ナランチャ√【後日談】後


 ──『許可』が降りてすぐ、ナランチャは名前のいる病院を目指した。
 騒動の鎮圧とその事後処理。それらを終えて解放されたのは既に見舞い客もすべて帰された後。ナランチャが着く頃には病院のロビーもすっかり静まり返っていた。
 いるのは護衛としておかれた者だけ。彼らは幹部であるナランチャの顔を見るやいなや頭を下げたが、ナランチャが彼らのそれを認めることはなかった。彼の意識にあるのはただひとつのことで、それ故にその他のことは目の前を上滑りしていくだけだった。
 病室の番号は手配したフーゴから聞いていた。目指すは四階。エレベーターを待つ時間さえ惜しく、迎えが来るまで貧乏揺すりのようにボタンを小突き続けた。
 エレベーターの中はごうごうという音がした。機械の鳴き声か、空気の流れる音か。それとも落ち着かない血流のせいだろうか。ナランチャは頭上の番号をじいっと見つめ続けた。それが四階を指すまでが永遠のように感じられた。
 四階の看護師詰所には数名の人影があった。その内の一人が心得たとばかりに立ち上がったが、ナランチャは手で制した。案内は不要だ。それよりもずっと大切なことがある。そしてそれは看護師の手では決して叶えられぬものであった。
 四階。三号室。その個室は表札を見なくてもすぐにわかった。
 部屋の前には厳めしい顔の男がいた。医師でも看護師でもない顔つきだった。だがそれが組織の護衛なのか、護衛を兼ねた警察の者なのかナランチャにはわからない。それにどちらでもいいことだ。彼らはナランチャに頭を下げた。それさえわかれば充分で、それ以外は今必要な話ではなかった。

「名前ッ!」

 ナランチャはドアを開けた。それは思ったよりも耳障りな音を立てて壁にぶつかった。重たい音がして、室内にいた看護師が顔を顰めたのがわかった。部屋の中は病室と思えないほど明るく、それは照明のためだけではないのだということもナランチャは諒解していた。

「もう、あんまり騒いじゃダメよ」

 名前はベッドの上にいた。だがその身は起こされ、顔には笑顔があった。子供を叱るような調子でありながら、『仕方ないなぁ』とでも言いたげに甘ったるい。蕩けるような眼差しはナランチャにだけ与えられるもので、そうしたものを認めた途端にようやくナランチャはほっと息を吐くことができた。

「だって心配だったから」

 大股で歩み寄り──半ば掴みかかるような勢いで──ベッドの脇に膝をつく。
 掬い上げた手には痛々しい包帯の白。作り物の色は本来の膚よりもずっと白く、なのにずっとくすんで見えた。名前の膚は白というより透明だったのだろう。他にないってくらいに澄み渡る色。それを覆い隠す人工物に、鼻の奥がツンと痛む。

「寝てなくていいの?まだ痛むんだろ?」

「平気よ、ただの掠り傷」

 名前は微笑んでナランチャの頬を撫でた。不安だとか痛ましさだとかそうしたものでかさついた膚を労るような手つきだった。彼女の顔には初夏の生白い月明かりが差していて、ただそれだけだというのにどんな劇場の照明だってその微笑には遠く及ばなかった。
 名前は「もう大丈夫」と看護師を振り仰いだ。ナランチャを一瞥し、そして再び何かを訴えるように看護師を見た。職務に忠実な彼女を。
 母親くらいに歳の離れた看護師は最初承服しかねるといった顔をした。ナランチャを見るのは疑いの籠った目。その目はナランチャの態度が気に障ったのだと高らかに叫んでいた。
 しかしナランチャは何も言わなかったし、聡明な彼女もまた口を閉ざした。幾つかの言葉を呑み込んで、代わりに名前を見て、目許を和らげた。

「わかりました。ですがどうか無理はなさらず。傷が深いのに変わりはないのですから」

「ええ、どうもありがとう。今日は早くに休もうと思います」

 名前の答えに看護師は満足げに顎を引いた。そして最後にもう一度ナランチャを見た。そこには名前へ向けたような温もりは残っていなかった。
 しかし看護師がそれ以上の苦言を呈することはなかった。良くも悪くも己の仕事に誇りを持っていると見え、彼女は多くを語ることなく病室を出ていった。
 ナランチャはその後ろ姿を見送り、内心溜め息を吐いた。
 ……やれやれ。でもああいう看護師がついているのは安心に繋がる。たぶん彼女は何があったって名前を守ってくれるだろう。だからナランチャは無礼な看護師に対し何の感想を吐くこともしなかった。

「いやね、みんなして私を重傷者扱いするんだもの」

 彼女の気配が遠ざかるのを確認して、名前はひょいと肩を竦めた。
 よそ行きの仮面を取り払った彼女は余りに無垢。彼女がよく言う『レディ』らしさは失せ、代わりにあるのは駄々をこねる子供の顔。けれどそれを見せるのは本当に限られた人だけ──今ではもう長い付き合いになる幹部連中くらいなものだろう──だったから、ナランチャは相好を崩した。

「そりゃあそうだよ、一番酷いのはジョルノが治してくれたけど……」

 言いながら、ナランチャは備えつけの椅子に腰を下ろした。ようやくそれだけの余裕が生まれたのだ。
 しかしそうしてからも視線は油断なく名前の体を観察していた。包帯で隠されたその下のことを思った。肉の抉れた上腕部だとか脹ら脛のことを考えていた。ふつふつと沸騰する怒りがあって、再度首をもたげるそれを抑えるために名前の手を取る必要があった。その温かさを確認しなければ到底平静ではいられなかった。
 名前は握られた手の強さにほんの少し目を見開いた。けれど彼女はすぐにそれに応え、そっと目許を寛げた。もう一方の手でナランチャの甲を宥めるように撫で、「もちろんジョルノには感謝してるわ」と困ったように眉を下げた。

「でも私が『治す』のもダメって言うのよ、ほんのちょっぴりでも……それでもダメだってブチャラティまで」

「ブチャラティの言うことは聞いておくもんだよ、大体それは正しいことなんだから」

「だから余計気が滅入るのよ」

 ナランチャの知らないところでこっぴどく叱られたらしい。名前は大仰に息を吐いてみせた。
 でも叱られたのはナランチャも一緒だ。「もっと警戒しろ」だとか「どうしてすぐに応援を呼ばない」だとか。「もしものことがあったら」──そう言った時、フーゴは何かを堪えるように唇を噛んだ──「どうするつもりだったんだ」だとか、散々小言を言われたばかり。今もまだ鮮烈に耳に焼きついていた。

「あなたは平気?細かい傷だけってアバッキオには聞いてるけど」

「うん、脇腹とか腕とか……掠ったのはあるけど、大したことないってさ」

「そう、よかった」

 名前は目を細めた。それは心底安堵したという表情で、ガーゼを貼られたままの頬を撫でる指先にナランチャの胸は熱くなった。大切にされている、その実感に息が詰まった。同じだけの感情がナランチャの中にもあって、その事実が改めて心を温めてくれた。
 「名前も、」自然と動く口。上擦る声。「無事で、よかった」溜め息のように零れた言葉に、名前はちいさく頷いた。瞳に張るのは透明な膜で、ともすれば溢れ出しそうなのはナランチャだって一緒だった。

「ごめん、本当はオレが守んなくちゃいけなかったのに」

「いいの、いいのよ、しょうがないことだもの」

「でもオレは名前を傷つけたくなかった」

 傷。その単語に名前は顔を曇らせた。彼女はナランチャの言わんとするとこを早々に察し、その事実に心を痛めた。
 ナランチャもまた彼女の表情に躊躇った。別に真実を告げる必要はないんじゃないだろうか。別に、改めて言葉にしなくたって。そう思ったけれど、続きを促すように見つめられて腹を据えた。
 名前が望むのなら伝えなくてはならない。今回の襲撃が内通者によって齎されたのだということを。

「……そう、そうよね」

 裏切り者は年若い青年だった。それでも見所はあって、ナランチャは内心期待していた。親元を離れ、貧しい暮らしだと言う青年の世話をしてやることもあった。名前も彼ことは気にかけていて、今日の休暇は海に行くつもりだとも彼には伝えてあった。そう、本当に期待していたのだ。
 ──それがまさか金に目が眩んで判断を見誤るとは。
 ナランチャの話を聞いて、名前は目を伏せた。「そうじゃないと説明がつかないものね」それは己に言い聞かせるようで、響きは鋭利なナイフのようだった。少なくともナランチャにはそう思われた。おのが身を裂くナイフ。ずたずたに切り開かれた心がナランチャには見えた。

「……後悔してる?」

 そう訊ねたのは無意識のうちだった。先日は呑み込んだはずの問い。その答えに怯えたのはナランチャ自身だと言うのに、今言葉にしてしまったのもまたナランチャであった。

「名前は本当はこういう世界にいちゃいけないんだ。向いてないんだよ、だって女の子なんだから。だから、本当なら普通の生活を送るのが正しいんだ。わかってるよ、オレだってもう子供じゃない」

 名前が少しでも肯定する素振りを見せたら。──いったいどうすればいいのだろう?
 今さら手を離すことなんてできなかった。想像だけで心臓は凍えた。もう孤独ではないはずなのに、世界にひとり放り出されたような心細さを感じた。同時に、彼女を恨んでしまうのではないかという恐怖もあった。彼女の意思を尊重したいと思う。
 ──なのに、それでも。

「それでもオレは、」

「ナランチャ、」

 言い募ろうとした口を封じたのは名前の指だった。彼女は人差し指をナランチャの口に添え、その言葉を奪い去った。そして名前を呼んだ。ただそれだけなのに、そこには有無を言わせぬ響きがあった。
 ナランチャは焦燥に駆られながら名前を見た。いつの間にか自分よりも一回り以上小さくなった彼女を。なのに変わらぬ大人びた眼差しを。そこに溢れる愛情を見てとって、言葉を失った。

「私、お願いがあるの。あなたに叶えてほしいの、あなたじゃなきゃダメなのよ」

 名前は微笑んだ。微笑んで、そして、

「子供がほしいの。やんちゃな男の子。あぁでも、女の子でもいいわ。それが元気な子でもおとなしくったっていい。ただ、家族がほしいの。ナランチャ──あなたと、」

 家族になりたい

 そう言った彼女の表情をナランチャは知らない。彼女が言い切るより早く、その体を抱き締めていた。そこにあるのは衝動であり、歓喜であった。彼女の選択に痛む心があるのもまた真実であるはずなのに、それ以上の喜びがナランチャの中を駆け巡っていた。

「オレ、いい父親になれるかな」

「もちろんよ、だってこんなにも私を幸せにしてくれるんだもの」

「なんだよ、それ。全然繋がってない」

 ナランチャは笑った。笑いながら涙を一筋流した。
 それを知らないはずなのに、名前はそっと背中に手を回してくれた。傷ついたままの腕をぎこちなく動かして、それでも応えてくれた。どんな痛みがその身を裂こうとも、彼女が選んだのはナランチャであって、それ以外に必要なことは何もなかった。今はそれ以外のことを知る必要などなかったのだ。
 そしてそれはナランチャだって同じだった。








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ナランチャ誕生日おめでとう!
アバッキオ、ジョルノの時と同じく結婚直前のお話でした。