ジョルノ√【後日談】承


 名前はシェードを上げた。雲ひとつない晴天だった。太陽は目映いばかりで、稜線の向こう側に伸びる山々の連なりまでも見ることができた。
 名前は目を閉じた。どこからか聞こえるのは鳥の囀ずりと川の流れる音だった。余りに穏やかで、怖いくらいに安らかだった。
 これほど清々しい朝は何時ぶりだろう、と名前は思った。ずっと幼い頃には当たり前にあったような気がする。でもその時ともまた違う心持ちだった。

「……眩しい、」

 声がした。
 振り返る。と、そちらには雪を被った山がひとつ。それがもぞりと動いて、覗くのは春の若草。その瞳は未だ夢見るが如く。蕩ける蜜のようで、名前はくすりと笑む。

「あなたがこんなにお寝坊さんだなんて。私、知らなかったわ」

「僕もです」

 ジョルノは欠伸をした。子供のように、何に憚ることもなく。そうするといたいけな少年のようで、なんだか擽ったい気持ちになる。

「あなたがそうしているとまるでreposoirみたいね。なんでもないベッドのはずなんだけど」

 ベッドをルポゾワール──聖人の遺体を安置するために飾りつけられた祭壇に喩える。するとジョルノは「なんですかそれ」とおかしそうに笑った。
 それは何も彼が無自覚だというのではない。彼は自分の容貌を客観的に理解している。だというのに名前が褒めそやすと途端に愉快がるから不思議だ。名前としてはどんな言葉を尽くして語ってもまだ足りないくらいだというのに。

「それを言うならあなたもおんなじだ」

「わたし?」

「そう」

 ジョルノは目を細めた。

「あなたの瞳と髪の色、まるで聖人の色だ」

 彼は謳うように続ける。空の色を移した名前の瞳、真昼には碧眼にも見えるそれと黄金色の髪。そのふたつを聖母のものと同列に扱う彼に羞恥の色はない。……名前とは違って。
 言い出したのは自分なのに同じようなことを返されると急速に気恥ずかしさが込み上げる。

「……それはさておき、」

 名前は頬を染めたままベッドに寄った。少し前までは自分も横たわっていたそれ。今ではジョルノだけが居座るベッドに手を置いて、屈み込む。

「あなたがゆっくりできたんならいいんだけど、」

 ぎぃ、と軋むのは古ぼけた色の木材。それともベッドのスプリング?どちらにせよ平和な音だ。都会の喧騒よりも居心地がいい。
 名前の視線の下にはジョルノがいた。警戒心の一片すらない澄んだ瞳。今朝の空みたいに清純な色。それは滑らかな輪郭も太陽を溶かした髪も変わらない。どちらも名前の大好きな色で、そのひとつに唇を落とす。柔らかな目尻に口づけて、それから名前は微笑んだ。

「でもいい加減ひとりは飽きちゃったわ」

 そろそろ構ってほしい、なんて。我が儘を言ってしまえるのは相手が彼だからだろう。子供のように口を尖らせても彼は優しく受け入れてくれる。そう知っているから、名前は自分でも驚くくらいの甘えを見せてしまう。
 そしてジョルノはといえば。やっぱりこの時も「しょうがないなぁ」なんて蕩けんばかりの笑みを見せて、そっと身を起こした。
 それからお返しとばかりに降るのは口づけの雨。額に、瞼に、頬に。そして最後に唇へと触れて、彼は名前を抱き締めた。

「おはよう、名前」

 その囁きひとつでどれほどの幸福が齎されるか。その一片でも同じならいいと思いながら、名前はその背に手を回した。




 親類から頼まれたのは留守の間の屋敷の掃除と庭の手入れ、その他簡単なことで、それ以外は自由にしていいというのだからこれほど気が楽なものはないだろう。例えそれがどんな田舎であろうと、未知の世界(と言うには大袈裟だか)はいつだって心を踊らせる。しかもそれが期限つき、シーズンが終わるまでとくれば見るものすべてが輝いて見えた。

「今日の予定は?」

 朝食を終え、ジョルノはカフェラッテを飲みながら名前に訊ねる。常ならばそれに分刻みのスケジュールを心苦しくも伝えるところだけれど、今はヴァカンスのシーズン。予定なんてあってないようなもの。
 「そうねぇ……」名前はゆっくりと思考を巡らした。そうしながら思い描くのは周辺の景色。なだらかな牧草地帯だとか緩やかに流れる小川だとか、そうしたものを考える。

「そういえば牧師さんからいつでもお茶に来てって言われてたわ」

「お茶会か、いいですね」

 平和な日常の中で、ジョルノはふわりと笑う。ギャングのボスとしての顔は石畳の街に置いてきたのだと言わんばかりの表情。それを見ていると名前の心まで浮き足だってしまう。いつも、いつも。何年経とうとこればかりは変わらないだろう。
 きっとジョルノこそが現代のアンティノオスだわ、と名前は感動した。彼は多くの彫刻になっているけれど、名前はジョルノこそが一等彼に近いのだと確信している。大帝どころではない。ジョルノに与えられたのは神々の寵愛だ。そうに違いない。
 と、──自身の考えが余りに素晴らしくて、名前は相好を崩した。

「あ、でも他にもあるのよ。お医者さまにもね、今度絵画やお芝居の話をしませんかって。ジョルノもそういうの詳しいでしょう?だから『いいですね、またいつか』って言っておいたの……三日前のことだけど」

「へえ?」

「それからええっと……誰だったかしら?画家さんか学者さんか……、ダメね、親切なのは嬉しいけど私じゃ覚えきれないわ」

 名前は「歳かしら」と眉を下げた。それは「そんなことないですよ」と否定してくれるのを期待した台詞だった。いつもの彼ならばそう言って、名前の細やかな懸念などは吹き飛ばしてくれた。そう、いつもなら。

「…………」

 けれど今は非日常。「……ジョルノ?」不審に思い、首を傾げるがジョルノからの返答はない。黙したまま、目を伏せた彼からは感情を窺い知ることすら叶わない。
 不安になり、名前は胸元を押さえた。──嫌な感じだ。ざわざわと揺れる感覚。鬱蒼とした心に、息が詰まる。

「あの、……」

「でもぼくはあなたと二人きりがいいな」

 ──そしてその暗雲を晴らすのもやはり彼にしかできないことだった。
 ジョルノはにっこりと笑った。それまでの沈黙が嘘のようだった。そのことに引っ掛かりを覚えないでもなかった、が、名前にとってはその笑顔こそが重要で、ほっと胸を撫で下ろした。その笑顔と、その言葉さえあれば、他のことなんてどうでもよかった。今だけは、そう思っていたかった。

「じゃ、じゃあ釣りなんてどうかしら?鱒とか……は、ちょっと遅いかもしれないけど、でもやってみたいわ、あなたと」

「……いいですね」

 ジョルノの手が伸びる。撫でられるのは名前の膚。指先が輪郭を伝い、親指の腹が名前の目許をなぞった。何故だか無性にどきどきして、名前は目をさ迷わせた。けれど嫌な感じはもうなかった。
 だから名前はその手に応えた。自身のそれをジョルノの手に重ね、遠慮がちに頬を擦り寄せた。そうするとあからさまなまでにジョルノは目許を緩めたから、名前もまた嬉しくなった。

「でもあなた、釣りなんてできるんですか?じっとしてなくちゃダメなんですよ」

「し、失礼ね……、ジョルノこそどうなの?やったことあるの?」

「ないですけど、でも名前よりかは向いてると思うな」

「ほんとに失礼!」

 眉を釣り上げながら、名前はふと既視感を抱いた。フランス語でしか言えないあの感覚。でもすぐに思い至る。
 ──あぁ、そういえば。
 そういえば、以前にも似たような会話を交わしたことがあった。今よりも前、名前が子供だった頃。そういえば、ついぞ彼の腕前を知ることはなかった。穏やかな横顔。未来を語る眼差し。隣に確かに存在していた温もり。尊敬していた人。──そして今でも変わらず心の奥深くに横たわる面影。

「……名前?」

 怪訝に傾ぐ瞳。そこから溢れるのは名前への優しさばかり。──でも、だからこそ怖くなる。優しい人は生き急ぐ人ばかりだ。少なくとも、名前が知る限りでは。

「……ううん、」

 名前はちいさく首を振った。それから彼の手をぎゅっと握った。
 今でも恐怖はある。喪うことは恐ろしい。でも──止められないのもよく知っている。そしてそういう人だからこそ好きになったのだとも。

「いっぱい、楽しみましょうね」

 だから名前は離れられない。どうしたって手放せない。未来の喪失に怯えているのに、それでもだからこそ先に逃げてしまえばいいのに、そんなことすらできないでいる。
 故に名前はぎこちなくも笑った。どうしたって変われないのならば、名前が手を尽くすしかない。『そうならない』ために、『そうなっても』後悔しないように。

「……そうですね」

 そんな心中をすべて見透かしたように、ジョルノは微笑んだ。泣きたくなるくらいに美しくて、愛おしかった。