フーゴ√【後日談】


原作終了から数年後。捏造多々あり。






 幼い頃から多くの習い事をさせられてきた。実家は富裕層であったからそういうのには事欠かなかったし、その一つとして聖歌隊の仕事が与えられたのもお国柄を考えれば必然のことであった。
 とはいえそれはもう過去の話。変声期を迎える前のことであったから、ぼくとしては単なる昔話に過ぎない。色褪せ、ごく稀に『あぁそういえばそんなこともあったな』と思い出すくらいのこと。

「わぁ!」

 ……であったから、当時の写真を前にして名前がこれほどまでに目を輝かせるとは想像もしなかった。

「可愛いわ、幾つくらい?八つくらいかしら?可愛いわ、本当……」

 写真の中のぼくは赤の祭服に白のローブを着ていた。西方教会の典型的な装束だ。ぼくにとっては何一つ特別なものではなかったが、しかし名前には違った。彼女にとっては非日常で、頬を紅潮させるくらいには興奮する材料だった、らしい。新居への引っ越しに伴う片付けを放棄して、彼女はすっかり鑑賞の姿勢に入っていた。
 ぼくは広げられたアルバムを見下ろして溜め息を吐いた。

「やめてくださいよ、当人を前にして……」

 可愛いと言われて喜ぶのはそれこそ幾つくらいまでだろう?写真の当時、既に世を斜めに見ていたぼくにはとんと覚えがない。成人した今となっては尚更だ。ただでさえ歳上の彼女に──尤も中身は少女のようだが──色々と思うところは日々あるというのに。

 ──あぁ、こんなことなら昔のアルバムなんか引き取るんじゃなかった。

 身の回りが落ち着いて、さて頃合いかと覚悟を決めた後──求婚の時のことは余りに気恥ずかしいので思い出したくはない──、やはりけじめは必要だろうと生家に連絡を取った。無論電話口の声は冷たく、硬質的であったが、それで痛む心は持ち合わせていない。名前は随分心配そうにしていたが、結局行ったのは結婚の報告と、それからこの忌々しいアルバムを含めたぼくの私物を引き取ることだけだった。
 両親としてもこれで綺麗さっぱり縁が切れてホッとしていることだろう。自分の親であるから彼らの考えていることなど手に取るようによくわかる。ぼくの私物を残しておいたのだって愛情の一片などではない。下手に手をつけて蛇を出したくなかっただけだ。彼らはぼくを蔑視しているくせ、同じくらい恐れてもいた。
 まったく、可笑しな話だ。ぼくはあなたたちの胎から産まれたんですよ、と言ったらどんな顔をするのだろう。……まぁ、もう会うこともないだろうが。

「だって本当に可愛いんだもの、抱き締めたいわ。あぁ、なんて惜しいことしたのかしら!もっと早く出会えていればよかったのに」

「いや、本当に子供の頃ですから……いつまで遡る気です?」

 ほの暗い思考に陥りかけたぼくを引き揚げたのは、名前の歓声じみた声だった。彼女の目には愛情が溢れていて、呆れる傍ら、ぼくは夢想した。そんな彼女に抱き締められたなら、と。
 名前ともっと早くに出会えていたなら、ぼくも少しは年相応になれたのだろうか。写真の中、何もかもがつまらないと言いたげなぼくを見る。こんな風に人の裏側ばかり見るのではなく、称賛を素直に受け止めるような、ごく普通の子供になれたのだろうか?
 ……なんて、すべてが空想に過ぎないのだが。
 内心苦笑するぼくを余所に、名前は素直に指を折る。

「あなたが八つだから、私は……ええっと……」

「あ、数えなくていいです。あんまり考えたくないことなので」

 それを慌てて止めたのはぼくが彼女との隔たりを認めたくないからだった。
 一時期体の成長を止めていたらしい名前。今でこそ真っ当に歳を重ねているが、しかしぼくとの間に時間的な壁があるのは真実。その期間は精神も肉体の年齢に引っ張られていたとはいえ、ことあるごとに歳上ぶるのが彼女であった。

「酷いわ!私だってもうあんまり考えないようにしてるのに!」

 ……であるのに、彼女もまたその隔たりを気にしていたらしい。
 名前は深々と溜め息を吐き、悲しげに肩を落とした。
 しかし写真に目を戻すとすぐに立ち直り、「あぁでも素敵ね、本当によく似合ってる……」とうっとり呟くものだから、慰めに伸ばしかけた手は無駄に終わった。
 ──やれやれ。でもちっとも苛つかないんだからこれはもう末期だ。末期も末期。レウカスの岬から身を投げたとして、しかしその海ですらこの罪──またの名を恋というのか──は濯げまい。

「私も少しだけやってたのよ、小さい頃……でも要領がよくなかったから他の習い事と両立できなくて諦めたの」

 名前は指先で写真をなぞった。写真を、その中に閉じ込められたぼくを。輪郭を伝う指先に、ぼくは擽ったさを覚える。そんなところに神経が通っているはずもないのに、不思議な話だ。
 ぼくは「他の?」と訊ねた。彼女が過去について語るのは珍しいことで、その一端にでも触れるのは信頼の証であろう。少なくともぼくはそうだ。親愛の情がなければこんなアルバム、焼き捨てていたに違いない。
 そんな問いに対し、名前は「色々よ」と肩を竦めた。「色々……絵画だとかお花だとかね」向いてなかったけど、と笑う彼女に未練はない。そのことに安堵したのは内緒だ。女々しいとは思われたくない。

「でも経験できてよかったわ、楽しかったもの。その点ではこの時代に感謝ね。中世だったら無理だったもの」

「けどバッハは許嫁に歌わせたじゃないですか」

「あら、じゃああなたがバッハになってくれるっていうの?」

「いいですよ、あなたがそう望むならね」

 こんな台詞、昔のぼくが聞いたら卒倒するだろうな。今のぼく自身が『らしくない』と驚いているのだから。
 でもそんな言葉ひとつで名前が笑うなら安いものだった。

「ね、やっぱり上手だったんでしょう?」

 小首を傾げて覗き込んでくる彼女に、「さぁどうでしょう」と肩を竦める。
 実際、専門的に見てどうだったのかはわからない。一般的には評価を与えられるものであったかもしれないが、耳のしっかりした者が聴いたならなんと思っただろう。少なくとも奉仕の精神は持ち合わせていなかった。だからきっとそれがバレていたなら、『神の御前でなんたること』と糾弾されていた。

「褒めそやされましたが、まぁ相手は子供ですからね」

「もう、素直じゃないんだから」

 しかし名前は心底疑っていなかった。

「きっと素敵だったんでしょうね。それこそまさに『清らかな声』で……、声変わり前はハイドンみたいなこと言われたりなんかして」

「あぁ、『去勢しろ』って?」

「そう、それ!」

 昔の聖歌は『清らかな声』、即ち変声期前の少年の声で歌われるべきと考えられていた。だからオーストリアの偉大なる作曲家、フランツ・ヨーゼフ・ハイドンも少年の時分には去勢を勧められたというのは有名な話だ。

「冗談混じりに言われたのは否定しません。勿論ぶちギレそうになるのを抑えるのに必死でしたが。『なんでテメェのためにオレがそこまでやってやんなくっちゃあならねぇんだッ!!』って。内心じゃ大変でしたよ」

 そんな歴史を踏まえた揶揄いがあったのは確か。しかしそれも時間が過ぎれば冷めたもの。当時の怒りはなく、どうしてあんなに腹が立ったのかと首を捻るくらいだ。

「ふふっ、内心だけだったのね」

「頑張ったんですよ」

「えらいえらい」

 しかしこうして名前に頭を撫でられるのだから──子供扱いされているようではあるが──悪いことばかりではない。
 ぼくの目許はきっと赤らんでいることだろう。その証拠に名前の微笑みは今日の日差しのように暖か。まるで春。それかナンタケット。石畳の街には不釣り合い。花々、藤と黄金の色。白いカーテン、蒼い空。そうしたものがよく似合う。
 そしてそんな彼女の薬指に填まる輝きに──途方もない充足感を覚える。

「……でも、本当に中世じゃなくてよかった」

 しみじみと。言うと、しかし、名前は「あら、」と慈愛に満ちた声を洩らした。

「私はもし『そう』なってても気にしないわ。あなたであることに変わりはないんですもの」

「……ぼくが気にするんですよ」

 それが愛情の証だとわからないほど鈍くはない。ただ、ぼくの求める答えではなかっただけで。
 ただそれだけでぼくは彼女の白い腕を取った。容易に一巡できる手首。それを掴んで、ぐいと引き寄せた。
 倒れ込んだ彼女を受け止めるのは少年の体ではない。それを知らしめるためにぼくは殊更ゆっくりと口を開く。

「それともそれがあなたの望みですか?可愛い可愛い『少年』を愛でる方が?」

 ぼくの腕の中に収まる彼女。けれど名前の目に曇りも羞じらいも一切なく。

「うーん、それもなかなか魅力的だけど、」

 呑気に思案し、そして。

「でもやっぱり今のあなたが一番。明日も明後日も……私と同じように歳を重ねていってくれる『あなた』が『今』一番好き。そして明日のあなたを明日の私は一番に愛するんでしょうね」

 言い切った彼女の声も眼差しも蜜のように甘い。なのに清々しいほど真っ直ぐで、躊躇いなど入り込む余地もなかった。

「……よくもまぁ恥ずかしげもなく」

 そんなだったからぼくの方がたじろいでしまう。仕掛けたのはぼくだったはずなのに。なのに今のぼくは羞恥と歓喜を受け流すのに必死で、彼女の微笑みが悪戯っぽいものに変わっていくのにも気づかなかった。

「あなただって時々すっごく恥ずかしいこと言うわ、例えば……」

「い、言わなくていいッ!!」

 叫ぶ。と、途端に弾ける笑い声。それにむっつりと唇を引き結ぶぼくだが、それも長くは続かない。
 笑みを押さえようと口許に添えられた手。そこに鎮座する輝きにまたも意識を奪われて──いつの間にか相好を崩していた。