なぜ学校では裁縫などという授業を設けているのだろうか。甚だ疑問である。このご時世、趣味でもなければエプロンだのクッションだのというものは既製品で事足りるというのに。
……などとこぼしたところ、透に笑われた。
「つまり名前は不器用って話だろう」
ばっさり。
これには太刀打ちできない。名前はうっと言葉を詰まらせ肩を落とした。
でも彼の指摘は最もであった。名前が針に糸を通すので苦しむくらいの不器用である、ただそれだけの話で。だから授業外で作品を仕上げなくてはならなくなったのも、自分の技術のなさ以外苛立ちを向ける先はないのだ。
それでも愚痴を言いたい。なぜ、なんのためにこんなことを。生きる上でなら裁縫などより護身術でも学ばせた方がよほど役に立つだろうに……などと名前の尺度で文句を言ったところでカリキュラムが変わるわけでもなく。
仕方なしに課題を家に持ち帰ってきたというわけだ。
「それで、名前は何を作るの?」
透はゆったりとソファで寛いでいた。彼の手にあるのは食後のハーブティー。それを優雅な所作で飲みながら、いそいそと裁縫セットを取り出してきた名前に訊ねてきた。
「浴衣を作るんですって」
ほら、と手順が書かれた紙を見せる。透はそれをまじまじと見て、一言。「学生はたいへんだなぁ」そう、呑気に言ってくれた。名前だって本当なら学生はとっくに卒業してるはずなのに。それにそれに、透だって学生みたいな見た目をしてるくせに。
でも彼が名前よりずっと日々に追われているのは知っていたから何も言わなかった。ただ口を尖らせ、これからの作業に気を重くした。
「手伝おうか」見かねてか、透はそう言ってくれたけれど。
「いいの。これは私の仕事だから」
首を振ったのを後悔したのは作業を始めて3日と経たないうちだった。
「わけがわからない……」
予定ではもっと先の工程に進んでいるはずだ。なのに名前の前には布の塊が鎮座している。どうしてこう計画通りにいかないのだろう。あまりの先の見えなさに気が遠くなる。
授業でもらえる時間だけでは到底間に合いそうにない。というか、絶対に無理だ。これはもう提出日まで毎日やっていかなければなるまい。そうでなきゃ成績表が悲しいことになってしまう。いや、別段それで支障は出ないのだが。しかし"安室透"の妹としては釣り合いがとれていない。ただでさえ顔立ちは似ていないのだから、できるだけ他の部分で共通項を作っておきたかった。
そう思えば思うほど募る焦燥。このままで間に合うのかしらという不安。名前は追い立てられるように指を動かした。
「……あっ」
人差し指に感じた違和感。やってしまった、と名前は眉をしかめた。見なくともわかる。この痛みは自分の手によるものだと。急いてはことを仕損じる。そんな言葉は名前だって知っていたのに。
布地から手を離す。と、人差し指の第一関節あたりにぷくりと赤い山が膨らんだ。そしてそれは徐々に丸みを帯びていく。すぐに止まるだろうが、その間作業を中断せねばならないのは痛い。急ぐあまり指先の感覚を失っていたなんて、本末転倒もいいところだ。
「名前?」
しかも間の悪いことに透が名前の部屋にやって来てしまった。その手にはソーサーに乗ったカップがひとつ。名前のために淹れてきてくれたのだとカップの柄でわかった。
それは透の親切心。彼の優しさの表れ。それは嬉しい。名前には身に余る幸福だ。けれど、でも、今は不味かった。今以外ならいつだって歓迎だけど、本当に、今だけは。
「怪我してるじゃないか」
あぁ、やっぱり。優しい透はこんなちっぽけな傷にまで心を痛めたって顔をする。名前からすれば蚊に刺されたようなものなのに。
「平気よ、平気」
ぱっと手を振った。ことさら、大仰に。空気がぴりぴりと傷口を撫でるがそんなことには構ってられない。
「大したことないから、気にしないで」
笑っても、透の顔は晴れない。ソーサーをテーブルに置いて「いいから、傷を見せて」と名前に求めてくる。「はやく」険しい声に名前の心は今にも屈服してしまいそうだ。
透の手を煩わせるのは本意じゃない。心配されるなんてもっての他。でも彼の命令から背き続けるのは不可能だ。
追い詰められた名前。ぐるぐると回転する思考。右往左往する目。どうすれば、どうすれば。そればかりが頭を占めて。
「…………っ」
とにかく血を隠さないと。その思いに急き立てられ、咄嗟にとったのは指を口に含むことだった。思ったより深かったのか、根元まで血が伝い落ちてきていたのだ。だからといってこんな逃げ方はどうなのだろう。
舌に広がる鉄錆の味。「……うぅ、」思わず、渋面になる。
すると透の顔が呆れに変わった。
「何してるんだい」
「……舐めれば治るかなって、」
言い訳がましいセリフ。「でも不味いだけだった」肩を落とすと意外そうな声が上がった。
「そうなんだ」透が少しだけ首を傾げる。「名前たちはそういうのが好物だって資料で見たけど」さらっと言っているから大したことないように聞こえるが、しかしこの内容は組織の中でも極秘事項だったはず。
なんで知ってるの。そんな驚きが顔に出たのか、にこりと笑いで返された。それはまるで内緒だとでも言いたげで。名前は納得してしまった。どんな手を使ったか知らないが、彼なら不可能じゃないだろうと。
「確かにそういう傾向は強いけど、私たちにも好みはあるから」
別にどんな血肉だって貪り食うわけじゃない。それじゃ自制のきかない獣と同義だ。
そんな自尊心から名前は口にしたのだけれど、透は意に介さない。というか、別のことに意識がいっている。
「どうしたの」
なにごとか考えるように伏せられた目。絵画のように切り取られた一瞬。それに触れるとき、名前はいつもどきどきする。悪いことをしているような、そんな気になってしまうのだ。
「あぁ……ちょっと」
柔和に笑んだ目に、名前は油断した。だから次の行動にもすぐに反応できなかった。屈んだ透が名前の手から針を取り上げたのに。ーーその針が、透の指に刺さるのに。
「〜〜〜〜ッ!!」
名前は声にならない声をあげた。驚愕。叫びは表情筋に伝わり、酷い形相となって表れた。
なのに透はなんでもない風で。「痛いな」なんて顔をしかめながらも平気な様子で針を置いた。浮き出る血にも頓着しない。
「ぁ……」
放ったらかしの赤から徐々に香りが漂ってくる。名前たちじゃなきゃ気づかない程度の、ほんのささやかな香り。名前のそれと同じ鉄錆のーーけれどそれだけじゃない匂い。
ーーいったい、これはなんの香りだろう。疑問に頭が向いていると。
「はい、」
名前の眼前に、それは差し出された。小さく裂かれた皮膚。そこから湧き出る血。それは名前を誘うようにてらてらと艶めいていた。
ごくり。喉を鳴らしたのを認めて、彼の笑みが深まる。「ーー飲んで」それは命令であり許しでもあった。
気づけば名前は彼の指に貪りついていた。数分前に馬鹿にしていた獣と同じように。いや、それ以上に飢えた動作で。一心不乱に血を吸った。
舌を這わせ、柔く噛み、わずかな取りこぼしすら許さず。最後の一滴まで飲み干した。
そこで、ようやく我に返った。
「ご、ごめんなさい……」
穴があったら入りたい。いや、今すぐ穴を掘ってしまいたい。
羞恥に。自責に。名前は俯いた。頬に込み上げる熱が煩わしい。
そこに。「……っ」つ、と手が添えられる。指が這う。
「……おいしかった?」
その笑みは艶やかで妖しく。凄惨なまでに美しかった。
名前は言葉を失った。これまで透のいろんな顔を見てきた。笑った顔も泣いた顔も。いろんな顔を見てきたと、そう思ってきた。
ーーでも、こんな顔は知らない。
名前は唾を飲んだ。どくどくと脈打つ心臓。今にも喉が詰まってしまいそうで。息の仕方すらわからなくなって。
こくこくと頷くことしか名前にはできなかった。
「……よかった」
すると今度はひどく柔い笑みを浮かべた。悪魔のように蠱惑的かと思えば聖母のように清廉で。ーー目が、奪われる。
「どうして、こんな真似を」ようやっと口から出たのは密やかな声だった。そうっと訊ねると、透は膝をついた。「どうしてって、」そうして名前と視線を合わせるだけでは飽きたらず、彼は名前の額に自分のそれを重ねた。
「こんなものでも名前を縛れるならって、そう思ったんだ」
名前は青い瞳の中に煙る赤を見た。チリチリと、炎のように揺らめく赤。熱情のような、それ。見間違いかしら、と名前は頭の隅で思う。だって、あまりに都合がよすぎる。まるで私を求めてくれているみたいだ、なんて。都合のいい夢か、そうでないなら名前の思い込みだろう。
けれどそれを見透かしたみたいに透はふっと息を吐いた。「はっきり言わないと通じないかな」呆れ顔をされたというのに、名前の心はさざめくばかり。次の言葉を待ち望んでいるような、言わないでほしいような。悪いことが起きたわけでもないのにこんな心地に陥るのは初めてだ。透は、名前に初めてばかりをくれる。
「ーー俺に、名前をちょうだい」
代わりに、名前には"俺"をあげるから。
こんなことを言われたのもはじめてで。はじめてのことばかりで、名前はどうしたらいいかわからない。
ただひとつ言えるのは。
「……私に、"あなた"を突き放すなんてできないのに」
卑怯だ。こんな真似しなくたって、透が望むなら名前はいつだって身を投げ出すのに。名前のために透が傷つく必要なんてどこにもないのに。
彼の傷を見ると胸が痛む。なのに同じだけ歓喜が沸き上がるのを抑えられなくて、名前は透に抱きついた。「うわっ」そう声をあげるくせ、ちっとも揺るがず受け止めてくれるんだから、本当に本当に透はズルい。ズルいくらい、格好いい。
「これはオッケーって意味?」
「……しらない」
ついそんなことを口走ってしまったのも、透が悪い。透が、格好よすぎるのが悪い。
ぎゅうぎゅうと抱き締めると、透は声を立てて笑った。「痛いよ、名前」言いながら、彼も名前の腰に手を回す。ぎゅうぎゅう、ぎゅうぎゅう。苦しいのに、ずっとこうしていたいと名前は思った。
「今名前の中に僕の血が流れてるってなんかヘンな気分だ」
「……そういうの、変態みたい」
「ひどいなぁ」
そう言うんなら、今度は名前の血を飲ませてよ。いいことを思いついたと言わんばかりの透の笑顔。何をバカな、と名前は言ったのだけれど。
少しだけ、「いいかもしれない」なんて想像してしまったのは……名前が毒されてきたのか、はたまた似た者同士だからなのか。
「透がどうしてもって言うなら、あげてもいいわ」
どちらにせよ、嫌な気分はしなかった。