ジョルノ√【後日談】結
名前が寝室に入った時、ジョルノはベッドの上で本を開いていた。
「なにを読んでいるの?」
名前は訊ねながらベッドに上がった。干したてのシーツは夜になってもまだ熱を帯びている。それは例えば人肌。心地のいい温もりに目を細め、ジョルノの肩に頭を置いた。
そんな名前に彼は視線を移す。花が綻ぶみたいな微笑。文字を辿る時は透徹していた瞳が、名前を映すと途端に夢みがちになる。そう、まるで少年のように。表情を和らげ、彼は名前にタイトルを見せた。
「随分愛読していたようですね」
その詩集はサイドテーブルの引き出しにあったのだという。
アメリカの詩人。表紙に刻まれるのは慣れ親しんだ名前。よく知るそれに名前は目を輝かせた。
「ポーね、私も大好きよ」
彼の詩を大人になった後も好む者はアメリカではあまりいなかった。ほとんどが幼少期、或いは青年期に触れたきり。そして日本では一、二編有名なのがあるくらいで、どちらかと言わずとも短編作家としての知名度の方が高かった。
それに彼の詩はどこか作り物めいているという評価もある。音楽性をことのほか大事にしているからか、計画的に練られているという感じが強い。心の赴くままでないというのがその評価に繋がっているのだろう。
「でも私はそこがいいと思うの。日本人に好まれるのもそのせいじゃないかしら。美しい響きっていうのは海を越えても伝わるものだもの」
「そうですね、その点に関しちゃフランス人に賛成です。あぁ、でもイエーツはポーを称賛していたんだったか」
「ええ、確か偉大な抒情詩人って言ってたわ」
名前は嬉しくなって声を弾ませた。
それは単に同じものを美しいと思えたから、というだけではない。それも勿論幸福なことであったが、それ以上に名前が嬉しかったのは、名前とジョルノが余りに遠いところにいたからだった。
ジョルノはその生の殆どをイタリアで過ごし、対して名前の故郷は日本であった。にも関わらず、同じものを愛した。それは奇跡に程近く、とても尊いものだと名前は思った。
名前は笑って、「あなたはどれが好き?」と聞いてみた。
「私はやっぱり『The Bells』かしら。教科書に載ってたから馴染み深いっていうのもあるし……それに何よりこの音色!『From the bells, bells, bells, bells, ……』ってね」
『tinkle』『tintinnabulation』『jingling』……音色を口ずさむとジョルノはくすくすと笑った。「じょうずですね」そして彼は冗談っぽく続けた。
「それじゃあぼくの鐘はあなたに任せようかな」
弧を描く目。けれどその眼差しは星のように降り注ぐ。名前の元。耳へ、瞳へ、膚へと染み渡る。乞うるように、降り注ぐ。
名前はふと考えた。鐘の鳴る時。それは少年期、雪ぞり立てる鈴の音。或いは青年期、結婚式に鳴らす鐘。若しくは中年期、災難を知らせる鐘の音。そして最後に──葬儀の中で鳴り響く鐘。その人生、終点までを名前は思った。病めるときも健やかなるときも──そんなことを思って、名前は微笑んだ。
「ええ、もちろん」
ジョルノは穏やかに頷いた。「そうですか」彼が言ったのはそれだけだった。でもだからこそその答えに満足したのだとよくわかった。彼の目にはもう不安も恐れもなかった。
それからジョルノはページを捲った。「ぼくはこれが好きです」そこには『Eulalie』というタイトルが記されていた。それもまた有名な一編で、名前は「あぁ、それもいい詩よね」と一度二度首を振った。
「脚韻の揃い具合が絶妙で──だから余計に作り物っぽいって言われるんでしょうけど──でも読み上げた時の気持ちよさは素晴らしいわよね」
内容自体にどうという意味はない。美しい君のお陰で僕は救われたのだ──そんなことをひたすらに連ねた詩だ。
『嘆きの谷にただひとり──ぼくの心は澱んだ水のようだったが──麗しく優しいユーラリーが羞じらいがちの花嫁となってくれた──ついに金色の髪のユーラリーが微笑む花嫁となってくれた──もはや疑いも……苦痛も二度とこないのだ──』砂糖を煮詰めたぐらいに甘ったるい!そこがまたアメリカやイギリスなんかでは評価されない原因なのだろう。
そんなことをつらつらと語っていると、不意にジョルノはまたくすりと笑みを溢した。
「どうしたの?」
「いや、」
ジョルノはすっと名前の頬を撫でた。疑問符を浮かべる名前に意味深に口角を上げた。
「鈍感だなぁと思って」ジョルノはうっとりするような微笑を刷いた。それは眩しいものを見ているみたいな目だった。
「残念、せっかく口説いたのに」
その台詞に名前は目を瞬かせ──それから肩を震わした。
「私が黒髪だったら──金色じゃなくて茶色や赤毛だったら花嫁にしてくれなかった?」
悪戯っぽく覗き込む。名前よりも高いところにある目。この数年で開いた距離。愛すべき隔たり。
「いいや?まさか」そうしたものを飛び越えて、ジョルノは名前の頬に口づけた。
「例えあなたが何者であっても──ただの普通の人であっても──」
そこまで言って、彼はふと言葉を止めた。「ジョルノ?」「いえ、」訊ねてみても、眼差しは虚空。何かを考える仕草に、名前はじっと待った。
問い詰めることはしなかった。そうするのが正しいことなのだと直感的に思った。思ってから、以前は彼の方が名前の歩みに合わせてくれたものだと思い出した。色々なことを胸のうちに秘めてきた。そんな名前に、彼は決して急き立てることをしなかった。じっと待って、それから優しく受け止めてくれた。
──だから。
「名前、」
「なぁに」
殊更にゆっくりと。静寂を纏って問い返す。そうするとジョルノもそれに応えてそうっと口を開いた。
「あなたは今、幸せですか?この村で過ごしてみて」
その質問に考える暇は必要なかった。
名前は「もちろん」と躊躇いひとつなく首肯した。「楽しいわ、こういう生活ってあんまり馴染みがないけどね」付け足すと、ジョルノも「そうですね」と顎を引いた。そうですね、でも、
「あなたはきっとすぐに馴染むでしょう。名前、あなたはきっと……どこでだって生きていける」
そう言ったジョルノの顔は笑っていた。いつもと変わらない、柔らかな微笑みだった。けれどそこには寂しさがひとしずく。キャンバスに落ちた水のように滲んでいた。
名前は咄嗟に「あなただって、」と口にしていた。「あなただって、どこででも生きていけるわ」そう言いながら、本当のところは理解していた。彼の言いたいこと。考えていること。──生き方は変えられないってことを。
「……そうですね」
ジョルノの微笑はやっぱり寂しげだった。そうですね。名前の言葉を肯定していたけれど、でもそこに秘されたものを名前は感じ取った。
ジョルノだってどこででも生きていける。でもきっと、彼はそれを望まない。波風のない村での平和な日々。そうしたものを愛おしく思うのは真実であるのに、彼は決してそこに骨を埋めようとはしない。ジョルノは絶対にあの街へと帰ってしまう。いかに血と抗争にまみれていようと、それでも彼はその道を選ぶ。──その道しか、選べない。
「例えばあなたがどこにでもいる普通の人だったとして──スタンド能力もないごく当たり前の人間だったとして──そしたらあなたはきっとぼくではない誰かを好きになるんでしょうね」
「ジョルノ、」
「その時ぼくはどうなっているんだろう?スタンドもない、ありふれた家庭に生まれたぼくは。悪魔の血を受け継がなかったぼくを君は愛してくれるんでしょうか」
「……わからないわ」
ジョルノの声は凪いでいた。淡々としていて、そこに色はなかった。響きは自問自答に似ていて、空虚だった。
ジョルノは「その方がずっとよかったんでしょうね」と他人事のように呟いた。シャツ越しに伝わる体温は冷たく、名前には膚を刺す茨にすら思えた。それは彼自身を蝕む呪いのようだった。
名前は隣にある手を握り締めた。一瞬だけ震えた膚。小さく跳ねたそれに重ね合わせ、「でも、」と囁いた。
「私はあなたがいいわ。スタンド使いで、ギャングのボスで、悪魔の血の流れるあなたが、」
好きだと告げると、その手が身動いだ。表情は見えなかった。名前もあえて覗こうとは思わなかった。必要なことは今手の中にあるものだけで、それ以上はなくたって平気だった。
ジョルノは答えなかった。彼は沈黙を守った。微かに握り返された手だけが返答で、唇を震わす吐息は雨の気配がした。その中を名前たちは身を寄せ合って過ごした。温もりだけがすべてだった。世界から切り取られたみたいで、それでも名前はこれこそが幸福だと信じた。
その夜は夢を見た。考えつく限りの不幸を煮詰めた夢だった。友との別離。血と硝煙の臭い。積み上がる亡骸。愛したものの殆どが溢れ落ちた。夢の中では何もかもが喪われた。両親も友人も死に絶え、愛する我が子すらも血の海に沈んだ。考えつく限りの不幸がそこにはあった。
けれど目を覚ました時名前の胸にあったのは安堵だった。いや、正しく言うならそれは夢の中でもとうに得ていた感情であった。
考えつく限りの不幸があった。けれどその中であっても名前は安堵していた。
それは隣に彼がいたからだ。どうしようもない不幸のただ中であっても彼と共に在れた。彼がその不幸を齎したのだとしても──それでも名前は彼の手を離そうとはしなかった。その決断に、何より名前はほっとした。
「ご機嫌ですね、いい夢でも見たんですか?」
「ううん、とっても不幸な夢よ」
笑って答えると、ジョルノは訝しげな目をした。不幸な夢を見たというわりには随分と浮かれているな。大方そんなことを考えているのだろう。
そんな彼に名前は笑みを深めた。
「不幸だけど、幸福な夢よ」
囁いて、名前は彼の耳に口を寄せた。
「あのね、」
打ち明け話を聞いた時、彼はどんな顔をするだろう?
──どんな不幸だってあなたとなら分かち合いたい。そう、言ったなら。
どんな反応を示すのだろう。
いずれにせよ、名前の胸にあるのは温かな感情だった。名状しがたい満足感だった。
それは驚いたように彼が目を見開いた時も、それから後、くしゃりと相好を崩した彼に抱き締められた時も──
「……本当はずっと、そう言われたかったのかもしれない」
「ありがとう」と声を震わす彼の背中を撫でた時も、変わることはなかった。
たぶんきっと、この世にある限り──どんな不幸に見舞われようとも。
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お誕生日おめでとうございました。
健やかなるときも病めるときも、っていう話。別名マリッジブルー。
アバッキオルートのと同じく、結婚直前の話でした。