雪の女王Y
その小部屋がお城のどの辺りに位置するのかを私は知らない。たったひとつある扉がどこに通じているのかも、──季節をいくつ跨いだのかも。
だからある日その『扉』の鍵が外されているのに気づいた瞬間──私は理解した。手招かれている、そう確信した。その姿は未だ朧。なれど声だけは私の耳にはっきりと届く。
──おいで、名前。
それはこの時既に耳慣れた音。私の傍らにいつもあった温もり。柔らかな調子。──滲む愛。
──けれど、私は。
「……さむい」
はぁ、と吐く息は白く、指先は悴むばかり。必死で擦り合わせ、ありあわせの熱で寒さを凌ぐ。
──あぁ、こんなことなら『出なければよかった』
エデンにだって蛇はいたのに、あの部屋なら安寧が約束されていた。必要なものはすべて揃っていた。食べ物も着る物も、自然のものから人工的なものまで、何もかもがあの部屋には用意されていた。本当の楽園とはこの地であるのだと、五感すべてに訴えかけてきていた。
それは以前にも得た感覚だった。優しい箱庭。約束された永遠。ロートスの実を食べた私は故郷を忘れてしまった。
──だが、二度目はない。
「さぁ、行かなくちゃ」
誘惑を断ち切るために頬を張る。ぱぁん。乾いた音。ひりつく頬は生きている証。そしてこの世が楽園ではない証明だった。
私は道の先を見た。小部屋からは狭い廊下が管のように伸びていた。それはさながらクノッソスの迷宮。灯りは等間隔に並べられた蝋燭のみ。居並ぶ扉はすべて同じように思えた。けれどすべてが求めているものと違うのだと直感した。
歩き続けた先に何があるのか。ともかく私は足を進めた。そうするより他になかったし、暗闇が怖いというわけでもない。
けれどやがて道の先に並ぶ照明が増え、視界が明瞭になっていくにつれ安堵が生まれたのもまた真実。私にアリアドネーの祝福はない。頼れるのは己のみ。だからほっとした。
「これは……」
増えたのは照明だけではない。
最初は無地の壁紙だけ。装飾のひとつもなかった壁面に、絵画や彫像が飾られるようになった。
アングルの裸体画。ミロのヴィーナス像。果てはクルチザンヌの肖像まで。共通するのはすべて『女』であるという点。様々な顔をした『女』たち。様々な役割を持った『女』たち。おびただしい数の『女』がそこにいた。
そしてその突き当たりにいたのは──。
「これは、ラファエロの……」
「そう、聖母子像だ」
声はすぐ後ろから響いた。
振り返った先にあるのは──黄金。目映いほどに美しい金糸を揺らめかせ、青年は目を細めた。何かに焦がれるように。或いは──諦念を持て余すように。
こつり、と靴音が響く。革靴は磨き抜かれ、一目で青年がやんごとなき身分であると窺い知れた。糊のきいたスーツも、ボタンひとつ取ったって私にはその価値を推し量ることができない。
私とは似て非なるもの。同じ人であっても隔たったもの。
なのに彼はごく親しげに──それでもほんの少しだけ躊躇いを覗かせて──手を伸ばす。
触れる先、指が撫でるのは私の髪。彼と同じく異国の色。好奇と嫌悪を浴びる原因に、彼はいとも容易く触れてきた。
「おんなじ色だ」
「あなたと?」
「いいや、──彼女と」
彼は──カラスと同じ声を持った青年は──聖母子画に目を向けた。聖母子と幼児聖ヨハネ。『永遠に母なるもの』の象徴を、彼は焦がれる目で見つめた。
「不思議とこの人だけは怖くなかったんだ。他のどんな女性も俺は愛せなかったのに、……この人には愛されたかった」
彼はもう何を隠すこともしなかった。その台詞がカラスと同じであることも、高貴な身の上であることも。
それは私と共に過ごしたのが彼であることを、その予感を肯定するものだった。
「だから、君を城に招き入れた。なんの見返りもなく、途方もない道のりを無償の愛のために歩いてきた君なら……君ならこんな風に愛してくれるんじゃないかって」
ごめんね、と彼は言った。
その顔はひどく切なげで、私の胸は痛んだ。騙されたなんて憤りはちっともない。例え彼の瞳に映る私が、私ですらすぐに『それ』と気づかぬほどに時を重ねていたって。彼に数年の時を奪われたとしたって、私は彼を恨む気にはなれなかった。
「……驚かないんだね」
「そんな予感はしてたから」
始めに感じたのは何時だろう。
確か、彼がその話をしてくれた時だ。カラスの彼は女の『人』が怖いと言った。そしてそんな人と結婚をするように周りから勧められているとも。
カラスが人間と結婚するなんて普通なら考えられない。ましてそれが推奨される世界を私は知らない。だから、彼が本当は人間なんじゃないかと思った。
そしてそれを隠す理由といえば──ひとつしか思いつかなかった。
「……なのに逃げなかったんだ」
「だって私が助けられたのは真実だもの。あの冬の日、あなたが見つけてくれたこと、本当に嬉しかったから。ありがとうって、『あなた』にもちゃんと、伝えたかったから」
お人好し、と彼は泣きそうに笑った。そう言われても私が考えることといえばどうすればその濡れた瞳を乾かせるかといったことで、責める言葉ひとつ思い浮かばない。
たぶん、私は彼のことが思いの外気に入っているのだ。とても好きだった。きっと、『彼』がいなければ今すぐ抱き締めていたろう。それくらいに私は目の前の青年を恋しく思っていた。
「どうしてバレたんだろう?我ながら迫真の演技だったと思うんだけどなぁ」
「うーん……」
私は彼との日々を思い返した。
そのいずれもがありふれた、特筆するもののない日常だった。彼の言葉に相槌を打つ。そんなことが私にとっては酷く輝かしい時間だった。
「あなたたぶん人を騙すとか自分を偽るとかそういうの不得手なのよ、自分では気づいていないのかもしれないけど」
そう言うと、彼は何故だかくしゃりと顔を歪めた。より一層涙の色を滲ませて、「そうだね」と微笑んだ。
「君が言うならそうなのかもしれない」
彼は指の腹で私の頬を撫でた。そしてそっと顔を傾け、距離を詰めた。
私には多くのものが見えた。頼りなく震える睫毛も、陽炎のような眼差しも。彼を構成する幾つものものが私には見え、彼の胸中を占める幾つもの感情を感じ取ることができた。
彼の瞳に映る私はもう子供じゃない。たぶんきっと、『彼』もそうだろう。ひょっとすると私のことも忘れているかもしれない。執念深くも追ってくる『私』を疎ましく思うかもしれない。
けれど、私たちの隔たりがゼロになることはなかった。
「……どうか忘れないで」
波のように押し寄せる感情が胸に迫る。喉元を塞いで、上手く息ができない。苦しい。すべてを忘れられたらどんなに楽だろう?苦しくて、仕方がない。そんな顔をさせてしまう私が、悲しくてしようがない。
「僕と過ごした日々のこと。交わした言葉のこと。俺のことを──どうか忘れないで」
でも、あぁ、
「この想いだけは忘れて。もう二度と、君の心を悩ますことがないように」
私は必死で首を振った。今ではもう降り注ぐ雨が私の目から溢れ出す涙なのかすらもわからなかった。泣いているのは彼なのか、私なのか。離別の時を惜しんでいるのは彼なのか、私なのか。もうわからない。ただ確かなのは私が彼を愛しく思うのと同じように、彼もまた私を私の意志を大切にしてくれているということだった。
だからこそ哀しくて、私たちは二人して泣いた。
「……あなたも、忘れて。お願いね、あなたの『友達』だった私のことだけ覚えていて、」
「うん、」
「いつかきっと幸せになってね、私よりもずっと、幸せになってね」
「……うん、」
「それが例え『罪』だったとしても、……一緒に背負う人がいることを、忘れないでね」
「うん……!」
私たちは二人してバカみたいに泣いた。どこから沸き出すのかわからないくらいに泣き続けた。それが終わるのを恐れるようにして泣いた。終わったら私はこの城を出ていく。お互いにそれを理解していたから、私たちは時を惜しんだ。
私は額を重ね合わせた彼の顔をじっと見た。涙に曇っていてもその顔はとても美しかった。彼の世界に神はいないのに、彼は誰より神らしく美しかった。
その顔を忘れないように、私は胸に焼きつけた。彼もきっと同じだったのだろう。でも確かめる術はない。それでいいのだと私は己に言い聞かせた。私は『彼』を裏切れない。だから仕方がないのだと言い聞かせた。それ以外に痛む胸から目を逸らす方法が見つからなかった。
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パーセル作『ディドとエネアス(ディドのアリア)』より引用。