ブチャラティ√【依存end】


ブチャラティルートが原作通りに終わったら。
完結後設定。





 ──揺れるのは舟か、揺りかごか。揺蕩うのはこの身か、世界か。夢見ているのは己か、……それとも?

「……眠ってしまったの?」

 声がした。鈴を転がすような、柏手を打つような。夢を覚ます音がした。
 夢は泡沫のようだった。自分を覗き込む目と視線を交わすと、途端に弾けて消えていった。
 けれど意識は未だ混濁。泳ぐような心地。ここがどこで、いつなのか。目の前にいるのは、──そうだ、名前だ。どうしてそんなことすら忘れていたのだろう。忘れて?いや、そんなことあるはずがない。だってここにいるのは彼女以外にないのだから──。

「あぁ、起こしてしまったのね、ごめんなさい」

「いや、いいんだ……」

 答える声すら覚束ない。はて、いったいこの身に何があったのか。考えながら、ブチャラティは茫洋とした目を周囲に走らせた。
 室内には彼が今腰掛けているソファの他に、テーブルやテレビがあった。置時計があって、花瓶には薔薇の花が生けられていた。
 見覚えのある景色だ、と思った。とても大切な場所だ。そう思うのに、初めて見るような気さえした。既視感ではない。その逆で、知っているのに知らないようだった。ともかく、得体の知れない。もどかしさや焦燥感がブチャラティの中には存在していた。

「オレは、いったい何を……」

「疲れているのね、きっと。休んでいていいのよ、もう何も心配することはないんだから」

 ブチャラティは頭を押さえた。
 その耳に落ちるのは酷く甘ったるい声音。もう何も心配することはない。それはブチャラティが長い間求めていたことだった。そう聞かされて、途方もない安堵を覚えた。
 ブチャラティは顔を上げた。「名前、」呼ぶと、目の前の娘はパッと顔を輝かせた。そうすると真の少女のようだった。物思わしげに落ちていた影が晴れ、薄紅の唇が華やいだ。

「何も心配することはないというのは……本当か?」

 聞きたいことは他にいくらでもあった。例えば……いや、なんだったろう?気がかりがあった、そのはずだ。だが不思議と思い出せない。喉よりもずっと下の方。胸の辺りに靄が広がっている。それは果たしてなんといっただろうか?
 だというのにブチャラティの口から零れ出たのはそんな一言。ただそれだけを訊ねた。けれど本当に必要なのはそれだけであるようにも思われた。たぶん、それさえわかればいいのだ。他のことなどどうだって構わない。そう、この身すらも。
 そして名前はブチャラティの問いに是と微笑んだ。

「ええ、なにも。すべてが終わったのよ、ブチャラティ。あなたが気にすることは何一つとしてないの。全部、私たちの外側にあるのよ」

「そうか、」

 ブチャラティは顎を引いた。そうか、「それなら、いい」──言うと、名前は一層笑みを深めた。頑是ない少女のように無邪気で、それが故に脆く、儚い。それはそう、──この夢のように。

「……隣に座っても?」

「あぁ、いいぞ」

 問う声には何故か緊張があった。不安に揺らぐ瞳。それがブチャラティの頷きによって霧散するのがまたいとけない。喜びを露にする顔。隠すことのない思慕の念に、ブチャラティもまた笑った。
 多くのことがその身からは喪われていた。けれど恐らく、と思考する。恐らく、この感情は。穏やかで温かなこの感情は、きっと愛おしいというのだろう、と。
 名前は物音ひとつ立てずにブチャラティの横へと身を沈めた。そしてその肩にことりと頭を預け、しなやかな指先はブチャラティのそれに絡まった。

「……冷たいわね」

「そうか?」

 名前はどこか虚ろな眼差しをしていた。手の届かない彼岸を見つめるかのような眼差しだった。諦念に倦みながら、しかし相反するものも抱えている瞳だった。
 ブチャラティはその手を握り返した。自身のそれは彼女曰く冷たいらしい。だが彼女の膚は生きていた。生きているものにしか与えられない、ごく自然的な温かさ。温もりに、ブチャラティは目を細めた。

「お前は温かいな」

 言うと、名前は寂しげに笑った。──どうしてだろうか?わからないのが、歯痒い。歯痒くてたまらない。というのに、適切な語が見つからない。
 結局迷い迷い、ブチャラティは彼女を抱き締めた。抱き締め、子供にするみたいにその頭を撫でた。
 水が流れるように艶やかな髪だった。黄金の色。太陽の色。過ぎ去った、春の色。郷愁の念が湧いた。懐かしさと共に、酷く切ない想いもまた胸のうちにはあった。

「ずっと、」

「ん?」

「ずっと、こうしていたかったの」

 名前は独りごちるように囁いた。夢だったの、こうして、なんでもない日々を過ごすのが。きっとそれが私の願いで、あなたへの望みだったの──そう、彼女の声は淡々と言葉を紡いだ。空虚に、彼岸にでも語りかけるように。

「叶えられたじゃないか」

「そうかしら」

「そうだろう、だって……」

 ブチャラティは言いかけて、自分でもわからぬうちに言葉を呑み込んでいた。
 室内には静寂があった。けれどそれはブチャラティの知るのとは少しだけ違っていた。ブチャラティが知る静寂は、その中にも生命の息吹が感じられた。息遣いだとか気配だとか、自分以外の何かがそこには存在していた。
 けれど、今。この中に流れるのはもっと澄んだものだった。空気は濾過され、残されたのは非現実感。指先をすり抜けていく残滓。音はひとつもなく、時間すらも停滞しているようだった。生の予感は残らず摘み取られ、ある種の死がこの小さな箱庭に流れていた。

「……また、お前の作ったご飯が食べたいな。例えば……そうだな、カンネッローニはどうだ?前にも言ったかもしれんが、あれは懐かしい味がした……」

 沈黙が気遣わしく、言葉を重ねる。しかしそれすらもやはり空虚。なんともいえぬ虚しさばかりが胸に降り積もる。

「……そうね、それは素敵なお願いね」

 顔を上げた名前。その目は濡れ、睫毛は朝露に煙る草花のようだった。浮かんだ微笑はぎこちなく、触れたら割れてしまいそうだった。

「でもそれは叶えられない願いなんだわ──永遠に」

 そしてそう続けられた声は、啜り泣くように震えていた。









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ゾンビ化したブチャラティを無理矢理亀の中で延命させてるみたいな話。