もしも幼いときに降谷零と出会っていたら

 名前たち組織の子どもは良くも悪くも普通とはかけ離れていた。そしてそれは仕事をする上で益であり害でもあった。
 だから。

「今日から1ヶ月、お前はここで"普通の子ども"として暮らすんだ」

 そう、命令がくだるのも想定の範囲内だった。ただ、国を跨ぐのだけはさすがの名前も驚いてしまったが。
 季節は夏。乾いた太陽と蒸れた地面に挟まれた国。小さな島国で、名前は一月過ごさねばならないらしい。
 引率には年若い男が一人選ばれた。20歳ほどに見える男は名前の"兄"だといった。確かに、顔の造りから流れる血は同じように思える。だが鳶色の目は少しの温かさもなくて、はて家族とはこんなものなのかしらと名前でも首を傾げざるをえなかった。
 そんなだったから、いつもの白い部屋から脱け出せたというのに名前の気分はちっとも晴れない。むしろ組織の檻を痛感して滅入るばかりだ。どんなに遠く離れたって名前の首には枷が嵌まってる。お前はどこにも逃げられやしないんだ。そう、言われているようで。
 おまけに下された指令がまた名前の気を重くした。"普通の子ども"、それは、いったいどんなだろう。
 生まれてこの方、名前が"そう"であったことなど1度もない。周りにいたのも名前の"きょうだい"か"先生"ばかりで、組織の求める"普通"はどこにもなかった。
 ただまったく知らないというわけでもない。一応、知識としては頭に入っている。そういう演技も学ばされてきた。だから"普通の子ども"の振る舞いをしろと命じられれば応えられる。"そういうもの"のフリはできる。
 でも、"普通の子ども"らしく、けれど"自由に振る舞え"というのは名前にはあまりに難題すぎた。夏休みという与えられた猶予の中で、"普通の子ども"なら何をして過ごすのだろう。勉強?遊戯?どちらも名前にはうまく想像ができない。
 例えば勉強なら、"普通の子ども"には夏休みの課題なんてものが与えられるようだが、しかし名前に言いつけられた覚えはないから何をすればいいかわからない。それに"普通の子ども"なら進んで勉強をしようとはしないらしい。ふらりと入った書店には子どもにどう勉強させるかという内容の本が平積みされていたから、たぶん深刻な悩みなのだろう。
 もうひとつ、遊戯の方なら。そう思ったのだけれど、休みだというのに子どもが外で遊んでいるのを見かけなかった。いたとしても身内の集まりだったりで名前が混ざりに行ける雰囲気ではない。では室内で、と考えても、何をしたらいいのやら。
 ーーちっとも、わからない。
 けど家にいても監視の目が厳しい。ぼうっとしていると急き立てるような目で見られる。お前は何をしているんだ。そう言いたげに。これではおちおち家にいることもできない。
 仕方なしに名前は家を出た。時刻は午前10時。これから余計日差しが強くなるのだと思うと憂鬱な気持ちになる。外で過ごすには過酷な環境だ。
 さて、これからどうしよう。

「……ほんとうに、どうしよう」

 名前はマンションの階段に座り込んだ。
 近辺の施設は既にあらかた見て回った。特に惹かれるものはなかったのでまた行こうとは思えない。行ったところで今日一日過ごしきれるかどうか。
 でも遠方に足を運ぶのは"普通の子ども"らしくない。18時までには家に帰ること。それがルールだった。
 名前は途方に暮れた。壁と天井の間から覗く青空を眺め、溜め息をつく。このまま、ここで時間が経つのを待とうかしら。ひんやりしたコンクリートにそんなことまで思ってしまう。
 そんな名前に、影が落ちた。

「あれ?名前ちゃん?」

 こんなところで何してるの。そう訊ねる少年は気さくに微笑んだ。

「レイ、」

「こら、零"さん"だろ」

 腰に手を当てて怒った風に言う少年は、降谷零といった。名前と同じ階に居を構える独り暮らしの学生。それ以外、名前は彼のことを知らない。彼も、名前が"夏休みの間だけ年の離れた兄のもとで過ごすことになった小学生"としか知らないはずだ。
 なのに零は名前のことをずっと昔から知ってるみたいに接してくる。「どうしたの?体調でも悪い?」なんてわざわざ屈みこんで聞いてくる。合わせられる目線が物珍しくて、名前はいつも落ち着かなくなってしまう。

「ううん、なんでもない……」

 おどおどと答えると、零は眉を下げた。「なんでもないって顔じゃないよ」こつり、重なる額。「熱は……なさそうだけど」山のせせらぎのようにしずかな目。透き通った色。きれい、と名前は心の中で呟いた。名前が見てきた中で、一等きれいな光だ。

「なにか嫌なことでもあった?」

 一瞬、どきりとした。見透かされた、そんな気がした。
 慌てて、名前は首を振る。「なんにも、ないよ」その声は自分でも驚くほど弱々しかった。
 名前がそう思うのだ。零はもっと強く感じ取っただろう。彼の顔つきが変わった。いつものふわふわしたものじゃない、険しい顔。「そう……」さっと視線が名前の体を走る。観察する目に、名前は体を強張らせた。やってしまったかもしれない。彼に、悟られてしまったかもしれない。そう思うと、ぎゅっと心臓が跳ねた。気道を塞ぐように膨らんだ。息が、できない。
 「あの、あのね、」名前はスカートを握り締めた。でもどんなに絞っても続く言葉は見つからない。ほとほと困り果て、目を落とした。そうすると自分のちっぽけな膝小僧が目に入って。零の大きな足と見比べて何故だか悲しくなった。
 俯く名前に何を感じたのか。零は暫し黙り混んだあと、ふっと息を吐いた。緩む空気とは反対に名前の肩は強張る。
 でも。

「……行くところがないなら、俺の部屋に来る?」

 ぽん、と頭にかかる温もり。初めて触れる柔らかさに、名前は目を丸くした。
 これは渡りに船だ。名前にとっては的確な救いだ。でも零の迷惑になるんじゃなかろうか。いや、迷惑ならとうにかけている。ここで会ってしまった時点で。なら、もういいのでは?一度も二度も同じなのでは?それに誘ってくれたのは零の方だ。快諾したって問題はないだろう。
 そんな子どもらしい我儘から、名前は小さく頷いた。

「何もないところだけどゆっくりしていって」

 何もないというのは名前の部屋こそを言うだろう。そんなことを考えながら、彼の家に足を踏み入れた。
 まず一番に目についたのはうず高く積まれた本だった。小説から小難しい専門書、参考書の類いまで雑多に置かれている。

「勉強してたの?」

 テーブルの上にも本と書きかけのノートがあるところから、名前はそう思った。すると零は、「うん、でも休憩しようと思ってたから」と笑った。先刻外出していたのもそれだと言う。証拠のように持っていたビニール袋から冷蔵庫に中身を移し変える。

「名前ちゃんにはこれをあげよう」

 咄嗟に、差し出されたものを受け取ってしまった。そうしてから何かしらと手の中をまじまじと見た。深緑のパッケージ。それがアイスだということは名前の手が一気に冷まされたことからもわかった。

「こんなの、受け取れない」

 慌ててかぶりを振る。「なんの褒美でもないのに」名前は突っ返そうとしたのだけれど、零は認めてくれなかった。

「そんな大それたものじゃないんだから、いいんだよ」

「でも、」

 なおも言い募ろうとする名前に、零は「わかった」と手を打った。

「ならこれはお礼、ね?俺の誘いを受けてくれた、お礼」

 にっこり。爽やかな笑顔なのにそこには有無を言わせぬ圧力があった。
 「……わかった」名前はすすめられるがままにソファに座った。その隣に零も腰を下ろし、テレビをつける。「うーん、子どもが見るようなのはやってないなぁ」さくり、と棒状のアイスを食む零に促され、名前もアイスに手をつける。日本を詰め込んだみたいなそれは、名前にはほんの少し苦かった。

「おいしい?」

「うん、」

 でもおいしいのは事実だ。初めて食べる味。苦さと甘さの混じりあったもの。不思議な食感。「おいしいよ」すると零は安心したように微笑んだ。「……よかった」どうして彼がそんな顔をするのか、名前にはさっぱりわからなかったけれど。

「ありがとう……」

 名前も精一杯の笑顔で返した。「でも、私に付き合ってくれなくて平気だから」のこのこ着いてきた自分の言うセリフじゃないが。でも彼の努力の形跡を見ると、名前のうちに申し訳なさが込み上げてくる。

「ここに置いてくれたので私は十分だから、レイは好きにしてていいよ」

「…………」

 零は、呆気にとられた顔をした。でも名前が目を逸らさないでいると、「わかった」と頷いてくれた。

「それが君の望みなら」

 アイスを食べ終えると、零は勉強に戻った。ページを捲る音。ペンの走る音。テレビの騒音が消えた室内にはそれだけが響いていた。それはどこか厳かな香りが漂うもので。まっすぐ伸びた背は、侵しがたい聖域のようだった。
 名前はそろりと視線を走らせた。やっぱり目につくのは山となった書籍たち。好きにしていい、と零は言っていたけれど。
 逡巡したのち、名前は一冊の文庫本を手に取った。そろり、そろり。ページを開きながら、零を窺う。考え考え滑る指先が止まる様子はない。
 ほっとして、名前はソファに深く沈んだ。

「ごめんなさい、遅くまで……」

 結局、名前は門限ギリギリまで彼の家にいた。昼食を共にし、零が休憩するときにはぽつりぽつりと話をし。それ以外はずっと本を読んで。そうしているうちに、あっという間に時間は過ぎ去っていた。
 頭を下げる名前に、零は頬を掻いた。「俺はなんにもしてないよ」困ったような仕草。「誘ったのは俺なのに、逆に申し訳ないくらいだ」そんなことまで言う始末。
 名前は慌てて彼の手を握った。「そんなことない、」衝動のまま、口をついて出たのは本心だった。

「ここに居ていいって、そう言ってくれて、うれしかった」

 それだけで、名前は満たされた。家にいても睨まれて、外に出ても疎外感を覚えて。どこにも居場所がなかった名前を初めて受け入れてくれたのは零だ。ここにいる間、名前は"普通"であることを忘れられた。"普通"も"普通じゃない"も忘れて、ただの"名前"としていられた。それは名前が何より求めていたものだった。

「ありがとう」

 二度目の感謝ははっきりと言えた。彼のまっさらな目を見て、それに負けないくらいの気持ちで伝えることができた。これだけでこの先も頑張れる、そう思えた。
 なのに。

「……なら、いつでもおいでよ」

 零はあっさりと名前の上を行く。名前の手を握り返し、もう片方の手で頭を撫でる。慈しむように、優しく。

「君ならいつだって歓迎だよ」

 微笑みに、心が揺らめく。ざわりと音を立てて名前の中を吹き抜けていく。それは一陣の風だった。春のような温もりだった。
 その優しさが名前には劇薬らしく。

「……うん、」

 ようやっと名前にできたのは、やっぱり小さく頷くことだけだった。