ジョルノ√【後日談】転
実のところこの国はあまり農業に適した環境ではない。土地は起伏に富んでいるし、土壌だって豊かとは言いがたい。だから自然に適応できる植物というのも限られたもので、故にオリーブやブドウなどの耕作が盛んになったのだ。
──なんてことを思い返しながら、名前はオリーブの木にハサミを入れていた。
「あつ……」
日差しは強く、空気は乾燥している。名前は空を仰ぎ、首筋を伝う汗を拭った。とはいえ途中で放り出すわけにはいかない。
オリーブは枝にだって価値があるのだ。その小枝は家畜の餌や寝床に利用されるし、大きな枝は家具や用具として使われている。植えてから実が成るまでに時間はかかるが、それでもこの国で愛されているのはそういう訳である。
「……なんて、私も教わっただけなんだけど」
教えてもらったのは誰からだったか。ほんの数年前のことだというのに随分と昔のことのように思う。随分と遠くへ来たのだ、と。
この国へ来てからも様々なことがあった。死にかけだった名前を救ってくれたひと。今ではもう手の届かないひと。彼らは名前に多くのことを教えてくれた。この国のこともその一つだった。
『昔の人はオリーブの木さえあれば生きていけると思ってたくらいなんだ』そう笑った横顔。艶やかな黒髪が印象的な彼は存外自然のことに詳しかった。広大なる海のこと、野に咲く草花のこと。そうしたものを彼は愛おしげな眼差しで語ってくれた。その横顔が名前は好きだった。尊敬していた。守りたいと思っていた。
──そして、それは今でも。
「……精が出ますね」
「わぁっ!」
深く考え込んでいたのか。突然の気配に名前は素っ頓狂な声を上げた。
木々の間、緑を揺らして現れた影。ジョルノはそんな名前を見て目を丸くし、そしてくすくすと笑い声を立てた。
「なんですか、そんな幽霊でも出たみたいな」
「だって驚いたんだもの!」
物音ひとつなかった。たぶん、きっと。忍び足で歩くのが癖になっているのか。恐らくはそのはず。だから、名前が特別鈍いのではない。……たぶん、きっと。
でもジョルノは「油断しすぎです」と名前の額を指先で小突いた。「そんなんじゃあちゃんと帰れるのか心配だな」にやにや。彼の瞳に瞬くのは揶揄いの色。
時々ジョルノは意地悪になる。それは大概名前が些細なヘマをした時で、その目には同時に深い愛情が横たわっていた。
そんなだから名前も「酷いわ!」と抗議しながら、しかし口角は緩んだまま。
「平気よ、私、やる時はやるもの」
「自分で言う?」
「言うわ、『言霊』ってあるでしょう?」
名前は胸を張って言った。大事なところは日本語で。それをジョルノはちゃんと理解した。理解して、その上で「ここはイタリアですよ」と笑った。
そうしてから彼はごく自然な動作で名前の手から大振りの鋏を取り上げた。
「そろそろ休憩しましょう」
庭師の真似事は一端お休み。ジョルノは優しく笑み、名前の額をタオルで拭った。そして汗で張りつく髪をそっと払った。
「まったく、そこまで熱心にやらなくっても……」
「あら、そう言うなら代わってくれてもいいのよ?」
「でもそうしたらあなたは町に行くでしょう?」
「そりゃあ時間は有効に使わないと。あなたが庭の手入れをしてくれるなら私が買い出しに行くのは当然じゃない?」
名前が言うと、ジョルノはあからさまに渋い顔をした。
屋敷の主が名前たちに望んだことのひとつが庭園の手入れであった。さすがに庭師ほどの仕事は求められていなかったが、日々の軽いお世話だってその広さを考えればなかなかに重労働。それもこの暑さとくればなおさらだ。
だがジョルノが渋面を作ったのはそれが理由なのではない。
「……やっぱり二人でやりましょう」
「町に行くのも?」
「ええ、当然です」
ジョルノはじいっと名前を見た。それは訴えかける響きをしていた。あんまりにも真面目で、真剣な色合いをしていた。
その様子に満足し、名前は笑った。
「そう言ってくれるならいいわ、ジョルノのいいようにして」
実のところ、最初から『それ』を待っていた。『わざわざ二人揃って買い出しに行かなくてもいいんじゃないかしら』と提案したのも、『私が町に行くからその間お庭のお世話をお願いしてもいい?』と言ったのも。彼が迷った挙げ句、不承不承名前に庭の方を譲ったのも。全部、計画通りだった。
そしてそれはジョルノも勿論承知していて。
「酷いのはどっちだか」
彼は溜め息を吐き、けれど確かに表情を緩めた。ほっとした。そういった顔だった。
それがまた嬉しくて、──愛おしくて。
「だってジョルノったらやけに町のこと気にするんだもの」
名前は声を弾ませて、彼のすべらかな頬に唇を寄せた。
「さすがの私でも気づいたわ。……ありがと、妬いてくれて」
「気づいてたんならこんな酷いことはよしてくださいよ」
「ええ、もうやめるわ。約束」
本当は気づいたというよりは『もしかして』と思っただけ。──もしかして、ジョルノは。近頃やたらと名前の交遊関係を気にする様子からふと思い、しかしそれが自分の都合のいい妄想なのではと恥ずかしくなり、けれど結局知りたくなってこうして鎌をかけたわけだが……
『こんな酷いことはよしてくださいよ』──その声の甘さ、縋るような物言い、子供のように頼りなげに揺れる瞳といったら!心臓の射抜かれる音がした。止まるかと思ったくらいだ。
そんな具合であったから、指を絡める名前の頬はだらしなく緩んだままであった。
「えへへ……」
「まったく、」
やれやれと呟き、それからジョルノは「時々意地悪になりますよね、あなた」と続けた。
「我がエレクトラは悪戯で困るな」
エレクトラ──『優しいいたわりをもって愛してくれる女性』──そう呼びかけられて、名前は頬を染めた。言い過ぎだ──そう返そうとして、しかしその前にその唇は封じられた。──他ならぬ、彼のそれによって。
「……お返しです」
彼の背後からは澄んだ日差しが差し込んでいた。それは金の髪を白々と縁取り、神々しいばかりであった。悪戯っぽい微笑も細められた目も、何もかもが尊く、美しいものだった。
「……やっぱりあなたの方がズルいわ」
顔を覆った名前に、「今さら照れることですか」と笑みを含んだ声が落ちる。けれどそういうことではないのだと名前は言いたい。そういうことではない。慣れるとか慣れないとか、そういうのではなく。ただ──愛おしいという気持ちが溢れてしようがないのだ。
しかしそう反論しようにも高熱に見舞われた名前にはどうすることもできなかった。ただ背中に回された手に促されるがまま家路につくことしか、名前にできることはなかったのだった。