優しきナイアス
飛行機の操縦室。そこで起動させられたムーディ・ブルースは徐々に変形し、やがて操縦士の姿を写し出す。
「で、でもリプレイならよ……、その機長……、ぜ、前回サルディニアに向かったとは限らねーじゃねーかよ!!」
名前と同じように、後々になってから操縦士の問題に気づいたナランチャ。彼は焦りを帯びた顔でアバッキオに食い下がった。
そんな彼のすぐ後ろ、事の成り行きを見守るしかない名前も『そういえば』と思い至る。確かにナランチャの言う通りだ。操縦士の問題はムーディ・ブルースの『再生』が解決するとしても、目的地まで無事に辿り着けるかはわからない。一体いくつの航路が存在するのかも名前には見当がつかなかった。
しかしそんな二人をよそにアバッキオの表情は冷静そのもの。
「たしか『INS』とかいう目的地をインプットすれば自動的にコンピュータで連れてってくれる装置がついてんだよ」
「映画で見たことがある」そう言ったアバッキオの声音に不安はない。躊躇いも、また。なんとかなるのだと確信を抱きながら、彼は「オレが『INS』を探してインプットし直せば問題はねーだろ」と続けた。
「映画の情報かよ……」
対してナランチャの声に滲むのは呆れと僅かな憂慮。本当に大丈夫なんだろうか。そう思っているのは明らかで、けれど名前にはかける言葉が見当たらなかった。アバッキオの知識が間違っていないこと、彼が上手いこと機械を操ってくれることを祈るしかない。
「あーあ、オレらの体が小さくできたらなァ……」
「小さく?」
コクピットから座席の方へと戻りながら、ナランチャはぼやく。その目の先にあるのはこのところ発動させられっぱなしのエアロスミス。策敵を行いながら、彼は「そしたらみんなをエアロに乗せられたのに」と悔しげに唇を噛んだ。
「前にさ、言ったろ?戦ったヤツの中にそういうスタンド使いがいたって」
「あぁ……」
「アイツが仲間だったらラクだったのになぁ……」
「……そうね、」
名前はそれとわからぬように苦い笑みを洩らした。
『彼ら』と仲間に。それは叶わぬ夢であることは百も承知。けれど同じ者に反旗を翻した今──余計にそれを願ってしまう。
──もしも、『彼ら』と手を組めたなら。
名前の脳裏に浮かぶのは褪せることのない面影。リストランテで見た無邪気な青年と恐ろしいほどに美しい男。それから夕刻、河岸に打ち捨てられた体と朱に染まった安らかな顔。
そうしたものを思い出し、名前は苦々しい思いに蓋をした。
彼らの求めたものを名前は知らない。彼らが何のために組織を裏切ったか。何を思っていたのか。最早知る術はない。
だから、立ち止まってはならないと名前は思う。それが彼らへの弔いになるわけもないが、しかし奪った命の分は生きなくては。生きて、意味あることを遺さねば。
そうでなくてはこの痛みを受け入れられそうにない。そう、名前は唇を引き結んだ。
離陸からおよそ五分後、軽い衝撃があって、飛行機の脚が仕舞われたのを知る。これで離陸は完了。出発直前にちょっとした『アクシデント』はあったが、それももう些末なこと。機内の安全は確認したし、地上をこんなにも離れた今、追ってくる影もない。
名前はほっと胸を撫で下ろし──けれど続いて始まった揺れに顔を強張らせた。
窓の向こうには幕のように空に垂れる雲がある。とはいえ視界は良好。特別天気が急変するという話も聞いていない。
ならばエアポケットだろうか──?そんなことを考えながら、名前はシートにしがみついていた。咄嗟にバランスを崩した体はまだ平静を取り戻せていない。がくりと折れた膝。そのままに、名前は揺れが収まるのを待った。
……こんなことならさっさと座席に着いていればよかった。例えアナウンスがなくたってシートベルトをしておくんだった。そんな後悔に苛まれながら、名前はぎゅっと目を閉じた。
そんな揺れもパイロットが何らかの操作を行うとすぐに落ち着いた。それは思った通りであったけれど、体は思考に追いつかない。
未だ緊張に強張る心臓。耳奥でばくばくと鳴り響く音に、名前は胸を押さえた。
──あぁ、落ち着かない。
いつまで経ってもこの感覚には慣れそうになかった。というのも過去、スタンド使いの攻撃によって墜落していく飛行機に乗り合わせたことがあるからだ。以来名前はどうにも飛行機というものに苦手意識を持っていた。
「名前?」
エアロスミスを仕舞ったナランチャは視線を窓から反対側へ──つまりは名前の方へと向けて、ことりと置く。「どうかした?」怪訝と幾ばくかの不安。このところはいやに覚えのある眼差しに、名前は苦笑する。しっかりしなくては。そう思うのとは裏腹に、刷いた笑顔はぎこちない。
「ごめんなさい、ちょっと……」
気分が悪いだけだ。そう言うより早く、ナランチャの手が名前へと伸びる。
「大丈夫、オレがちゃんと掴んでてやるから」
添えられた笑みは無垢。誠実さの象徴。ヒヤシンスの瞳や顔立ちはニケーアの船を思い起こさせる。ギリシャの輝きとローマの壮麗さを。清き聖なる国からきた魂を。
「Naiad……」
「え?」
目を瞬かせたナランチャに、名前は笑みを返す。そこにはもう強張りはなく、ごく自然なところから沸き出ていた。
名前は重ねられた手に応えた。自分のより一回りほど大きな手に。顔のない不安がもうどこにもいないことを確認して、それからほうっと息を吐いた。在るのは安らぎで、穏やかな愛情だった。
「ナランチャが手を繋いでてくれるならなんにも怖くないわね」
「だろ?」
「うん、」
名前は溜め息のような声を洩らした。それは真実からだった。真実、心からの安寧があった。そしてそれを齎してくれるのはいつだって彼だった。
「あなたなら例え墜落したって手を離さないでいてくれそう」
殊更明るく、冗談めかして言う。と、ナランチャも察してくれたのか大袈裟に顔を顰めて「やめてくれよ」と名前を小突いた。
「そういうの、マジになったらどーすんだよ」
「まさか、大丈夫よ」
二度あることは三度あるという言葉を呑み込んで、名前は笑う。
そんなことが三度もあってたまるものですか。だいたいここにはジョセフおじさまどころかジョースター家の人間だっていないんだもの。それでも墜ちるっていうんなら私は余程飛行機と縁がなかったんだわ──そう言い聞かせながらも、名前の手はナランチャのそれを掴んだまま。なんとなく離しがたくて、名前はしばらくはこうしていようと思った。しばらく、彼がその手を離すまでは。
「……トリッシュも怖いのかな」
「どうして?」
「だってなんか考えてるみたいだ」
表情が固い、とナランチャは彼女に聞こえぬよう密やかな声で耳打ちした。
言われ、名前も視線を移す。座席後方、左翼側に座り、ブチャラティと何事か話している彼女を。見つめ、なるほどと内心手を叩く。本当に、ナランチャはよく見ている。視野が広いというのか、彼は人の感情の機微に聡い。
「怖いんならブチャラティに手を握ってもらえばいいのに」
「こうやって」とナランチャは二人を繋ぐ橋を持ち上げる。
けれど名前は首を振った。
「たぶんきっと、そういうんじゃないわ」
それに、と目線を右翼側へと流し──肩を竦める。
「……ブチャラティは、そういうの気づかないと思う」
聡明な人であることに間違いはない。ないけれど、……彼にその類いの気遣いは思いつかないだろう。そしてそれはトリッシュにも言える。例え不安に駆られていたからといって、彼女が自らそんなお願いをするとは到底思えなかった。
そしてそう考えたのは何も名前だけではない。
「まぁ、確かに」
名前よりもずっとブチャラティのことをよく知っているナランチャは、自分が言い出したことなのに「それもそうだ」と頷いた。
「じゃあやっぱり名前はラッキーだ」
「え?」
「だって隣にいるのがオレなんだから」
「これって『ツイてる』ってことだろ?」と悪戯っぽく笑うナランチャに、名前も肩を震わせた。
「そうね、その通りだわ」
そう答える声に、憂いは一片もなかった。
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『ヒヤシンスの瞳や顔立ちはニケーアの船を思い起こさせる。ギリシャの輝きとローマの壮麗さを。清き聖なる国からきた魂を』、『Naiad』はポーの『ヘレンに』が元。
Naiadは病を治す水の精ナイアスです。