ナランチャ√【海の話】
原作後数年後設定。付き合ってる。
等間隔に並んだパラソルと、砂浜の上で日光浴する人々。そうしたものの間を縫って、ナランチャは駆けていく。
「はやくはやく!ほら名前ってば、」
「ま、待って……っ」
照りつける日差しは鋭く、乾いた風は降り注ぐ矢のごとく。手を引かれるがまま砂浜を蹴るが、既に息も絶え絶え。ともすれば飛ばされてしまいそうな帽子を押さえるのがやっと。日に焼けた砂の熱さすらも今の名前にはわからなかった。
季節は夏、バカンスのシーズン。砂浜は観光客で溢れ、賑わいは目に痛いほど。ついでに言えば耳だって痛い。歓声だとか談笑だとか、そういったものも集まり、過ぎれば毒になる。
「……っ、」
──だが、そうしたものを差し引いても、飛び込んだ海の冷たさ、心地よさは何に例えようもない。
勢いよく身を投じた先、爪先から体の芯にまで巡り始める海の感触。口端に残った塩辛い水滴さえも甘美。名前は濡れた頬を拭い、思いきり声を上げて笑った。
「……っ、はぁ〜〜……きっもちいィ〜〜っ!」
そしてナランチャは。名前と手を繋いだままの彼は、満面の笑みを浮かべてその手を引いた。
「もっと先行こうぜ」
「ええー……、それなら帽子、置いてこればよかったわ」
「なんだよ、嫌なのかよ」
途端にむくれる顔。拗ねて尖る唇はつつくと弾かれるほどに弾力がある。触っているとクセになりそう。そんなことを思いながら、名前は「まさか!」と笑う。
「あなたとならなんだっていいわ、ね?」
宥めるように口づけをひとつ、ふたつ。目許に、頬に落とすと、唇から漏れるのはむずがるような笑い声。
「くすぐったいって、」
身をよじり、逃げようとする姿勢。そういうのを見ると追いかけたくなるのは人間が野生を忘れていないということだろうか。
ともかく「行こう」とナランチャは名前の腕に手を回す。そうして後ろ向きに進んでいっても不安はない。何せここは海。ビーチにサメが出るのは残念ながら映画だけの話。ここには平穏があって、安寧に満ちていた。そうしたものしかこの場所には存在していなかった。
少し進むと岩場があって、その頃にはもうとても足なんかつけられない深さになっていた。
名前は帽子を置いて、首筋に手を這わせた。伝う汗が鬱陶しい。そうしていると、ナランチャに「潜れば気持ちいいのに」と言われた。
「でも髪が濡れるじゃない」
「海ってそういうもんだろ?」
「そうだけどそうじゃないの」
ナランチャは『わけがわからない』って顔で首を傾げた。
そんな彼はすっかり海の人。ヒヤシンスの髪は瑞々しく膚に張りつき、彼を美しく装っていた。今の彼には清らかさだけでない、花の蜜のようなものが漂っていた。いつもより大人びた面立ちだった。
──ちょっぴりドキッとしたのは内緒だ。
名前は咳払いをして、ナランチャの額を小突いた。なんとなく、気恥ずかしい感じがした。そう、本当に……なんとなく。とりたてて深い理由はない、はずだ。
「どんな時だってちゃんとしたところを見せたいものよ、そういうものなの、私たちって」
だから名前は殊更歳上っぽく、物を教える風にしてナランチャに語って聞かせた。訳知り顔を作っていた。内心を押し隠して余裕ぶっていた。そのつもりだった。
しかしナランチャは「ふーん」と興味なさげに呟くと、「でもさ、」と距離を詰めた。名前との距離。人一人分くらいの隔たり。海溝をあっさりと乗り越えて、手を取って、──覗き込む。
「名前ならどうしてたってきれいだって思うけどな」
「……っ、」
──不意打ちだ。
そういうのはよくない。よくないと思う。
名前は息を呑んだ。意味もなく口を開けたり閉じたりした。「魚みたい」と笑われるのだってどうでもいい。いや、その落差が逆に『効く』。
無邪気な子供の面と、先刻見せた大人びた表情。目を逸らせない、澄み渡る眼差し。睫毛が深い影を落とす目許。笑みを消した口許は真剣そのもの。だからその唇が紡ぎ出す言葉だって疑いようがない。世界にふたつとない美味なる旋律。
「そ……ういうことを、急に言うのはよくないと思います」
あまりに眩しくて、目眩がした。それは真夏の太陽のせいだけではなかった。それだけだったならこんなに胸が震えることもなかった。悪いのは全部目の前の彼だ。
「なんだよ、……さっきのはウソだった?」
「う、嘘じゃない!けど、ぉ、お手柔らかに……お願いします……」
名前は顔を覆った。指先が燃えるようだった。海水も全部干上がるんじゃないかとさえ思った。それくらいに顔が熱い。今卵を乗せたらこんがりいい焼き色がつきそうだ。
ナランチャはまた笑って、でも彼を睨むのにも全然力が入らなかった。名前はもう白旗を上げていた。だから彼に手を引かれても、もう何も言えなかった。
「ほら、思い切って潜ってみようぜ」
そう、誘われたって。
取り繕うためだからと言って拒絶するわけにもいかず。それに……きれいだと言われて気分がいいのも事実で。結った後ろ髪を気にしながら、しかし名前は導かれるがまま。
「せーの、」
水音がした。すぐそば、耳許で。或いは耳の奥で。弾けて、気泡が上っていくのが視界の隅に見えた。
名前は薄目で辺りを窺った。腕はまだ伸ばしたまま、ナランチャに繋がっているはずの方へと目を向けた。
──と。
「…………っ!?」
名前は勢いよく海面へ顔を出した。そう長いこと入っていたわけでもないのに、頭がくらくらした。水滴がぱたぱたと流れ落ち、唇を伝った。
──そんな些細な刺激にすら、先ほどの感触を思い出して。
「い、いま……」
「うん、……えへへ」
遅れて顔を出したナランチャは悪戯っぽく笑って頭を掻いた。その仕草はいたいけな少年のよう。でも今の奇襲はそんな可愛いものではない。
「も、もう、海でなんてよしてよ。しょっぱかったでしょ?」
ちゃんとしていたいのは何も格好だけではない。夢見がちと言われようが、名前としては雰囲気というものを大切にしたかった。海水味のキスなんて全然『美しくない』。ファーストキスはレモンの味だと相場が決まっている。そう名前は信じていた。
だから名前にとっては切実な問い。しかしナランチャは「え?そうだった?」と眉を寄せる。
「……不味くはなかった?」
そう恐る恐る訊ねても、「ぜんぜん」と逆に不思議そうにされる始末。ほっとしたやら肩透かしだったやらで名前はなんともいえない表情を浮かべた。
「なんで急に……」
「……したくなったから」
え、と思う間もなく握られる手。誓うようなそれと、真剣な眼差しに引き込まれる。
深い色の瞳。濡れているのは海水のせいだろうか。それだけなのだろうか。それだけでこんな、燃えるような目ができるのか。
──そうではないことを名前は知っていた。
だって、名前もそうだった。二人の間にあるのは同じ感情で、隔たりなんかなくて、溶け合っているのがわかった。だから名前には彼の言うことが理解できた。『したくなったから』その言葉の意味を。衝動を。今度は名前が受け入れていた。
「……やっぱりしょっぱいじゃない」
触れて、離れて。その間は一秒にも満たない。一瞬、刹那。でもその瞬間は時が止まったようだった。あらゆるもの、押し寄せる波音だとか人々の気配だとか、それこそ焼けつく日差しだとか。そうしたものまでもが名前の外側にあって、静けさだけが存在していた。それはあまりに穏やかな衝動だった。
名前が眉を寄せると、ナランチャは笑った。だから名前もそのうちに頬を緩めていた。
しょっぱかった。レモン味とはほど遠い。ロマンの欠片もない。きれいな思い出とはとても言えなかった。でも悪い気はしなかった。それは彼とじゃなきゃこんなことを知る日も来なかったろうと理解していたからだった。それで十分だった。
「あぁ、もう。すっかり全身濡れちゃった」
「でもやっぱ言った通りだった」
「何が?」
「……ちゃんとしてなくても名前はきれいだよ、って話」
名前は自分より大きな手を握り返した。いつの間にか一回りほどの差がついてしまった。そうしたことに愛おしさを見つけ、名前は目を細めた。
「そう言うあなたもいつだってかっこいいわ」
少年のような彼も、大人びた眼差しの彼も。どちらもかけがえがなく、愛おしいものだった。