Wild Nights


 ヴェネツィアでの移動は徒歩が基本で、運河を進むのなら観光客は名物であるゴンドラを選ぶことが多い。それか乗り合いバスであるヴァポレットか。
 ともかく名前たちのようにモトスカーフィ──モーターボートを利用する者は少なかった。

「どうしてかしら」

 その疑問に答えたのはミスタだった。

「こういうのはタクシーと同じなんだよ。デカイ買い物をしたとかそういうんじゃなかったらあんまり使うこともないんだと」

 そう語る彼は訳知り顔。もしかして来たことがあるのかしらと名前は思うのも無理ない。それか本当はヴェネツィアが出身だとか?
 けれどその疑問を彼は笑い飛ばした。「まさか」雑誌で読んだだけだ、と彼は亀を指差す。
 そういえば、あの不思議な部屋には暇を潰すための雑誌が何冊か置かれていた。ヴェネツィアの観光雑誌もその中のひとつ。
 けれど名前も目を通したはずなのにミスタの台詞には覚えがない。案外記憶力がいいのか。それとも特別な関心があったのか。

「だってよ、こういうのは知っておいて損はないだろ?女はだいたいヴェネツィアが好きなもんだし」

 それまでは尊敬の混じる目で名前は彼を見ていた。が、しかしこの発言を聞いて、途端にその感情は霧散する。
 なんて軽薄な言葉だろう。たった一人の──例えばヴェネツィアに興味のある美しい女性だとか──ために覚えたと言えば美談になったものを、自分からぶち壊すなんて。

「あーあ、勿体ない」

「何がだよ」

「あなたの何もかもが、よ」

 彼は怪訝な目を向けてくるが、名前に答えをやる意思はない。そういうのは自分から気づくものだ。本当にたった一人の恋人がほしい、身を固めたいと思うのなら、自ずとわかるはずだ。
 それさえ理解すればきっと恋人とも長続きするだろうに、と名前は溜め息を吐いた。仲間としては最高なのだから、……本当に、勿体ない。

「でもサルディニアにはどうやって行くの?」

「そりゃお前、飛行機に決まってるだろ」

 答えたのはまたもミスタであったけれど、名前はブチャラティを見た。
 特段深い理由はない。ただなんとなく、彼の口から聞きたかった。
 その視線を受けて、ブチャラティは静かに首肯した。「そうだ」その目に迷いの色はなかった。
 人の目がある飛行場は確かに危険だろう。けれどそうするだけの価値がある。それにお前たちを──名前たちひとり残らずのことを──信頼している。やり遂げると確信している。そんな眼差しだった。
 だから名前も頷いた。彼が信頼してくれているのと同じだけ、名前も彼のことを信じていた。不安はなかった。名前にとって大切なものはここに全部置かれていた。

 ──それにしたってどうやって操縦するのかしら?

 その疑問を察したらしいブチャラティがちらりとアバッキオに視線をやったので、それでようやく名前も諒解した。
 ──なるほど。しかし本当に彼のスタンドはなんというか……器用なものだ。使い勝手がいいとも言う。それとも何もかも彼自身の柔軟な発想故か。
 ともかく名前は純粋に「すごいなぁ」と思った。
 ボートは音を立てて運河を滑っていく。こちらを不躾に見る視線も不審な行動をとる人影もない。ブチャラティの推測は正しく、まだボスの手は回っていないようだ。これなら本当に全員無事サルディニアまで辿り着けるかもしれない。
 それもこれもナランチャがたった一人で二人のスタンド使いを相手取って戦ってくれたお陰だ。

「どうかした?やっぱまだ痛いとこあるんじゃない?」

「ううん、平気よ。大丈夫」

 本当に、良き仲間に恵まれたものだ──
 幸運に感謝して、名前はナランチャに笑み返した。それに真っ直ぐ応えてくれるから、彼らのためならなんだってできるとすら名前は思った。




 ヴェネツィア本島に置かれたマルコ・ポーロ国際空港。その中のどれがサルディニアに向かう飛行機なのか、名前には見当もつかない。どれも同じに見えてしまうのだが、そう言うと『とんでもない』といった目をナランチャに向けられてしまった。

「ウソだろ名前、全然違うじゃん!」

「ううーん……」

 アレはどこそこへ向かうのでソレは海外のヤツで……などと説明を受けてもピンとこない。どのデザインがカッコいいかなんてのはさらに理解の及ばない世界だった。

「私、車とかもさっぱり見分けがつかないのよね……」

 機械の類いはとんとダメ。思えば昔からそうだった、と眉間に皺を寄せると、今度はミスタに『あり得ない』という顔をされた。

「お前それ、絶対人生ソンしてるぜ」

「えぇ……、そこまで?」

「でもわかるようになったらもっと楽しいと思うな」

 ミスタに、次いでナランチャにまで言われ、名前も『彼らの言う通りかもしれない』と思えてくる。確かに、知識は人生を豊かにしてくれるだろう。
 それにナランチャに「そうなったらオレも嬉しい」と期待の籠った目を向けられると──応えたくなってしまう。

「そうね、」

 頑張ってみようかしら。そう言いかけたところで、「いいですよ、そんな、」と言葉が被せられる。──フーゴの声だ。
 彼は名前の肩を叩くと、「無理して興味のないことまで覚える必要はないですよ」とにっこり笑った。それは余りに柔らかで、それ故にどことなく有無を言わせぬ雰囲気があった。

「なんだよ、フーゴ。せっかく名前がやる気になってくれたのに」

「あのね、ナランチャ……自分の趣味を押しつけるのはよくないですよ」

 フーゴはやれやれと眉を潜めた。
 何もそこまで言わずとも。そう口を開きかけたところを、今度は視線で制される。──あなたは黙ってて。そう言われているようで、名前はフーゴが語るのを見ていることしかできなかった。

「だいたいアンタらだって興味ないことはさっぱりじゃないか。どうせローマ式とギリシア式の違いもわからないくせに」

 「名前は知ってるでしょう?」──水を向けられ、慌てて頷く。
 ……美術の話よね、きっと。あぁ、でも違っていたらどうしよう。失望されるのはとても悲しいことだ。
 そんなことをぐるぐると考えながら、名前はフーゴに向かって口を開く。

「ギリシア式の建築物は直線が基本だけど、ローマのは反対……その代表といえばアーチ、よね?」

 突然教師に『この問題を答えよ』と命じられた気分だった。あの時の緊張感が甦って、名前は唇を湿らせた。
 じいっとフーゴを見ていると、彼は名前の答えに満足げに頷いた。

「ほら、名前はちゃんとわかってる」

「オレらだって知ってましたァ〜〜、……な、ナランチャ?」

「え、うん?」

「……いや絶対わかってないだろ」

 ナランチャの肩に手を回して嘯くミスタに、フーゴは呆れた風に溜め息を吐く。

「ほら、さっさと仕事しろ。ブチャラティに怒られたいのか」

 追い立てるように両手を打ち鳴らされ、慌てて二人は駆け出していく。
 ブチャラティは何やらジョルノやアバッキオと話し込んでいたからこちらのことにまで気を配っていない。だから彼に叱り飛ばされることもないだろうけど、フーゴの声は低く、『そうなる』という予感を二人に与えた。
 そして残されたのは名前と、彼。二人きりで歩きながら、名前はそろそろと口を開く。

「あの、」

「別に、変わる必要なんてないですよ」

 またも、だ。またも遮られ、名前は目を瞬かせる。
 フーゴの目は名前よりも少し高いところにあった。名前より年下の、名前よりもずっと深い色をした瞳。それが名前を見ることはない。彼はどこか遠くに目を馳せたまま、名前への言葉を紡いでいく。

「……アンタは、そのままで」

 彼は名前の事情を知らない。名前の時間が止まっていたことも、今再び歩みを始めていることも。変わろうと決意していることも知らないはずだ。
 なのにその言葉は。その、案じるような声色は──どうしてだろう?
 名前はひゅうと息を吸った。「それは、」どういう意味だろう?彼は、何を知っているのだろう?
 一瞬驚き、けれどすぐに、『いや、』と思い直す。彼の台詞はミスタたちのそれにかかるもので、優しい彼はきっと名前が困っていると思って助け船を出してくれたのだ。
 それは正確なものではない。ないけれど、でも、しかし──

「……ありがと」

 優しさはいつだって嬉しいもの、尊いもの。だから名前は顔を綻ばせて囁いた。

「…………」

 返事はなかった。けれど小さく顎を引く気配はあった。
 それがまた彼らしくて──名前は笑みを深めた。