心麗しければすなわち、
リストランテに入ると、待ち侘びていたらしいフーゴが名前の許へと駆け寄ってきた。
「大丈夫ですか、名前……具合はもう?」
「ええ、平気よ」
フーゴの顔は心底からの気遣いに溢れていた。潜められた眉。うろうろとさ迷う瞳はどんな些細な異常さえ見逃さないといった風だった。彼は心から名前のことを心配していた。
その様子に驚かなかったといえば嘘になる。迷惑をかけてしまった。そう申し訳なく思いこそすれ、彼からそれほどまでに心配されるという予想はしていなかった。気を揉むとしたらナランチャで、けれどフーゴに先を越された彼は席に着いたまま。名前の顔色を見て、ほっと胸を撫で下ろしていた。
「ごめんなさい、心配をかけて」
「いえ、元気になったならよかった」
フーゴは控えめな微笑を刷いた。その声には多くのものが内包されていた。
名前はもう一度フーゴを見た。何故だか初めて見るみたいな感じがした。滲む焦燥は心配性だからというだけではないような気がした。
改めてその顔を見つめ、抱いたのは深い感慨。名状しがたい感覚だった。しかし悪い気はしなかった。温かなものが胸には広がっていた。
「……ありがとう」
口許が綻ぶのは意識したことではない。自然の摂理とでもいうかのよう。微笑むと、フーゴもそれに応えるように笑みを深めた。「よかった、」本当に。噛み締めるように言われ、擽ったい気持ちになる。
そうして視線を絡め──神妙な顔をしているのがなんだかおかしくて、気恥ずかしくて──二人して破顔した。そしてそのむず痒さに押され、名前は悪戯っぽく口角を持ち上げた。
「さっきまではあなたの方が死にそうな顔してたのに」
「なっ……!あれは……!!」
揶揄いにさっと頬に走る朱。羞恥をかき消そうと張り上げた声はしかし次第にか細くなり、最後には「仕方ないだろ……」と言い訳じみた響きがぼそぼそと溢れるのみとなった。
「こんな……バカみたいな真似、正気じゃない……」
フーゴは呻き、嘆くように額を押さえた。吐き出されるのは深い深い嘆息。彼自身、どうしてそんな決断をしたのか理解できていない様子だった。或いは受け入れられないのか。……はたまたその両方か。
しかしそれは何も意外なことじゃなかった。彼はいつだって物事を冷静に俯瞰していたし、何より慎重さ堅実さを好んだ。そういうところを名前は尊敬していたし、だから今回のことも──ボスへの無謀ともいえる背信を──彼が選択するなど夢にも思わなかった。
だから今ここに至ってなお後悔する彼に、名前は「まぁまぁ」と宥めるための声をかけた。
「たまにはバカになるのもね、いいもんでしょう?」
「お気楽ですね……」
フーゴは頭が良かった。明晰な彼の頭脳はこの先の行く末をすら見通しているらしかった。そしてそれは決して明るいものではないのだと彼のどんより暗い顔が声高に主張していた。
しかしそれっぽっちのことでめげる名前ではない。
「確かに希望的観測がすぎるけど」名前は笑って、彼の手を取った。
「でもあなたが来てくれてよかった」
先のことはまだわからない。彼の言う通り、この選択を後悔する日が来るかもしれない。名前がそう感じるほどにボスの持つ威圧感は凄まじかった。
とはいえ最初から名前に選択肢はない。元よりボスの正体を掴むのが目的であったし、故に敵対は避けられぬ道であった。
だが彼らは違う。名前には目的があり、ブチャラティは己の信念に従った。──けれど、フーゴは違う。フーゴには別の選択肢だってあった。彼が安全策を選ぶのは道理であった。
けれどフーゴは今ここにいる。名前の前に立ち、名前のことを心から案じている。
──それが、どんなに尊いことか。
その思いをただ一言に籠める。彼がそうしたように、名前はその言葉を噛み締めた。
「……そうですか、」
フーゴは一瞬瞠目した。虚を突かれたといった風に目を瞬かせ、それから目を伏せた。
そうですか。たったそれだけ。ぶっきらぼうにも聞こえる呟きであったけれど、しかし彼の本心は微かに染まった膚が如実に表していた。
「まぁ、」こほん。取り繕うように咳払いし、フーゴは続ける。
「ぼくが抜けちゃあブチャラティの負担が重いでしょうしね、……仕方ない、付き合ってあげますよ」
「そうね、みんなきっとあなたがいてくれて良かったって思ってるわ」
「あのですね、……バカにされてるの気づいてます?」
「え?バカにされてたの?」
首を傾げると、深い溜め息を吐かれた。「まったく、やってられない」そう言うが、しかしそこにはもう嘆きの色はない。代わりにいつも通りの呆れが溢れていて、──とはいえ眉間の皺は和らいだように思える。
やっぱりフーゴは優しい人だ。然り気無く背中に添えられた手の温もりを感じながら、名前はようやく席に着いた。
「おかえりっ、名前!体調悪いんなら先に言えよなぁ〜〜!」
「そうそう、ナランチャの言う通りだぜ。ピストルズの半分でもいいから自己主張しろっての」
途端、待ち受けるのは賑やかな歓迎。野菜は健康にいいだろう。いやいや、ここは魚を食って栄養を取るのが先じゃないか?そんなことを言い合いながら、ミスタとナランチャは名前の皿に次々食べ物を乗せていく。名前の顔が引き攣るのも無視して。
すると「いやそれは喧しすぎだろう」と冷静に突っ込みを入れていたアバッキオが、向かいからひょいと皿を取り上げた。
「あっ、オイ!」
「なに横取りしてんだよアバッキオォ〜……」
「バカか、ガキは好き嫌いせずに食えって」
アバッキオの言葉で名前も気づく。
今は彼の元へと渡った皿。そこから余計なものだけを二人の元へと戻していく姿を見て、──その余計なものが二人のあまり好まないものだと気づいて──「なんてこと」と殊更哀れっぽい声を上げた。
「酷いわ、私を心配してくれたんじゃなかったのね」
「だってよォ〜……付け合わせの野菜とかいる意味ないと思わないか?」
「オ、オレは別に嫌いとかじゃ……ただちょっと辛かったから……、……ごめん」
名前が涙を拭う仕草をしてもミスタの態度は変わらない。まったく、いけしゃあしゃあと!それに引き換えナランチャときたら、心底申し訳なさそうに眉を下げ、「好き嫌いせずに食べるよ」と名前に対して誓ってくれた。
だから、まぁ。
「いいのよ、ナランチャ。辛いのが苦手っていうのは仕様のないことだもの。ドルチェは頼んでくれた?それでお口直しをするといいわ、私の分もあげるから」
「えっ!?いいの!!?」
目を輝かせるナランチャに名前は頷く。恐らくその顔はだらしないほどに緩んでいることだろう。
その証拠にフーゴはやれやれと首を振っているし、ミスタは「おいおい、オレのと態度が違いすぎないか?」と不満げだ。しかしその抗議は聞かなかったことにした。誠意を見せない方が悪いのだ。
「……だいぶ回復したようだな」
騒いでいると、不意にブチャラティが口を開いた。その目は優しくほどけ、先刻までの緊張が嘘のようだった。
「ええ、ありがとう。お陰さまでよくなったわ」
「そうか。だがまだ少し血色がよくない。今は安静にしてろ」
唇が青いぞ、と指摘され、名前は思わず口許を覆った。そんな自覚はなかった。し、誰も気づかなかった。
「……敵わないなぁ」
ぼやいて、名前はアバッキオが綺麗に整え直してくれた料理に口をつけた。魚介のフリットはあっさりとした味で、今の名前にはちょうどよかった。
ちなみに名前の分の料理を選んでくれたのもアバッキオらしい。年長者二人の気遣いに、名前は「本当にかなわない」と、今度は心の中だけで溜め息を吐いた。