降谷零と7月7日

 喫茶ポアロの店内に新たな植物が付け足された。それは名前の背よりもずっと高くて、細長い葉を方々に伸ばしている。どこかで見たような、見覚えのある植物。どこで見たのだったか。そも、なんて名前だったかしら。その考えを見透かしたように、零が耳打ちしてくれた。ーーアレは、笹の葉だよ。その言葉でようよう名前も思い出した。そうだった。見たのはテレビ越しで、日本のお祭りに関してだった。確かその名前はーー

「もうすぐ七夕だなんて、時間が過ぎるのはあっという間ですね」

 そう、七夕。七夕祭りだ。1年に1度、星に願いを預ける日。テレビで散々言っていた。今年の7月7日は晴れるのか。そんなことを重大事件みたいに扱ってるのが名前には不思議でしようがない。曇りだろうが雨だろうが星は変わらずそこにあるのだから、見えなくったって願いをかけるのは自由だろう。だいたいそんなのを理由に叶えられないと言うならその神様はよっぽど器が小さいのだ。そんな神様をありがたがる必要などない。
 そんなわけで、名前の頭からはすっぽり抜け落ちていたのだけれど。

「名前ちゃんもお願い事書いたらどう?」

 続けて、梓がそう言うものだからーー名前は反射的に短冊を受け取ってしまった。梓を見れば、にこにこと朗らかな笑顔が顔を輝かせている。こういう顔に、こういう人に、名前はたいそう弱い。

「そう、ですね。考えてみます」

「うんうん、ゆっくり考えるといいよ」

 と、言われましても。
 少しの信仰心もない名前が願いだけ叶えてくれと望むのは罰当たりがすぎるのではないだろうか。それ以前に願い事を急に求められても名前にはとんと思いつかない。なりたい自分、やりたいこと。そういうのはいくらでも浮かぶが、神頼みの範疇かといえばそうでもない。
 あんまりに悩んでいるからか。梓は笹を指差した。正確には、そこにぶら下がる短冊の群れを。

「思いつかないんなら他の人のを参考にしたらどう?」

 安室さんも書いたのよ、見ちゃダメって言うから私も内容は知らないけどーー梓に教えられ、名前の好奇心は一気に高まった。安室さんも書いたのよ。それだけで薄かった関心がぐうんと高まるんだから、名前は至極単純な作りをしている。安室さん。安室透。降谷零。それは名前にとって魔法の言葉だった。

「でも見たらいけないんでしょう」

 サンドイッチを作る零を窺うと、軽やかなウインクを返された。「ダメだなんて言わないよ」名前にはね。そんな甘ったるい舌の根も乾かぬ内に、こうつけ足した。

「僕が書いたのを当てられるんならね」

 零は、ときどき意地悪だ。
 短冊には記名の義務がない。名を書く者も書かない者もいる。零は後者を選んだらしい。
 だから、つまり、名前が彼の短冊を見つけるには筆跡と内容だけが手がかりになるわけだ。

「わたし、探偵じゃないのに」

 なのにこの仕打ち!名前は探偵でもなければ筆跡鑑定人でもないというのに。
 頬を膨らませながらも、名前は席を立った。笹自体はうんと大きいが当日まで1週間もあるためか、まだ短冊は名前にも届く範囲にしかぶら下がっていない。それをひとつひとつ観察していく。まず正面からまじまじと見て、それから斜めにしたり横から見たり。あれやこれやと試しながら目当てのものを探していく。これはもう意地だ。売られた喧嘩ーーではないが、零が煽ったのは事実だし、それに応えぬわけにもいくまい。というか、応えずにはいられない。飼い犬としての矜持である。

「名前ちゃん頑張って!」

 梓の声援に励まされ悩むこと数分。存外、それは早く見つかった。
 だって、それはあまりにも。

 ーーこの国が平和でありますように。皆が、幸福でありますように。

 降谷零らしいーーと思うと同時に、名前は切なくなった。かなしくて、さみしい。だって、その『皆』に降谷零本人は含まれていないんだから。最初から勘定に入れていないんだから。だから、名前は無性に泣きたくなった。泣きたくなったし、腹も立った。降谷零が幸せでなきゃ、名前の人生になんの価値もありはしないのに。

「名前ちゃん?」

 いつものカウンター席に戻ると、梓にいぶかしまれた。零は客に呼ばれ注文を取りに行っている。やるなら今だ。

「梓さん、わたし、決めました」

 願い事。宣言すると、何も知らないはずなのに何もかも了解している風に、梓は微笑んだ。「よかった」と。
 だから名前は彼女に頼んだ。書きなぐったばかりの短冊をこっそり吊るすのを。それから、零への言伝てを。

「今度は私の短冊を見つけてみて」

 それはちょっとした意趣返し。分からず屋で頑固者の降谷零への仕返し。
 梓は快く引き受けてくれた。くすくす笑って、「じゃあその代わり名前ちゃんにお願いしようかな」と言った。

「どうなったか今度教えてね」

 悪戯っぽい光が瞬く目に、名前は頷いた。そのくらい安いものだ。



 それからどうなったかはーー語るべくもないだろう。探偵、安室透。彼に解けない謎はないのだから。名前のちっぽけな謎かけなんか彼には朝飯前、準備運動にもなりやしなかったに違いない。だからこれは余談である。
 七夕までの1週間、零はポアロでのことを掘り返さなかった。そして、当日。

「飾るのは今日いっぱいだから分けてもらってきちゃった」

 ポアロから帰宅した零の手には、腕くらいの長さの笹があった。店で飾ってたものから切り取ってきたのだという。「せっかくですしご自宅でもやってみてはどうですか」と梓に勧められたらしい。なんというか、彼女は本当にすごい。

「さ、名前も書いて」

 名前に短冊を押しつけると、零はさっさと自分のに取りかかった。さらさらとしたためると、小さな笹に吊るしてしまう。でも名前の手は進まない。だって名前の願いはもう書いてしまったのだもの。

 ーーあなたが幸せでありますように。

 それ以外に、それ以上の願いなんてーー名前にはない。

「ポアロで書いたのに」

 どうして零は梓が言うようにしたのだろう。
 そう不思議がると、零は困ったように笑った。「俺もそんなつもりはなかったんだけど」ーーでも、名前の願い事を見たから。
 その言葉を聞いて、一瞬、胸が跳ねた。どきりとした。やましいことはないのだけれど、悪戯が見つかった子供の気分だった。

「それは、どういう」

 声が心臓と同期する。呼応する。同じように、震える。
 そんな名前の眼前に、零は自分が書いたのを差し出した。風に揺れる短冊。翻るそれを、踊る文字列を、一文字一文字、頭が理解していく。

 ーー名前の好き嫌いがなくなりますように。

「……なにこれ」

 そう問うた名前の顔はずいぶんと間抜けなものだったろう。反対に、零はとてもきれいな目をーー透き通った面持ちをしていた。

「これが俺の願いだよ」

 ーー降谷零としての、願いだ。
 それは名前が望んでいたものだった。望んでいて、けれどどこかで諦めていた願いだった。

「これが零の願いなの」

「……ああ」

 なぜだかどこか照れたように微笑む零。そうするとすこし幼げに見える。子どもみたいな表情。「こんなことくらいしか、俺には思いつかなくて」恥ずかしげな顔をしているのに、それすら名前には美しく映った。

「ほら、名前って好き嫌い激しいだろ?野菜とか苦いから嫌だってよく言うし」

 ……たしかに。
 名前は野菜が苦手だ。ニンジンとかブロッコリーとか、そういうのはまだ大丈夫だけれど、ネギとかはあまり好きではない。ついついよけてしまう。
 でも。

「零が作ったのなら食べれるもの」

 それは事実だ。零が作ったものならなんだって食べる。食べられる。だって、零の手から生み出されたものだもの。

「けどいつも俺のを食べられるわけじゃないだろ」

「それは、」

 言葉に詰まる。
 降谷零は多忙だ。名前の生活と時間が合わない日もままある。いつもいつも彼の手料理にありつけるわけではない。

「そう言うんなら零はもっと休めばいいのに」

 つい、口から抗議じみた言葉が溢れる。そんなの零にしたら迷惑だろうに。
 けれど零の表情は柔らかいままだ。

「なら、名前が願ってくれよ」

 促され、ペンをとる。零の視線に背中を押され、名前は手を進めた。

 ーー零があまり無理をしませんように。ちゃんと休暇をとりますように。

 名前は書いたものを零の隣に結んだ。けれど、その間にも彼はまた新たな短冊を作っていた。
 そんなに願いごとがあるの、と名前は驚いた。降谷零はそういうのから遠いとこにあるような気がしていたからだ。でもそこに書いてあるのを見て、名前はつい噴き出してしまった。

「なにそれ」

「『名前がもっと素直になりますように』……だって、名前はあんまり自分のこと話さないじゃないか」

「そうかしら」

「そうだよ」

 名前の額が弾かれる。そのまま零の指は下に降りる。ぐいと引っ張られる頬。

「俺ばっかり、恥ずかしいところを見られてる気がする」

 拗ねたような顔。あまり見ない表情に、名前は笑った。

「じゃあたくさんお話できるように零もたくさんお休みとってね」

 この願いはきっとすぐには叶わない。零も名前も今を生きるので精一杯だ。けれどまぁ……なんでだろう、それでいいと思えた。たぶん楽しみは先にあった方が楽しいとかそんな簡単な理由だ。
 先の未来で。ずっと先の未来で、この幸せのための人生であったと思える日が来ますように。その幸せのまま終焉の向こうへ旅立てますように。
 七夕の夜、名前はそう願った。