところに留まる質ではない。
ーーいや。
もしかすると彼にも静穏なる住まいがあるのかもしれない。ただ、名前が知らないだけで。
ともかく名前が知る限り男に決まった家はなかった。仕事に合わせてホテルを点々とする、そういう生活を好んでいた。
だから名前が主に会うのは決まってホテルの一室である。
部屋に入るとまず柔軟剤の匂いが鼻についた。それから照明のまばゆさに目をぱちぱちとさせ、高い天井から釣り下がる装飾から逃げるように足を進める。
室内には最新式の機械と歴史深い家具が反目することなく慎ましやかに存在していた。けれど名前にはその価値が少しもわからない。名前がわかるのは、革張りのソファに座る男が自分の飼い主であるということだけ。
「ーージン、」
名を呼ぶと、男は顔をあげた。名前を射抜く鋭い眼。ざわりと空気が波打つ。知らず、名前は居住まいを正していた。
「よぉ」
早かったじゃねぇか。黒衣の男は地を這うような低い声をしていた。その声には不思議と人を惹き付ける何かがあるのだと名前は思う。そうでなければ名前の体が勝手に動くのに理由がつかない。精神的な屈服。男の声には、狼を従えるほどの血と硝煙の気配が漂っていた。
「お前には簡単すぎる任務だったか」
「そんなことない」
名前はすかさず否定の言葉を紡いだ。その声そのままに歪んだ顔。渋面に、ジンは馬鹿にしたみたいな笑いを描いた。
「なら骨が折れたとでも?」それにイエスと頷かないと分かっていて、分かっているからこそ彼は問うのだ。この程度の案件で根を上げるのかと。お前にはそれっぽっちの価値しかないのか、と。
不承不承、名前は首を横に振った。「別に……そうは言わないけど……」自分の働きを過小評価されるのは困る。でもだからといって放逐されたくはない。名前がほしいのは正当な評価であり、報酬であった。
ジンもそんな名前の気性をよくわかっていた。なんせそれを引き出したのは彼自身なのだから。何より誰より理解し、認めてくれていた。
「ーー来い」
だから彼は名前を呼んだ。たった一言。それだけで名前の足は自然と前に進む。意識しようと意識しなくとも。もはやそれは本能といってもよかった。
「座れ」指示され、定位置に体を収める。ジンの足元。溺れそうなカーペットに跪く。そうして頭を垂れると、ふうっと空気がゆるむのが肌で感じられた。
「よくやった」
顔を上げろ。そう指示されしずしずと視線をあげる。主の顔を彩る満足げな表情。そこでようやっと名前は肩の力を抜いた。ーーよかった。飼い犬としての心が沸き立つ。その一方でまったく別の感情も首をもたげてくる。それはいつだって名前の中に同居するもので、いつだって対立しあっていた。
でも「褒美がほしいか」と言われればどちらの名前も即座に首肯した。期待に震える胸。歓喜にさざめく唇。男の鋭利な瞳には、欲にまみれた獣の顔が映っていた。
「……素直なことだ」
ふっと吐き出される微かな笑み。それを知覚したかしないかの間に、名前は引き倒されていた。
「…………っ」
打ちつけられた頭。後頭部の痛みに意識がいく間もなく、息が止まった。ひゅうっと呑んだのを最後にひきつった喉は凍った。
名前の飼い主の手によって。
きりきりと視界が明滅する。ぴりぴりと肌が粟立つ。投げ出された腕がひくひくと床を跳ねるのが視界の隅にある。
けれどそれもじきに消えてしまった。
名前の目は男に惹き付けられていた。まぁるく見開いた目で、ただ一人の主を見つめていた。
ジンは馬乗りになって名前の首を絞めていた。彼にとったら首を折ることなんて花を手折るより容易いだろうに、じりじりと焦がす太陽のごとく少しずつ手をかけていった。
少しずつ。少しずつ。気道が狭まっていくのが帳の落ちる視界でわかった。同時に口の方は溺れたようにはくはくと空気を求めた。
ーー苦しかった。
苦しくて、苦しくて、つらかった。
なのに。
「はッ、いいツラじゃねぇか」
なのに、名前の顔は確かに笑っていた。
口端から溢れた唾液が顎を伝い落ちていくのすら悦びに変わる。喉のひりつきも骨の軋みも、与えられる感覚すべてが名前を享楽へと誘った。名前は、法悦の境地に至っていた。
「そんなに気持ちいいか」
返事なんてできない。ジンも求めてなんかいないだろう。獣じみた息が名前の鼻先にかかる。獰猛な獣。鋭い爪を持った獣。補食される名前。
そう、確かに一見すると名前は狩られる側だ。自由を奪われ、生を転がされ。弄ばれるだけの被捕食者だ。
でも名前の心持ちは違った。追い詰められ、宵闇が見えているというのに、それでもなお名前はそう思えなかった。
ジンの目に名前がいるのと同じように、名前の目にもジンがいた。悦びに唇を歪めた獣の顔が映っていた。
愉しそうに、本当に愉しそうに。ジンは名前の首をゆっくりと絞めていく。
「このまま逝ってみるか」
興奮したような声に、しかし名前は微かな抵抗をみせた。囚われた首をほんの少し動かして、拒絶の意を示した。ーーそれは、ダメだ。吐息で囁くと、ジンはより一層愉悦に笑んだ。
「そうだったな」
それを合図にぱっと手が離される。ぱっとひらける世界。途端に流れ込む空気に名前はひどく咳き込んだ。
ジンはといえば何事もなかったみたいにソファに座り直していた。でも名前の首にはぐるりと赤い痕が咲いている。華よりも鮮やかな赤色が。
「まったく酔狂な趣味を持っちまったもんだな」
哀れむように主は言ったが、名前は首を傾げた。「でも愉しいでしょう?」調教過程で与えられた痛みに悦びを見出だしてしまった獣。そんな名前は主の足に艶やかにしなだれかかる。媚びを含んだ甘ったるい声。曲線を強調するようにすり寄せられた体。上目遣いでミルキーウェイの奥を覗きこむ。
「私、ちゃんと頑張るから」あなたの猟犬として。組織の駒として。頑張るから、だから。
「ご褒美だけは忘れないでね」
哀願するように言うと、ジンは低く笑った。「ちょうどおあつらえ向きの仕事があるぜ」名前が来るまで見ていた紙切れを寄越され、ちらりと視線を走らせる。そこにはなんの感情もない。誰が死のうと、誰が殺そうと。そんなの、どうだっていい。
「日本、ね。いいわ、どこだって行ってあげる」
ーーでもきっと大変な仕事だろうからご褒美はとびきりのものを用意してね、ね。
お願いよ、と乞うと主は快く応じてくれた。「何が欲しいんだ?」期待に瞬く目に、にっこりと笑いかける。
「あなたの首がほしいわ」
一瞬、主は不意を食った顔をした。でもそれはすぐに笑いにとって変わった。「そうか、そうだな」自分の首がかかってるのに主は面白いと言う。お前ほどイカれてるヤツはなかなかいないと。
「俺の首をどうするって?」
部屋にでも飾るのか?という予想は残念ながらハズレ。不正解だ。
「違うわ、枕にするの」
うっとりと名前は手を合わせる。「あなたの首を、ね、枕にして眠るのよ。ね、想像してみて」名前の瞼の裏には鮮やかな夢想が広がっていた。ぐるりと赤い首を抱き締めて、同じように赤い首のまま永遠の眠りに落ちる自分の姿が。
「ね、素敵でしょ」
「……悪趣味なことだな」
「そうかしら、そうなのかしら」
でもそれになんの問題があるというのだろう。
「私、あなたを殺すのもあなたに殺されるのも諦めたくないの」
名前にとって組織は人生そのものだった。そしてジンは組織の象徴のようなものだった。
だから憎らしくて、怨めしくて。殺したいのだけれど、同じだけ殺されたいとも思うのだ。
憎しみは愛しさと表裏一体である。世に言われる通り、名前のそれもまた同じだった。憎しみが募れば募るほど、なぜだか愛しさが積み上がっていった。殺したいと思えば思うほど殺されたいとも思った。
これは一種の自己愛なのかもしれない。組織という自分自身の人生への愛着。そういったものから生じたのかもしれない。
「だからね、私が先に死んだら剥製にしてちょうだいね。それで一緒に眠りましょう」
まぁだからといって名前には関係のないことだけれど。