ナランチャ√【後日談】
完結後。付き合ってない。
「……やはりその時代特有ではないかと。モンテヴェルディが宗教とそれ以外の音楽を分けたのは、当時国王と教皇の権限が明確に分かたれたのと無関係だとは思えません」
「そこで生まれた第二作法がオペラに繋がるっていうのが面白いわね。歌詞が優位なのは中世と同じなのに……」
「そうですね、より自由へと進んでいくのが本当に人間らしい……」
弾む会話に誘われ、オレは半開きのドアの向こうをひょいと覗き込む。
ドンの『事務室』、その部屋の中にいたのはジョルノと名前で、二人は窓辺に立ちながら熱心に言葉を交わしていた。その輝く二対の目。二人が楽しげなのは廊下からでも認めることができた。
「なんの話?」
オレは深く考えることもなく室内に踏み入った。
「ナランチャ、」
気配を察していたのはさすが。ジョルノはちっとも驚いた風なくオレを見て、名前と一緒になって親愛の目を向けてくる。そこに不満の色はない。だからオレはホッとして二人に歩み寄った。
そこでオレは初めて二人がひとつの冊子を見ていたことに気づく。仰々しい作り。幾ら写真が沢山載っていたって、そこに踊る生真面目な文章はオレの頭には入ってこない。
わかるのは、それがオペラのパンフレットってことだけ。
「先日観劇した演目について話していたんですよ」
「ふーん……」
ジョルノは「見ますか?」とパンフレットを差し向けてくれるが、オレは素直に断った。書いてある言語はわかっても、内容までは理解できない。それが容易に想像ついたからオレは早々に諦めた。
「こういうの見てると私も行きたくなるわ。今度サン・カルロで『ルイザ・ミラー』をやるのよね」
「いいじゃないですか、行ってきたら」
「でも空いてるかしら……」
悩む素振りを見せる名前に、ジョルノは「押さえておきましょうか」と提案する。
その響きは優しく、何故だかわからないけど胸の中がざわついた。落ち着かない。居心地が悪い。そんな気に襲われて、気づけばオレは声を上げていた。
「オレも行く!」
勢いに任せて言い出したのを後悔しているわけじゃない。
それでもいざ劇場に入ってみると、そこに集まる人々のきらびやかさに圧倒された。住む世界が違うというかなんというか。とにかく揃いも揃ってみんなお上品なのだ。
ジョルノが用意したのはボックス席だった。本当に、ありがたいことに。一階席──プラテアと言うらしい──だったなら、ちょっとのことで注意されそうで肩身が狭いったらありゃしない。
「サン・カルロははじめて?緞帳に描かれてるのが『パルナッソス』……女神ムーサイと八十人の詩人、音楽家たち……。天井にあるのが『ミネルウァにラテンとギリシアの詩人を紹介するアポロ』で……」
オレの隣で名前はあれやこれやと解説を広げた。
あちこちを指差す姿は忙しないもの。しかしそれもオレのためなんだろう。少しでもオレを楽しませようとしてくれているのは伝わってくる。そしてそれは嬉しさ半分、なんとも言いがたい気持ちもオレに齎してくれた。申し訳なさとか寂しさとか、まぁそういった具合に。
終いには眉を下げ、「ごめんなさい、付き合わせちゃって」と言う始末。オレは慌てて、「そんなことない!」と名前の手を取った。
「オレが来たいって言ったんだ、名前が気にすることじゃないよ」
「でも、……あなたを満足させられるかはわからないわ」
幕はまだ上がっていない。にも関わらず、名前の目はもう不安に揺らいでいた。オレを落胆させるんじゃないかって不安に。
そしてそれは見当違いなものではない。だからオレは言葉に詰まった。
実際、オレはオペラのオの字も知らない。子供の頃からそんなのとは縁遠かったし、『ルイザ・ミラー』というオペラがあるのだって先日初めて知った。
『ルイザ・ミラー』、ヴェルディ作、初演はやはりこのサン・カルロ劇場にて……そんなことだって名前が教えてくれなければオレはずっと知らないままだった。……ジョルノとは違って。
「……それでもいいんだ」
「どうして?」
心底不思議だって風に小首を傾げる名前。そんな彼女を安心させるよう、思いきりの笑顔を浮かべてやる。
「だってオレは名前と来たかったんだから」
『ルイザ・ミラー』という演目は悲劇的な結末を迎える。そのために名前は余計心配していたのだろう。『あんまり面白い話じゃないわよ』と事前に釘を刺してくれた。
……確かに、彼女の懸念通り。第三幕が終わり、場内は割れんばかりの拍手に包まれていた。壇上では役者が深々とお辞儀をしていて、だというのにオレの目はそれをしっかり見てやることができなかった。
「……うぅ、酷い、あんまりだ……こんなのかわいそすぎるよ……」
先程とは打って変わって。橙色になった照明が今は目に眩しすぎる。オレは鼻を啜り、ぼろぼろ零れてくる涙を拭うのに必死だった。
──そして、名前も。
「あぁ、あんまり擦っちゃダメよ。ほら、ハンカチ使って、」
「うん……」
名前は甲斐甲斐しく世話を焼いてくれた。その手にはハンカチがあって、オレの頬をそっと優しく拭ってくれた。その時掠めた指先。そんな些細な温もりにすら涙腺は緩んでしまうのだからどうしようもない。
『ルイザ・ミラー』は一組の恋人の死をもって結末を迎えた。領主とその従者によって引き裂かれた二人。女を信じることができなかった男は恋人に毒を飲ませ、真実を知った時にはもう手遅れだった。女は父親の腕の中で息絶え、男は父親である領主を刺し殺し、力尽きて亡くなる。後に残されたのは娘の父親。肩を震わし、悲しみを抑えるしかない。
そんな誰も彼もが不幸になる話を見て、どこに愉快になる要素があるというのか。
「なんだっけ、あの男……」
「ロドルフォ?」
「そうそいつ!なんだって最後までルイザを信じてやんないんだろ……、大切な人のことなんだ、信じてやるべきだったんだよ」
「そうね、……きっとあなたならそうしたでしょうね」
そう言って、名前は目を細めた。その目はオレを見ていたけど、よくわからない色をしていた。いや、いつもの紫色なのに変わりはない。オレよりも薄い色、見慣れたはずの瞳。だというのに今は何を思っているのかわからない。その奥に揺れているのはいったいなんなんだろう?
「でも退屈しなかったならよかった」
「え?あぁ、うん、」
しかしそれも瞬きのうちに消えてしまう。今の名前が浮かべているのはいつもの微笑み。安心したって顔に、オレはひとつの決断を下す。
「あのさ、」
「うん?」
「……また、一緒に来よう」
そんな大したことじゃない。もっと大変な任務だってあったし、名前相手に緊張するなんて今さら変な話だ。
でもこれを言い終えるには多大なる勇気が必要で、よくわからないけど言った後も心臓が煩くて仕方なかった。なんだって言うんだろう、本当に。
「そ、そりゃジョルノとかと来た方が楽しいだろうけどッ!でもオレもその……なんていうか、面白くなくはなかった、し、悪くないと思うんだ」
急いでつけ足しながら、何を言ってるんだろうという気に襲われる。何を取り繕うみたいな、……心臓の音から目を逸らすみたいな。ひとりでバカみたいに慌ててるのは端から見れば滑稽だろう。
「……ええ、もちろん」
でもそう言った名前の顔を見たら何もかも吹き飛んだ。なんだっていいやって気になった。名前がこうして嬉しいとか楽しいとか、そういった顔を見せてくれるなら、それが一番なんだって思ったんだ。