Prospice


 ふ、と。足元の感覚がなくなったのはボートから岸に上がる時だった。突然の脱力感。そこにあるのは確かなのに、そうとは思えない錯覚。あれ、と思う間に傾ぐ体。回る視界に、しまったと思ってももう遅い。名前は咄嗟に目を閉じ、衝撃に備えた。
 ──けれど、その体が地面に叩きつけられることはなかった。

「っ……、大丈夫ですか?」

 ぐいと引き上げられ、鑪を踏む。腰に回った腕。鼻先を掠める声。──憂慮に揺れる、瞳。
 「ジョルノ……、」弱々しい声。呟きは思いがけず頼りないものとなっていて、名前自身が驚いた。いったい自分はどうしたというのか。よく回らない頭でぼうとジョルノを見上げる。
 四月のヴェネツィアといえば雨が多いはずだが、この日の日差しは強く、水面から照り返す光もあって今の名前には目映いばかりであった。目が眩みそうなほどに眩しい。視界がちかちかと瞬いている。
 その体を支えているのは真実ジョルノのはず。だが逆光になっていて、名前には大きな影のようだった。深く伸びる影。そう思えて、名前はジョルノの腕を掴んだ。

「…………、」

 一瞬の静寂があった。それから後、どこか遠くで──或いはそれも名前の錯覚か──二人を呼ぶ声がした。
 ──どうしたんだ?その呼びかけに、名前も答えようとした。──大丈夫、少し立ちくらみがしただけだから──そう言おうとして、なのに何故だか体は言うことを聞かなかった。

「──少し、疲労が出たようです。先に行っててください。ピストルズがお腹を空かせてますから」

「そうか──いや、そうだろうな」

 気遣わしげな視線を感じた。けれどそれもやがて離れ、後には名前とジョルノだけが残された。

「……スタンドを使いすぎたんでしょうか」

 その言葉に、はたと思い至る。先刻までのこと。サン・ジョルジョ・マッジョーレ教会で起こった出来事。組織のボスがトリッシュの命を奪おうとしたこと。それをブチャラティが阻んだこと。──彼の元へ辿り着くのに、自身へ割いていたはずのエネルギーまで使ったこと。それが原因であると思い至り、得心がいく。
 そういえば、列車での戦いの時もそうだった。あの時の途方もない疲弊感。どうして忘れてしまっていたのか。今度はそれと気づかずに自身への能力の発現を解除したせいだろうか。

「……たぶん、あなたの言う通り」

 名前は苦い笑みを噛み殺した。これっぽちのことで立てなくなるなんて情けない。そんな小さな覚悟だったのかと己に詰問してやりたくなる。
 しかしジョルノはふと細やかな微笑を口許に上らせた。

「ジョルノ?」

「……いえ、」

 今度ははぐらかすように笑って、ジョルノは「ありがとうございました」と言った。

「ぼくを抱えていくのは骨が折れたでしょう?」

 冗談めかした物言い。それは名前を気遣うが故のもの。それと察し、名前もようやっと彼の眼を真っ直ぐ見ることができた。
 先程までは眩しいばかりだった。目映い白の中にあって、名前には触れられなかった。けれど今はしっかりとその輝きを認めることができた。霧がかった喉も霞のためにぼやけた眼も静まり、現れたのは穏やかな光だった。

 ──『Fear death?』

 名前は内心で呟いた。どうして私が死を恐れるというのだろう?──たとえ『恐怖』が現れたとしても、私たちは前進しなければならないのだ。それに私たちには光がある。吹き荒ぶ嵐や悪魔の怒号ばかりではない。そう教えてくれたのは、今目の前にある若草色の瞳だった。

「『O thou soul of my soul 』……」

「え?」

「ううん、なんでも」

 思わず口をついて出たのはとある詩の一節。我が魂の魂よ──そう言ったらきっとジョルノは困ったろう。だから聞こえなくてよかった。これは名前が勝手に感じたことで、彼を支えに思うのもまた名前の勝手だった。
 名前は今度こそ地に足をつけてしっかりと立った。未だ懸念の残る眼はしかし曇りのないイリス。光を見上げ、名前は「こちらこそありがとう」と告げた。それから、「もう大丈夫」とも。
 それには二つの意味が籠められていた。もう支えはいらないという意味と、それからもうひとつ。

「……先程のことですが、」

 その思いを察し、ジョルノはそっと口を開いた。ブチャラティたちは既にリストランテへと入店したらしい。彼らは運河を見渡せる席に座り、こちらを気にしている様子だった。

「……うん、」

 彼らを待たせるのは忍びない。第一、時間がない。だから手短に済ませよう。そう考え、名前は腹を据えた。
 もう大丈夫。ジョルノに──彼らに隠し続けたことを明らかにする覚悟はできた。こんなことになってしまったのだ。隠しておく方が今後の行動にも影響が出かねない。それに何より、もう後悔だけはしたくなかった。
 そう、名前は緊張を走らせたのだけれど。

「いえ、何も全部話せって言うつもりはありません」

 ジョルノは小さく首を振る。振って、それから、「ただ、」と名前を見つめ返す。

「知っていることがあるなら教えてほしい。それがどんな些細なことだって」

「ジョルノ……」

 真っ直ぐな眼差しだった。濁りのない、清らかなもの。美しき春の申し子。そこに疑念の類いは一片もなく、ただ信頼だけがそこに横たわっていた。
 ──そんな目を向けられて、胸を打たれない者が果たしてこの世にいるのだろうか?

「……ごめんなさい、本当に私、……知ってることは少ないの。私が会ったことがあるのは多分……親衛隊と呼ばれている人たちだけだから」

 けれどそもそも名前には彼の助けとなる情報がなかった。ボスのスタンドの一端に触れた今、それ以上に価値のある情報は存在しなかったのだ。だから名前は今度は申し訳なさに目を逸らした。
 だがジョルノが明らかな落胆を見せることはなかった。彼は「親衛隊……」と小さく呟き、何事か思案した。

「ごめんなさい、お役に立てなくて」

「いえ、……話してくれて嬉しかったです」

 しかも彼はそう言って、名前に微笑をくれた。隠し事を抱えていた名前に。本当はもっと聞きたいことがあったろうに。その目に宿る信頼の色が揺れることも想定していたというのに。──なのに、彼は。

「……ありがとう」

 もう一度謝罪の言葉を吐きかけて、いや、と思い直した。思い直して、代わりにお礼の言葉を紡いだ。
 今度は名前から彼に手を伸ばした。その手を取って、迷いなく彼を見つめた。

「さっきのこと、……いつだって詰問できたのに……あなたはそうしなかった」

「……ぼくらが知らなければならないのは『それ』だけですから」

「うん、でも……、ありがとう」

「……名前、」

 ジョルノは最初呆気に取られた風だった。驚きに目を丸くし、数度瞬き、それから彼は。

「すみません、嘘吐きました」

 困ったように笑って、名前の手を握り返した。その目許は微かに赤らんでいて、そうしていると普通の少年のようだった。
 彼ははにかみ笑うと、「実は、」と声を潜めた。

「『それ』だけ、と言いましたけど、本当は……知りたいと思う。あなたのこと、あなた自身のこと。いつか……教えてほしい、と」

 そう言ってくれた彼に、名前は「……私も、」と頬を緩める。
 眩しいばかりと思っていた日差しが今は心地がいい。温かで、ずっと触れていたいと思うほどで。──尊いものだと、そう思った。

「知りたいわ、あなたのこと、あなた自身のこと。沢山、話してほしい」

 名前は笑って、小指を差し出した。
 「約束よ、」言うと、ジョルノは一瞬驚いたように名前をまじまじと見た。けれど名前が何を問うより早く、その指に応えた。

「……はい」

 今はもう名前の身に『魔法』はかかっていない。それでも前よりずっと身軽だった。自身へ向けられた死の大鎌を感じながら、けれど仲間が傷つくよりは余程いいと思った。自分を守るための力を切り捨てること、──過去を守り続けること。過ぎ去ったものに追い縋るのはもうやめた。
 今、名前の眼は、未来を見つめていた。






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ロバート・ブラウニング『前を見よ』より。