Le paysage dans le cadre


 頬を、生温かいものが伝う。

「え……?」

 触れた、指。拭う先、ぬらりと光る赤色。
 ……赤色?

「アバッキオ……ッ!!」

 声がする。叫び声。焦燥を孕んだそれ。フーゴの、声。

 そして、それから──

「あ、あぁ……」

 目の前で揺らぐ、影。倒れ込む体。岩場に打ちつけられる体。花開くように弾けた赤色。名前の指にあるのと同じ、色。

「アバッキオッ!!」

 地を蹴る。ほんの数メートル先、永遠ほどの距離。横たわる体の前に跪く。
 血の気を失った顔。青ざめた膚と虚ろな目。焦点は遥か彼方。見つめても交わらない。遠く、空の果てに溶けていく。
 その胸元に空いているのは──手のひらほどの空白。ちょうど握り拳ひとつ分。名前は唇を噛んで、意識を集中させた。脳裏を過る記憶を振り払い、ただ目の前の傷を巻き戻すことだけを考えた。

「クソ……ッ!いったいどこに……ッ」

 フーゴは辺りに視線を走らせた。
 コスタ・スメラルダ──エメラルド海岸沿いにある入り江、カーラ・ディ・ヴォルペでトリッシュの母は若かりし頃のボスと出会ったらしい。
 そこから程近い町、オルビアはイタリア本土からは直線距離にすると最も近く、サルディニアの各地へ移動するにも大変便がよかった。
 故に──だろうか。ヴァカンスのシーズンには二月ほども早いというのに、海岸の近くには幾つもの人影があった。景色を楽しむ家族連れ。サッカーをする少年たち。その誰もがこちらには注意を払っていないように思われた。その誰もが疑わしく、誰もが一般人のようだった。
 フーゴはスタンドを出そうとして、けれどすぐに悔しげに舌を打った。ここでは無関係の者を巻き込む危険がある。たぶん、そういうのも考慮に入れて敵は『今』襲ってきたのだ。戦闘能力のないアバッキオと名前、そして戦うのに制限のあるフーゴ。その三人しかいないところを見計らって、敵はムーディ・ブルースを止めにきたのだ。

「早くジョルノたちを呼ばなくては……、いやッ、ここを離れるのが先だ!」

 名前、と。肩に手がかかる。フーゴの手。冷えきった指先。それは選択を促すものだった。ここを去るか、否か。
 名前は迷うことなく首を振った。「三分……ううん、一分でいい」時間がほしかった。諦められるはずもなかった。アバッキオ。見下ろす顔。紫がかった唇。けれど、それはまだ呼吸している。か細い息が空気を震わしている。心臓は脈打ち、胸は微かに上下している。
 生きているのだ、彼は。

 ──ならば、道はひとつしかない。

「前にも似たようなことがあったの。おんなじような傷、あの時は間に合わなかったから。……今度は絶対に間違えない」

 それは自分に向けたものだった。できると言い聞かせるため、スタンド能力を最大限引き出すため。名前は呟き、噛み締めた。

「……大丈夫、」

 その耳に、声が落ちる。大丈夫。それは静かな声であったけれど、しかし力強いものでもあった。

「あなたならできます。大丈夫、自分を信じて」

 フーゴは変わらず辺りを警戒していた。名前もまた顔を上げることをしなかった。二人の視線が交わることは決してなかった。
 しかし、いや──だからこそ伝わるものがある。
 
「……ありがとう」

 フーゴはスタンドを発現させたまま、そしてその場から立ち去ることもなかった。
 それは何より雄弁な信頼の証。名前を信じていないのだったら、彼は自身の言葉通りの道を選んだろう。今すぐこの場を立ち去る、それが一番安全な道だった。
 けれどフーゴはそうしなかった。誰より聡明で堅実な彼が!その彼が名前の賭けに乗ってくれたのだ。

 だから──応えなくてはならない。

「私、いつだってその言葉に助けられてきたんだわ」

 名前は力を籠めた。スタンドへ、物心ついた時から傍らにあった存在へ。かつてはその能力を恨んだこともあった。どうして救うことができなかったのかと己を責めた。後悔ばかりの人生だった。過去ばかりを振り返ってきた。

 ──でも、それはもうおしまい。

「…………ッ、」

「アバッキオ……ッ!」

 微かに戦慄く指先。そこから血は巡り、喉元へ、そして最後には瞼へ、と。震え、開かれた眼。そこに光が灯る。獅子の色、黄金の色に。輝き、瞬き、──像を結ぶ。そう、今この瞬間も身を乗り出し覗き込む名前へと。見つめ、唇がちいさ動いた。

「やかま、しいぞ……、お前……」

 顰めっ面。それは見慣れたもの。いつだって傍らにあったもの。──これから先も、失いがたいもの。

「だって、全然目覚めないから。それに……約束したでしょ?今度は私が守ってあげるって、」

「あぁ……、そう、だったな……」

 交わした軽口はほんの数日前のこと。なのにアバッキオはとても遠くを見るように目を馳せた。
 ──その心はいったいどこにあるのだろう?
 そう思ったが、その疑問はすぐに霧散した。なんだっていい、今ここに彼はいる。それだけが何より重要で、何より大切なことだった。

「悪い、手間かけさせたな……」

「、……いえ、」

 フーゴが助け起こそうとするのを、アバッキオは手で制した。その必要はない。無言のそれに、フーゴは静かに顎を引いた。彼らが多くを語ることはなかった。名前のように感極まって声を上擦らせることも、喜びに破顔することも。それでもフーゴの目は確かに和らいでいて、だからこそ名前は余計に嬉しくなった。彼の覚悟に報いることができた。よかった、と心から安堵した。

「動けるようならすぐに撤退しましょう。誰だかわからないが……いや、恐らくまず間違いなくボスでしょうが……ともかくこちらの状況はどこかから見ているはずです」

「そうね、きっとすぐに次の手を打ってくるわ……。そしたら今度こそ本当に、」

 そこまで言って名前は口を噤んだ。──たぶん、次に狙われるのは自分だ。そう理解していた。
 ボスのスタンドは時間を吹き飛ばす。そして近距離パワー型。先程のことを踏まえると、一度に飛ばせる時間はそう長くない。だからまずアバッキオだけを狙った。でなければ近くにいた名前もフーゴも今頃はアバッキオと一緒になって地面に倒れていたろう。
 ボスが一瞬で片をつけることができるのは一人だけ。そして現状をボスが見ていたのなら──次は絶対に外さない。名前を殺し、それからアバッキオを始末する。順序はそう決められた。きっと、だから──

「残念だけど、『再生』は……」

「いや、」

 ここまで来て手掛かりひとつ見つけられなかったというのは大きな痛手だ。だが命には代えがたい。ブチャラティもそう考えるだろう。
 そう思い、名前もフーゴもアバッキオを見た。なんの疑いもなく、彼も受け入れるだろうと思っていた。
 しかしアバッキオは頷かなかった。視線を岩場に走らせ、もう一度、「諦めることはない」と否定した。力強い声だった。それはもう、致命傷を受けたばかりとは思えないほどに。希望の光を宿して、獅子の瞳は色鮮やかに輝いた。

「だがここを退くのは賛成だ。……早いとこ移動しよう。ブチャラティたちはまだか?」

 彼はいったい何を得たのか。
 名前とフーゴは疑問に顔を見合わせた。しかし詰問することはなかった。アバッキオの言葉には説得力があった。彼の言葉は正しいのだと、理屈抜きに感じ取っていたのだった。