降谷零と境界線のもしも

 気づくといつもそこにいた。
 降谷零の通う高校。その北校舎屋上。空に一番近い場所。そこに少女はいつもいた。

「ーーまた来たの」

 なのに少女の方が呆れたように言うものだから、零は少しムッとした。「君が言えたことか」俺が来るたびに居座っているくせに。

「君、サボり魔?」

「1度だってそんな真似したことないわ」

「じゃあ登校拒否だ」

「私、学校って好きよ」

 じゃあなんだっていうんだ。
 零が屋上を訪れるのは気まぐれだった。昨日も来たかもしれないし、来なかったかもしれない。明日も来るかもしれないし来ないかもしれない。それくらい気まぐれで、意識したことなどなかった。
 なのに少女はいつもいる。屋上が住処とでもいうかのように。あるいは、見計らったかのように。
 少女はいつも、フェンスを背に立っている。

「……はぁ」

 零は溜め息を吐いた。堂々巡り。今日もやはり答えはくれないらしい。いつものことだから予想はついていたけれど。
 諦めて、座り込む。喧しい真夏の太陽から逃れて、陰に引っ込む。シャツを扇いでもなんの気休めにもなりやしない。

「暑いならこんなとこ来なきゃいいのに」

 遠くで少女が言う。「あなたにはこんなとこ似合わないわ」輪郭はぼやけてるのに、声は明瞭なのが不思議だった。

「そっくりそのまま返すよ」

 少女は困ったように笑ったらしい。たぶん笑ったのだと思う。顔は、見えないけど。
 零はここで本を読もうと思っていた。日常があまりに忙しないから、ここでならゆっくりできると思ったのだ。
 でも学識ある無知について紐解くより早く少女が口を開く。「怪我、してる」どうして。と言外に問われ、言葉に詰まる。「大したことないよ」と言っても、無言で見つめられると何か言わなければという気にさせられる。だから零は日々の話をした。下らない、なんてことない日々のかけらを。そのひとつひとつに少女は耳を傾けた。ひどく熱心に。そうすると零の方もなんだかたのしくなってきて、口数が増えてしまう。結果、本は開かれず膝の上で寝かされたままとなった。

「……そういえば、君の名前ってなんだっけ」

 前にも聞いた気がするが、引き出しをひっくり返しても見当たらない。覚えがない。同じ学校の生徒を少女と呼び続けるのはおかしな感じがするし、なにより不便だ。なのにちっとも覚えていないのはどうしてだろう。暑さに頭がやられたか。

「ーーーー、」

 陽炎が揺らめく。躊躇いを帯びて、数度。それから言った。「ーー名前」聞いた瞬間、なにかが胸に落ちた。落ちて、広がって。そうして、沈黙だけが残った。

「名前、」

「……うん、」

「……そう」

 腑に落ちた、というのか。少女が名前というのは至極当たり前のことと思えた。太陽が東から昇るみたいに、当然で、不変だと、そう思った。

「それで、名前は何しにここに来るの」

「何しに?」

 名前は首を傾げた。「そうね……」なぜそこで悩む。理由がなきゃわざわざ鍵のかかった屋上をこじ開けてまで来ないだろう。
 なのに名前は考え込んだ。そして悩んだ末に導いたのは。

「空を見に来たーーといえばいいのかしら」

 はぁ、と気の抜けた声が出る。いや、だって。

「ここよりずっといい場所があるだろうに」

 零は指差した。名前の向こう。その先に広がっているはずの街並みを。「ここより高いところから見た方がきれいじゃないの」といいつつ、空なんかどこから見たって一緒じゃないかと零は思う。そもそも空は空で空なんだから。永遠にそこにあるものに、不変的なものに拘泥してどうなるのだろう。それより日々の生活の方がずっと大切だ。具体的には次の期末試験だとか。
 名前はといえば今度は困ったように笑んだ。

「ここじゃないとダメだから」

 言いながらも、彼女は零から目を逸らさない。空でも天でもなく、零の瞳をじっと見つめる。

「少し、疲れた顔をしてる」

 大丈夫ーー?問う声が、空に広がる。面識などほとんどないはずなのに心底心配しているという語調で言われると、居心地が悪い。こっちは彼女の名前すら危ういのに。
 「大丈夫だから」零は慌てて手を振った。「やること多いし忙しいけど、好きでやってることだから」大丈夫かと聞かれることはままある。特別近しくなくても、女性には特に。そのたびなんてことないですよとにっこり返していた。おくびにも出さなかった。そのはずなのに。

「…………」

 これでは肯定しているようなものじゃないか。
 でも名前にはとうにバレバレだったらしい。「やっぱり」仕方ないなぁって声色で、母親みたいな柔らかさで、彼女は言う。

「あまり、無理はしないでね」

 零がそれに答えるより早く、鐘の音が二人を引き裂いた。ごぉんごぉんと世界が割れた。
 「もう時間なのね」隙間から名前の声がする。「さぁ、帰らなくちゃ」零を急き立てる声がする。「さぁ、はやく」零はたたらを踏んだ。

「でも、」

 ごぉん、ごぉん。砕け散る空。零れる蒼。降り注ぐ破片。その中で唯一無事なドアに手をかけながらも、零はそこを開くことができないでいた。だって、ここを開けたら。

「お別れよ、零」

 名前が微笑む。遠く遠く、はるか遠く。空に一番近い場所。はじまりとおわりの境目。フェンスの向こうで、名前は手を振る。プラチナブロンドを風になびかせて、真っ白な名前は無情にも永訣を告げる。

「もうここには来ちゃダメよ」

 零は唇を噛んだ。いつの間にか制服は着なれたスーツに戻っている。きっと、高校生の降谷零でもなくなっているだろう。そんなのはるか昔に過ぎ去った過去なのだから。
 だから、零は足を踏み出した。自分の生きるべき現実に向かって。

「……さよなら」

 境界線の少女に、背を向けて。
 あぁでも、たまになら会いに来るのも許してほしい。何度目かわからない質問をするかもしれない。また名前を忘れてしまっているかもしれない。次は降谷零でないかもしれない。
 それでも許してほしい。
 名前のいなくなった世界で生きるのは、あまりにさびしいから。









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前に書いた「赤井さんとこに転がり込む」と同じようなネタです。こういうの好きなんだなぁと流してください。
時間設定は特にないです。一応ぼんやりと組織は片付いてでも主人公は死んじゃって、降谷さんは新しい案件に取りかかって〜って設定で考えてましたけどそのへんはなんでもいいです。