モルディブ海のサメ


 喉元を切り裂く傷。ジョルノの怪我は通常なら致命傷となるところで、名前は半泣きになりながらその負傷を治していた。

「もう……本当に無茶ばっかりして……」

 小言を垂れるのはほっとしたからこそ。それがわかっているから、ジョルノは「すみません」と言いつつ柔らかな表情をしていた。

「でもナランチャなら絶対に気づいてくれるって信じてましたから」

「ジョルノ……ッ!!」

 微笑みに、感極まったのはナランチャ当人だった。治療されるジョルノを不安げに見守っていた彼は、ジョルノの朱に染まった胸元がすっかり元の色を取り戻すのを見届けて、わっとその体に飛びついた。

「オ、オレもジョルノなら気づいてくれるって思ってたぜ……!」

「ナランチャ……」

 やっぱすげーよ、お前。ジョルノがいなきゃマジにヤバかったかも──そんなことを興奮ぎみに語るナランチャ。その背の頭上で中途半端に両手をさ迷わせながら、ジョルノは名前に視線をやった。
 それは彼にしては珍しい顔だった。どこか困った風な、そんな無防備な顔。これは抱き締め返すべきか、それとも?そんな具合で、取り繕うことのないナランチャの態度にジョルノは困惑していた。

 ──ただ一言、ありがとうと言えばいいだけなのに。

 名前はそう思ったが口にすることはしなかった。このくらいの年頃の男の子がそういった言葉を詳らかにするわけがないことを承知していたからだ。名前だってもし幼馴染みが素直に礼など述べたら頭でも打ったのかと心配になったろう。
 だから名前は「もうそのくらいで」とナランチャの背を叩いた。

「ほら、あなたの怪我も治さなくっちゃ」

「えぇ〜?へーきだよ、あんまし痛くもないし」

「それはまだ気が立ってるからよ。我に返ったらきっとすっごく痛くなるわ」

「嫌なこと言うなよォ〜……、うげぇ……なんかホントに痛くなってきたかも」

 顔を顰めたナランチャに、「言わんこっちゃない」とジョルノも笑った。とても慈悲深い笑顔だった。
 ナランチャといるとジョルノはよくそういう顔をする。その表情が名前は結構好きだなと思った。固い顔つきの多い彼がふと空気を緩める瞬間、その和らいだ雰囲気はとても好ましいものだった。

「頼むよ名前〜〜〜、早く治してくれ〜〜〜」

 哀れっぽく声を上げ取り縋ってきたナランチャに、名前は「だからそう言ってるじゃないの」と笑う。
 真っ直ぐな物言い。自身のそれよりも深い色をしたナランチャの瞳が、名前は特別好きだった。

「ほら、──ね?これでもう大丈夫でしょう?」

「うん、ありがとう!」

 ──いや、誰だって好きになるだろう。
 ヴェネツィアの運河のように澄んだ眼差し。音が鳴り響きそうなほどに弾ける笑顔。そうしたものを見るたびに名前の中には言葉にならない感情が沸き上がる。恐らくはときめきだとかそういった感情が。

「おい、そろそろ出発するってよ」

 何やってんだ、と声をかけられて我に返る。周囲の警戒をしていたミスタだったが、異常なしと判断したらしい。「ここを出るなら今だろうって、ブチャラティが」名前が見やれば、残りのメンバーはみんなもうボートに乗り込んでいる。

 ──しまった、のんびりしすぎた。

 慌てて駆け寄ると、何故だか含み笑いを向けられる。

「なに?」

「いや、相変わらず仲がいいことで」

 その言葉、色、表情。すべてに共通するのは揶揄いの色。名前は無表情をつくって、ミスタの腕を抓った。わざとらしく上げられた非難や抗議を無視して。

「なんだよ、ひでーなァ……ナランチャにするのとは大違いだ」

「そりゃアレだよ、日頃の行いってヤツ?」

 不平不満に答えたのはナランチャだ。彼はどこか得意気にミスタを見下ろして、それから名前の隣に座った。にやり。片方だけ持ち上げられた口角は挑発的にミスタを見ている。

「酷いのはミスタだろ、ジョルノは気づいてくれたのになぁ……」

「そうよ、なのにあなたったら……」

 ナランチャと名前、二人が持ち出したのは先刻の出来事。敵のスタンド使いによって思っているのと反対のことしか言えなくなったナランチャと、その状態を察してしまったばかりに『噛みつかれて』しまった名前は殊更嫌みっぽくミスタに言ってやった。
 無論心からの台詞ではない。スタンド攻撃故に被る不利益は仕方のないことで、ミスタが異常に気づけなかったのもまた同様のこと。
 しかし図星を突かれたミスタは途端に顔色を悪くした。

「だってよぉ、あんなのは反則だろ」

「けどあの時のナランチャは確かにおかしかったわ。あんな、……変なことを言ったりしたりして」

 なおも言葉を続けようとして、『あんな』のところで名前は口ごもる。というのも、『あんな』に該当する箇所は言葉にするのを躊躇われるものだったからだ。『そういう』話とはとんと無縁であったし、口にするとなると躊躇いは一層であった。
 なのにミスタは「変な……、ってアレか」と手を叩く。「オレのスタンドがスタンドとかいう、」最後まで聞かず、名前はミスタの手の甲を抓った。

「もうっ!わざわざ蒸し返さないでったら!」

「いてっ、いてぇって!だいたい蒸し返したのはお前だろ!?」

「言葉にしなくたっていいでしょう!?」

 吠える名前の頬は羞恥に染まっている。しかしそれを指摘する者はいなかった。指摘されていたら余計に激昂してたろうから、それは幸いであったのだろう。そもそもそんなことを言うのはミスタくらいなもので、その彼は今名前によって口を封じられているのだが。

「それにあなたったら私がいなくなっても全然気づかないし……」

「あぁ、そういえば」

 二人組のスタンド使い。その片割れはナランチャの舌にスタンドを張りつかせ、心にもないことばかりを彼に吐かせ続けた。そしてその様子に違和感を抱いた名前やジョルノをもう一人のスタンド使いが噛みつき、その身を水の中へと引き込んでいたのだ。
 だというのにミスタときたらちっとも気づいちゃくれなかった。名前が消え、それからジョルノが連れ去られる現場を目撃してようやく名前の行方を察したのだ。
 そのことをナランチャと二人で詰ると。

「いやだって、便所にでも行ってんだとばかり……」

 女はそういうの遠慮するから、などと。悪びれた様子もなく正直に語るものだから、名前はその内容に顔を引き攣らせた。

 ──いくらなんでもその発想はないでしょう!

 内心の叫びと呼応するように、ナランチャが「だからモテないんだよ」と毒づいた。そこには珍しく正統な呆れが滲んでいた。