トリッシュ√
原作終了後設定。
トリッシュ→ブチャラティ要素があります。
『彼ら』の葬儀は秘めやかに執り行われた。それを意外に思ったけれど、ギャングの一般的な葬式なんてものをあたしは知らないから、口に出すことはしなかった。
それに『彼』らしいなとも思った。『彼』のこともよく知っているわけではないが、それでも。それでも棺の中で静かに横たわるその姿はとても彼らしくて、そう思ってしまうからこそあたしは悲しかった。
「トリッシュ、」
名前はそんなあたしを抱き締めた。葬儀の日も、季節を跨いだ今も。
『彼』の所有していたという屋敷。小さなそれはしかし譲り受けたばかりのあたしにはいやに広く感じられた。寒々しくて、空虚。いつの間に冬が来たのだろう?あたしは春や夏が好きだった。秋も冬も、つまらないばかりだった。
名前はあたしの身の回りの世話を甲斐甲斐しく行った。目まぐるしく変わる世界。父親──今ではもうそう呼ぶことすらもないが──に無理矢理引きずり込まれた夜の闇。忌まわしいその名は名実ともに土の下。それとも地球の反対側かしら?ともかくあたしの視界からは消え去った。
なのにその気配だけがなくならない。こびりついたシミのよう。折に触れ、思い出す。
──きっと、彼女も。
「今日は少し肌寒いわね」
名前はあたしの顔を覗き込んだ。澄んだ菫色。アスタルテの瞳に映るあたしは一体どんな顔をしているのだろう。
たぶん芳しいものではない。彼女は心配性ではあったけれど、それが全くの見当違いということはなかったから。
「六月になってもこんなだと困っちゃう」
ね、と名前は同意を求めてくる。
でもあたしは「そうね」としか返せない。あたしに、それ以上の言葉は。
「今晩は温かいご飯にしましょうか」
その言葉通り、夕食にはスピーゴラ・アックア・パッツァが出された。
スズキの煮込み料理。軽くソテーした真っ白な身。脇にはナポリ産のトマトが添えられている。
それを口に運ぶと、温かさが鼻にしみた。でも名前が窺い見ているのはわかっていたから、「唐辛子がしみただけ」と言い訳をした。
「そう、……そうよね」
名前は追及しなかった。それが今のあたしには有り難かった。彼女は本当に良き同居人だった。
「ねぇ、あなたの話を聞かせてよ」
だからあたしはそんなことをねだるようになった。それは眠る前の幼子が母親に読み聞かせをせがむのと同じ響きだった。
「いいわよ、どんな話がいいかしら」
名前は嫌な顔ひとつしなかった。
食後、ソファに並んで座る彼女を見た。彼女の目線はあたしとほとんど変わらなくて、なのにその目の深い色合いだけがあたしとは全く異なっていた。
「あなたが昔した旅の話、そうね……例えば詩的で非現実的なのがいいわ」
「えぇ、難しいことを言うわね」
「そうねぇ……」彼女はカフェ・コッレットを一口飲んだ。
馳せられた目が見る景色はどんなものだろう。いつの時代の、どこの国のことだろう。
この日、彼女は砂漠で見た星空の話をした。満天の星々と、それを見上げる横顔の話を。その横顔に、タンタロスの如く恋い焦がれた日のことを。
「まるで星が降ってくるみたい、なんてのはありふれた表現だけど」
そう前置いて、彼女は微笑んだ。
「あの時は本当に降り注いでいたの。日差しが落ちるのとおんなじように。あの人の顔に、瞳に、星々が差し込んで、これ以上にない輝きを宿していたの」
その人からはパンジーの清らかな香りがしたと名前は語った。
「パンジーと、それからローズマリー、ルーの香り」
その時自分の心がいかに輝いていたかと名前は笑う。満天の星々よりもずっと明るいもの。共鳴する心。──愛の光。そうしたものを名前は思い出していた。
それは夢見る眼差しだった。決して喪われた恋を語るものではなかった。彼女の胸にあるのは永続的な輝きだった。ずっと昔から歌われている詩のように、色褪せることはないのだろうとあたしは思った。
──いつかはあたしも彼女と同じようになるのかしら?
昔を懐かしみ、美しい光を思い出す。そこに激情はなく、悔恨もなく。そう思える日がいつの日か来るのだろうか。
「……あなたは強いわね」
その思考が口をついて零れる。羨ましい。そんな感情が滲む声。
唐突ともいえる台詞に、最初名前は驚いた様子だった。
けれどすぐに苦笑し、「そんなことないわ」と否定した。
「私はあなたが思うよりずっと弱いのよ」
だから無意識下で自分の時間を止めてしまった。かの美しき日々を永遠のものにするために。もう二度と、喪われることのないように。
「でも今は違うじゃない」
「そうね、でもそれは私一人の力ではないから」
名前はゆるりと首を振り、「ねぇトリッシュ、」と囁いた。
ひたりと向けられる紫水晶。静かな瞳があたしを射抜く。静かで、なのに熱い炎の揺らめく瞳が、あたしを見る。
──そして。
「私、あなたのことが好きよ」
そう続けて、彼女は目許を緩めた。
「そしてそれはきっと──彼らも同じこと」
ただそれだけのことだったのだと名前は微笑んで、あたしの体を抱き締めた。その指先は震えていて、その体はあたしのと殆ど変わらないくらいに頼りない。
でもあたしとは違って、その膚は燃えるように温かかった。
その背を抱き返して──そして唐突に理解した。
彼女が時を止めた理由。それはその心を守るためだけではなかった。きっと──かつての後悔を忘れないようにするためでもあったのだ。
彼女はあたしで、あたしは彼女だった。あたしたちはとても似たものでつくられていたのだ。
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この後モデルになったトリッシュと彼女のためにマネージャーに転職する夢主。そしてメモに書いたネタに繋がります。