原作前、ナターレの夜
共同住宅の最上階。そこからはナポリの古きよき街並みを見渡すことができた。夜空に君臨する教会の十字架や色鮮やかに瞬く商店街の電飾、家々に灯る温かな光を。
そうしたものを眺めながら、名前は食後のエスプレッソを飲む。と、何やら肩にかかる重さが増す。
「ナランチャ?」
隣に座っていたはずの少年を見れば、その体はすっかり名前に預けられている。覗き込んだ顔に浮かぶのは無垢なる眠り。健やかな寝息の零れる唇は僅かに開かれている。なんと無防備な格好だろう。気を許しきっている証拠だ。
名前は思わず微笑んだ。祖国から遠く離れた地。親類縁者のひとりもいない。それでも満ち足りたものが心に溢れた。
「ナランチャ、眠っちゃったみたい」
「はしゃぎ疲れたんじゃないですか」
フーゴはスプマンテを開けながら答えた。「おこちゃまは寝る時間だしな」ミスタの揶揄いにもナランチャは反応しない。いつもなら怒るところだが、返ってくるのはむずかるような声を洩らすだけ。それがまた可愛らしくて、名前は柔らかな頬を触りたい欲求と戦わねばならなかった。
「それじゃあ帰るか」
殻つきのナッツを食後酒と共につまんでいたアバッキオが席を立つ。「泊まっていってもいいぞ」家主のブチャラティは勧めるが、彼は首を振った。
「代わりにナランチャは置いていく。これ以上の迷惑はかけられねぇ」
言い方はぶっきらぼうだが眼差しには優しさがちらつく。 ナランチャを見る目も呆れてはいるが、彼の持つ生来の温かさまでは隠しきれていない。
「ならオレも帰るか。邪魔したな」
「そうですね。ありがとうございました、ブチャラティ、名前」
ミスタとフーゴも続けて立ち上がる。七面鳥やスモークサーモン、パネトーネを平らげて、クリスマスのディナーはあらかた食べ尽くした。日付は跨ぎ、お開きにはちょうどいい時間だ。
静かな夜に消えていく三人の背中。見送っていると、隣に立つブチャラティが呟く。
「遠慮しなくてもいいのにな」
「本当。結構礼儀正しいのね、特にミスタ」
ブチャラティは「確かに」と笑った。今時の若者のようでいて、存外義理堅い。チームの中では唯一後輩に当たる彼だが、もう既に古くからの友人のように感じていた。
名前はソファに戻り、未だ眠るナランチャの肩にストールをかけた。
「いい夜だったわ、みんなと一緒にいられて本当によかった」
「ああ、こんなに賑やかなのは久しぶりだ」
「それじゃあミスタとナランチャに感謝ね」
ブチャラティは遠く目を馳せる。「……そうだな」見つめるのは夜景。闇に沈むナポリの街。慈愛に満ちた目で、ブチャラティは世界を見る。
その眼差しが不思議と名前の心に残る。気にかかり、目が離せない。知りたいと思う。その理由を、彼が見ている世界を。知ってしまったら、私はどうなるのだろう?
「どうかしたか?」
「ううん、なんでも」
名前は首を振る。
──今はまだ、このままで。
何もかも片がついたら、その時には訊ねてみたい。そう、いつの日にか。
「ここから見える景色もいいなって思って」
名前は窓の向こうを視線で示した。するとブチャラティは笑みを深め、「だろう?」と頷く。
「オレも気に入ってるんだ。ここからなら街のことが全部わかる」
「そうね、みんなの楽しそうな顔が想像できるわ」
漏れ出る灯りのひとつひとつを思うと、自然と笑顔が浮かぶ。名前はナランチャに視線を移し、その髪をそっと梳いた。特別なことなどしていないはずなのにとても指通りがいい。
『艶やかな黒髪はブチャラティと同じだ』と考えて、それから名前は『ブチャラティの髪の手触りもナランチャと一緒なのかしら』と思った。思って、何を考えているのかしらと内心で笑った。
私にとってナランチャは恩人であり、姉弟のような距離感を心地よく思っている。ではブチャラティはどうだろう?恩人なのに変わりはない。では兄だろうか?私は本当にそれを望んでいるのだろうか?私はブチャラティに何を求めているのだろうか?
「重くないのか?」
「え?何が?」
「ナランチャだよ、ずっと寄りかかられてる」
指摘され、「ああ、」と答える。
一度立ち上がった時には背凭れに預けたが、戻ってくるとナランチャはまた名前の肩に頬を寄せた。たぶん温もりを求めてのことだろう。反射的な行動が微笑ましい。
「ぜんぜん。むしろずっとこうしていたいくらい」
「……ふうん?」
ブチャラティは読めない表情で意味ありげに呟いた。そして名前に歩み寄ったかと思えば、その隣に腰を下ろす。つまるところ名前はナランチャとブチャラティに挟まれた格好というわけだ。
「ブチャラティ?」どうしたの、と問うより早く、今度は右肩が重くなる。首を捻ってみても視界に広がるのは絹のような黒髪だけ。頬を擽るのはナランチャとはまた違う質感で、名前は混乱する。
──どうしてブチャラティが私の肩に寄りかかっているのかしら?
でも名前は口を噤んだ。顔を上げたブチャラティと目が合ったからだ。灰色がかった青色の瞳。それに見つめられると体中の機能が停止する。思考も呼吸も、何もかも。唯一動いているのは心臓で、それだって耳に煩いくらい。世界は急速に狭まり、見えるのはブチャラティだけだった。
感覚のすべてが暴走していた。でもだからといって嫌なわけでもなかった。むしろどこか懐かしいとさえ思った。あれはそう、昔見た星空。砂漠の真ん中に降る輝きを名前はブチャラティの目の中に見た。徐々に大きくなっていく、その瞳の中に。
「……どうして?」
感触は残らなかった。熱の残滓すらも、唇には。夢のように過ぎ去り、それから名前はゆっくりと口を開いた。訊ねる声はささやかで、吐息に紛れてしまいそうなほどだった。
ブチャラティは少し困ったようだった。「わからない」オレにも、どうしてだか。
「だが後悔はない。……お前には悪いが」
名前はそれを聞きながら不思議な気持ちになっていた。
ブチャラティにもわからないことはあるのね、とどこか遠くの意識が思う。それが嬉しいとも。『わからないのは私だけじゃなかったんだ』と安心した。
「それじゃあ教えてね。いつか、あなたがそれを理解した時に」
「わかった、約束する」
真面目な顔で頷くブチャラティの後ろにはヤドリギでできた飾りがあった。
ブチャラティは気づいているのだろうか?
『まさか』と思い直しつつ、でも心のうちでまでは否定できない。
──そうであったらいいという願いまでは。