ナランチャ√【後日談】中
名前を助手席に乗せ、ナランチャは車を走らせる。
その上空に広がるのは快晴。遠くに霞む山並みさえ見通すことができた。その下をボートで駆けたらどんなに気持ちいいだろう?
「いい天気だな。最高の休日って感じ」
「ええ、本当に」
ナランチャはすっかりご機嫌で、車内に流れる音楽に合わせてハンドルを指で叩いた。
奏でられる鼻歌。それに伴って揺れる体。いかにも注意散漫な様子であったが、しかし名前がそれに苦言を呈することはなかった。彼女はナランチャの運転技術を信頼していたし、何より些末なことでこの平穏という音色を乱したくはなかったのだ。
もちろんナランチャが免許を取ったのはここ数年のこと。けれどそれより前から車を乗り回していたから、今さら他人にハンドルを任せる気にはならなかった。助手席に名前がいるなら尚更だ。そんな理由で専用の運転手をつけるという話は断った。
護衛についても同様だ。ナランチャは自分と、それから名前の力を正しく理解していた。スタンド使いでもない人間を護衛にしたところで、逆に身動きが取りにくくなるかもしれない。そう考えれば無駄に人員を割こうとは考えられなかった。
それは例え抗争中であっても、だ。いや、だからこそとも言える。今、信頼できる仲間は貴重な存在だった。
故に前後を走る車はどれも赤の他人のもの。それらが不審な動きを見せたらすぐに反応できるよう気にかけながら、ナランチャは海を目指した。
「こんなに穏やかな休日なんて何時ぶりかしら」
名前は声を弾ませた。行き先はパッショーネの所有する海辺のホテル。プライベートビーチは今更なんの目新しさもないけれど、名前はいつだって新鮮な喜びを露にした。
その理由をナランチャは知っている。聞けば必ず彼女は『そう』答えるからだ。
しかしナランチャは懲りもせずに訊ねた。「そんなに楽しみ?」と。
「それはもちろん」
そうすると予想通り名前は相好を崩して頬を押さえた。
「だってあなたと一緒だもの」
「……そっか」
その答えにナランチャは満足した。満足して、「オレも」とその頬に口づけた。信号が青に変わる前の一瞬の間に。隙をついて、その耳元に囁きを落とした。
「オレも、名前とだったらなんだって楽しいよ」
こういった関係になる前、出会った頃から変わらず繰り返されたやり取り。何度目かの名前の答えはしかしナランチャの胸に瑞々しい彩りを与える。歓喜と、それから途方もない愛情を。流れる小川のように穏やかで、深遠なる海のように深い愛情を。擽ったそうに笑う名前を見て、ナランチャの心は充たされていった。
「……ん?」
「どうかした?」
「いや……」
その時、ふと。目に留まったのは己と並走する車。少々旧時代的なそれにまず感じたのは『どこかで見たことがある』という些細な引っ掛かりだった。
どこかで──そう、雑誌だとかではない。それも最近のことだ。最近、どこかでこの車を見かけた。
まず考えたのは身内のそれだった。知っている限りのもの。親しい幹部や頼りになる部下、そしてその家族のものを思い浮かべた。
けれどそのどれとも違う。そうではないのだ、と頭のどこかが強く訴えかける。
「ねぇ、名前──」
その違和感の正体を探ろうと、ナランチャは助手席に視線をやった。そこにはいつもと変わりない、なだらかな笑顔があるはずだった。
しかし彼女の顔は強張っていた。「……ナランチャ、」努めて平静を装った声音。だが隠しきれない動揺。それがナランチャにはわかった。ナランチャだからこそ察することができた。彼女の焦り、その原因まで。
「…………」
今ではもう理解していた。どこでその車を見たか。──実際に見たのではない。ナランチャが見たのは写真だ。一枚の写真。厳つい顔をした男が車から降りてくるところを撮ったもの。その手には機関銃があって、その足元には物言わぬ肉体が転がっていた。
ナランチャはハンドルを握り締めた。右足はアクセルを踏んでいる。思いきり、制限速度を越えて。けれど並走していた車は今なお背後にぴたりと張りついたまま。まるで蛇のようだった。それほどの執拗さを感じた。皮膚は粟立ち、血液は勢いよく体を巡っていた。
通り過ぎ行く街並み。その幾つかの場所でナランチャは見知った顔があるのに気づいた。ある者は建物の四階だか五階だかの窓辺にいて、またある者は庭先で膝をついていた。そのすべての者が手に銃を持っていた。それも機関銃を。
明確な殺意だった。恐らくは昨日の報復だろう。相手方のボスは相当に怒り狂っているらしい。随分と矜持を傷つけてしまったものだ。
ナランチャはハンドルを切りながら思考した。
──できるだけ被害は抑えなくては。
一般市民を巻き込むのはパッショーネの本意ではない。あくまで弱者の味方であり、それがパッショーネの武器でもあった。
だからナランチャは車を走らせた。なんとかして人通りのない場所まで行かなくてはならない。それが例え罠だとしても。
「……このままずっと追いかけっこするつもりかしら」
「まさか」
ナランチャは片方の口角を持ち上げた。そんな子供の遊びに付き合っちゃいられない。そう言外に籠めると、名前も「そうよね」と溜め息を吐いた。
彼女はやれやれといった風だった。しかしその手は既に三十八口径にかかっていた。
行く先には十字路があった。そこにはちょうど建物があって、横道の先には何があるか遠くからでは窺い知ることができなかった。
「どっちに賭ける?バイクか車か」
にやりと笑うと、名前は「どちらでもないって選択肢はないの?」と眉を下げた。
「私、今日はすっかりお休み気分だったのに」
名前はうんざりと首を振った。それから「せめてバイクならいいわね」と言い添えた。
「バイクなら最高でも二人乗りでしょう?」
それでも人を殺すには十分だったから、その願いはほんの細やかなものと言えた。
「じゃあオレは車に一票」
ナランチャは言って、エアロスミスを出現させた。そしてレーダーを見て──「当たりだ」と口笛を吹いた。
「オレたちどっちも冴えてるな」
言い終わるや否や、ナランチャの前に右側からはバイクが、左側からは車が一台ずつ飛び出してきた。そしてそこには当然のように機関銃が積んであって、銃口は二人に向けられていた。ナランチャと名前、そのどちらもを狙っていた。
「行け!」
叫んだのはどっちだったか。ともかく一歩早かったのはエアロスミスの方だった。男の機関銃が火を噴くより早く、エアロスミスの弾丸がその身を貫いていた。
その姿を視界の隅に捉えながら、ナランチャはハンドルを右側に切った。ハンドルを切りながら、頭だけぐっと伏せた。たぶん隣にいる名前も同じようにしているだろう。そう、信じるしかなかった。
頭上ではけたたましい音が響いていた。砕けるガラス。頭上を掠める熱。そのすべてが一瞬のうちに起こり、次にナランチャを襲ったのは重たい衝撃だった。
それがまったくの想定外であったらきっとすぐには動けなかったろう。けれどバイクに突っ込んだのはナランチャの方からであったから体勢を立て直すのもずっと早かった。
ナランチャは車外に転び出た。固い地面が剥き出しの膚を打ったが、そんな小さなことを気にかける余裕はなかった。
「……クソッ」
バイクはすっかり路肩に転がされていた。虫の息だった。けれどナランチャは容赦なく撃ち込んだ。よろよろと起き上がる男は背筋を伸ばす間もなく再び地面に沈んでいった。もう一人の男についても同じで、けれどそれをしたのはナランチャではなかった。
「名前、」
車内から引き金を引いた彼女は落ち着いた様子で、しかし素早く車外へ出ると、ナランチャの隣に腰を落とした。
「参ったわね」
視線の先、ひしゃげたサイドミラーには黒い人影が映っていた。その後ろにはずっと張りついていた車が止まっていて、ナランチャは辺りがすっかり囲まれているのを把握した。
「あぁ、絶望的ってこういうのを言うんだろうな」
そう言いながら、ナランチャは笑っていた。その隣、自動小銃に持ち替える名前も、また。ひりつくような緊張を感じながらも、しかし心のどこかでは確信していた。今はまだその時ではない。死はまだ我々の外側にある。
そう確信し、ナランチャは素早く名前の頬に唇を寄せた。
「死ぬなよ」
「あなたこそ」
先刻とはまるで正反対の状況。そんな中であっても、胸にあるのは黄金の輝きだった。AK-47を抱える彼女に感じるのは信頼であり、希望でもあった。