ズッケェロ戦前


 車を走らせている間もブチャラティが行き先を告げることはなかった。けれど海岸線に沿って走るうち、名前は『もしかして』と予測を立てるようになった。
 ──もしかして、ブチャラティは。
 でもだからといってその理由まではわからない。その先、どこへ向かうのかも。

「出掛けるってクルージングかよォ!すげーじゃん!!」

 辿り着いた先、そこはレンタルショップで、港には幾つものヨットが停泊していた。
 蒼い空の下、はためく真っ白な帆。その光景はそれだけで清々しく、美しい。ナランチャが目を輝かせるのも納得だ。
 「いつヨットなんか手に入れたんだ?」そう冷静さを見せるアバッキオですらどことなく楽しげである。

「これから借りる」

「なんだレンタルかァ……」

「なぁブチャラティ……、頼むからあの四番の船だけは借りないでくれよ、絶対沈む……」

 ガッカリといった様子で肩を落とすナランチャの向こう、ミスタは真面目な顔で一艘の船を指差した。
 絶対。その響きには確信があって、彼が迷信を心底信じているのがよくわかる。わかるがしかし、チームの誰もがそれを呆れ顔で見やった。
 もう毎度のことで聞き飽きた。その思いを代表してフーゴが口を開く。

「またァ……だったら今あそこに浮かんでませんよ」

「うるせぇ!じゃあお前だけアレ乗れ!」

 叫ぶミスタに、フーゴはやれやれと肩を竦める。現実主義の彼にとって、ミスタの拘りはちっとも理解できないもの。少し考えればわかるじゃないかといった風だが、ミスタが受け入れることはない。
 だからブチャラティも「わかったよ」と鷹揚に頷いた。そして次に彼は名前を見て──ゆったりとした笑みを刷く。

「安心しろ、高速艇じゃあない。借りるのはヨットだけだ」

「あ、そうなの……よかった」

 ホッと胸を撫で下ろしながら、名前は内心驚いていた。ブチャラティが──時々ひどく鈍感になる彼が──些細な変化に気づくだなんて!
 目的がクルージングだと理解して以来、実はひっそりと押し黙っていた名前であったが、誰もそれを指摘することはなかった。ブチャラティだけだった。名前が不安を抱いていると、彼は察してくれた。
 ……その優しさが、途方もなく嬉しい。

「船ニガテだっけ?」

「ただの船ならいいのよ、ただ高速艇はその……前に散々だったから」

 先を行くナランチャが肩越しに首を傾げる。その後を追い、レンタルショップの扉を潜りながら名前は曖昧に笑った。
 この国の高速艇──アリスカーフォに乗ったのはまだ記憶に新しい。が、しかし今ではもうあまり思い出したくない記憶。故に言葉を濁すと、ナランチャは「あぁ、」と手を叩いた。

「そういや前にブチャラティとどっか行ったんだっけ?ええっと、」

「カプリ島よ。まぁ結局どういう意味があったのかはわからなかったけど」

 そう、あれは一年近く前のことだろうか──?
 あの日も今日と同じように突然だった。リストランテでの仕事を終えた名前を約束もないのに迎えに来たブチャラティは、行き先も告げず高速艇に乗り込んだ。名前はその隣でただ目を白黒させるばかり。船首の方に立って、遠ざかる陸地と光を跳ね返す波間をぼんやりと眺めていた。
 たぶんそれがいけなかったのだろう。船の前方は揺れが酷いのが必然で、この日は波が高いのもあって船酔いを訴える客が多かった。
 名前もそのうちの一人で、島に着いた後も思い出という思い出がないほどだ。それこそぐらぐら揺れる船の甲板を見つめていた記憶の方が色濃いくらい。かの有名な『青の洞窟』にさえ行けず、美しい景観なんかまったく目に入らなかった。
 ……まぁ、そのお詫びとしてブチャラティから貰った贈り物はとても素晴らしかったので文句のひとつも浮かばなかったが。

「そりゃあアレだよ、気ィ利かせたんだよ……。確かまだ入りたての頃じゃなかった?だからさ、ブチャラティの気遣いってヤツだよ」

 店内ではお菓子やジュースの販売も行っていた。観光客向けだろうか。アマレッティやカントゥッチーニ、ヌテッラ入りウエハース……どれもこの国らしいお菓子ばかりだ。
 そんな中からナランチャが選んだのはトマト味のポテトチップスやポップコーンといった若者らしいもので、それに加えて缶ジュースまで両腕に積み上げていく。なんとも器用なことだ。
 それを微笑ましく見守りながら、名前は「そうなのかしらね」と答えた。
 曖昧な返答だった。けれどナランチャが何かを指摘することはなかった。彼は目の前のことに夢中であったから、名前が内心『そうではないだろう』と思っていることにまでは気づかなかった。

 ──そうではないのだ、きっと。

 ブチャラティは気紛れを起こすような性格じゃないし、彼の見せる気遣いとはそういう類いのものではない。もっと直接的で、だからたぶん先の一件も彼にとっては意味のあることだったのだ。
 ブチャラティにとって意味のあること。……考えれば自然行き着くのはこの仕事について。やたらと秘密主義なのがギャングという生き物だと理解していれば、容易に想像のつくことだった。
 恐らくあの日のブチャラティは何らかの任務を帯びていた。しかしその内容は秘匿されなければならないもので、『そう』と周りに知られないでいる必要があった。つまりはカモフラージュ。名前が選ばれたのはきっと性別故だろう。異性であれば簡単にその関係を誤魔化すことができるし、周りの人々も意識しないだろう。これが男所帯であったなら、すわ大事かと囁かれたに違いない。

 ──だからって何というわけでもないのだけれど。

「じゃあさ、今回もそこかな?今度ばっかりはいい思い出にしようっていう……。新入りも入ったし、親睦会?みたいな?」

「……本当にそう思う?」

「ううん、思わない」

 ナランチャはブチャラティのことをよくわかっている。尊敬している人のことだ。名前よりもよほど詳しいだろう。
 そんなナランチャは自分から言い出したにも関わらずあっさりと意見を翻した。
 「ま、なんでもいいけどね」その言葉に含まれるのは多大なる信頼であり、ブチャラティの命令ならなんだってできるという確固たる信念があった。

「じゃあどこ行くんだろ?イスキア?プロチーダ?」

「もっと足を伸ばしたらどう?パレルモ、エオリエ、カラーブリア、」

「マルタとか?」

「そうそう」

 勿論その会話の殆どが冗談である。イスキア、プロチーダまでならヨットで行くのもいいが、さすがにそれ以上は距離がありすぎる。高速艇だって一本では繋がっちゃいない距離。
 けれどそんな遥か遠くの地に行くのも悪くないと思った。──ブチャラティの命令ならなんだって。そう思うのは何もナランチャだけではない。名前だってそう思う。
 だから名前はナランチャと顔を見合わせて笑い合った。下らない冗談を言い合える今が幸せだと思った。例えようもないほどに尊いとさえ思っていた。