斃れし勇者、いま静かに


 亀の中を支配するのは、期待と不安がない交ぜになった独特の緊張感。パソコンを操作するのはジョルノで、ブチャラティは厳しい表情のままそれを見守っていた。

「どこかを探すんだ……!!必ずあるッ!この男の『過去』がッ!」

 アバッキオは既に『再生』を終えていた。彼は薄れゆく意識の中でもスタンドを解除しなかったのだ。だから見つけ出すことができた。十五年前、トリッシュの母親を写真に収めた男の姿を。
 だがしかし捜索は困難を極めた。国際警察やサルディニア島の記録、どんな資料にも男の指紋さえ残されていなかった。男はひどく慎重で、だからこそそんなことができるのは『ボス』以外にいないだろうと名前は思った。
 組織のボス。ある時から南イタリアを中心に勢力を伸ばしてきた男。それは噂にしか過ぎず、一種の幻想のようであった。その姿は陽炎であり、手を伸ばしても届かない。そう、SPW財団の力をもってしても、だ。かの財団の捜査員ですらボスの消息は掴めなかった。ただ彼の通った道には、犯罪の根が足跡のように伸びていた。
 それは途方もない権力であり、無辜の民を犯罪へと巻き込む脅威であり、倒すべき悪である何よりの証明だった。

「……『死亡した者』の記録はどうでしょう?『指紋』は死後もとりあえず保管されるんです」

 ふと思いついたとジョルノが提案する。
 かつてのボス。ボスとなる前の青年時代。彼にだってそんな時はあったはずだ。ギャングとなる時にそれまでの自分を『殺し』、顔や名前を変えたとしても──『指紋』であるならば情報が残されているかもしれない。
 ジョルノはそう言ってブチャラティを見た。ブチャラティは強ばった顔のまま「やってみよう」と頷いた。どの道、他に術はない。名前にはどうすればいいのかさっぱりわからなかった。
 しかし結果は──沈黙。

「だめか……、ボスはやはり抜け目ない……、『指紋』からは追跡できない……!!」

「せっかくアバッキオが見つけてくれたのに……」

 呟いて、唇を噛む。
 悔しいのはきっとアバッキオの方だろう。彼の方がよほど悔しいはずだ。あんなに痛い思いをしたのに──それでもなお力を尽くしてくれたというのに──それでもなおボスには手が届かないなんて!
 名前はそっとアバッキオを窺い見た。どんな言葉をかけるべきか、或いはかけないでおくべきか。思いながら、隣で同じように画面を覗き込む彼を見やった。

「…………、」

 けれどアバッキオは何も言わなかった。
 その表情には静けさがあった。穏やかな静けさだけが彼の顔にはあって、だがしかし瞳だけは対照的に輝きを失っていなかった。彼は何かを理解したようだった。何か、大いなるものを。その存在を確信し、受け入れた人の顔をしていた。
 彼は視線に気づいたように名前を見た。目を移し、何事か口を開きかけた。
 彼は何かを言おうとしていた。名前にはそれが啓示だとかそういった厳かな──神聖なもののように思われた。そんな、予感があった。果てしない大空の端から端へと羽ばたく水鳥のようだった。夕暮れの地平線を駆ける者の、澄んだ眼差しをしていた。

『ソンナ事ハナイゾッ!君タチハ追跡ヲモウ……終エテイルッ!』

 しかしそれより早く響き渡るのは異質な声。機械を通した後の無機質な声が亀の中で響いた。
 名前は目を見開いた。見開いて、画面を凝視した。ジョルノも、ブチャラティもだった。亀の中にいる者すべて、語りかける声と変化していく画面に意識を奪われていた。

『待ッテイタゾッ!!君タチのヨウナ者ガ現レルノヲッ!!』

「逆探知されたぞッ!ジョルノ通話を切れッ!」

 一番最初に我に返ったのはブチャラティだった。彼は焦りを滲ませながらも決して冷静さを失わなかった。ジョルノを促し、ジョルノもまた彼の命令に従おうとした。
 ──その時だった。

『“ディアヴォロ”ヲ倒シタイノダロウ!!?ワタシハ味方ダッ!』

 男の──恐らくはそうなのだろう──声が響く。

「ディアヴォロ?」

「しっ!」

 聞き慣れない名だった。ディアヴォロ。それは悪魔を示すものだった。人名としては到底思いつかないそれを、しかし男は一人の人間を指す言葉として口にした。

『信ジテモライタイ……。ワタシノ方モ十五年間ヤツヲズット追ッテイル!』

「そいつはどうかな?」

 ブチャラティの顔から焦りは引いていた。彼は淡々と応じ、「通話を切れ」とジョルノに言った。
 けれどジョルノの指が今まさにキーボードを押そうとしたところ。それを察したように男は叫ぶ。

『ヤツノスタンド能力ハ“時ヲ飛バス事”ガデキルッ!!』

 その台詞に凍りつく。ブチャラティもジョルノもトリッシュも。
 名前は『どうして』という言葉を唇で溶かした。どうしてそんなことを知っているのだろう?──それを知っていて、生かされている者がいるとはとても思えない。
 けれど男の言葉は適当に言ったものではなかった。確信があった。そして名前には嘘だとも思えなかった。彼がボスの手の者だと──これが、罠であるとも。何故だか不思議な感覚だった。
 名前は男をずっと前から知っているような気がした。そう思えてならなかった。この男の言葉を信じるべきだと直感していた。
 ブチャラティはジョルノを見た。二人は無言のうちに言葉を交わした。そしてブチャラティは「話は聞こう」と男に答えた。信じるとはまだ言えなかった。様子を窺うべきだ──何か知ってる風な男から情報を引き出してやろう──二人はそう判断した。
 そして男はその求めに応じた。話は遡り、1978年へと。隕石により生まれたクレーター、そこを調査していた11人のうち、2名が原因不明の病にかかったこと。その治療の際、不可思議な現象が起こったこと。──スタンド能力を発現させる『矢』は、その場所から生まれたということを。

『この“矢”の秘められた力……“キング・クリムゾン”を倒すにはそれを利用するしかない……』

 ブチャラティはジョルノに視線を移した。トリッシュとアバッキオは二人を見守った。
 ──そのすべてが、名前にはどこか遠い情景だった。
 名前は喉を震わした。言葉にはならなかった。溜め息に似たか細い息だけが口許から立ち上った。
 ──知っている。私はこの話を知っている。
 どこで聞いたのか。──そんなの、明らかなことだ。名前にはその話を聞かせてくれた人の表情まで──憂慮に沈む瞳まで思い出すことができた。
 その間にも男は話を続けていた。『ローマに来るのだ』ローマのコロッセオに。『特に、』その後に続く言葉を名前はずっと前から知っていた。

『名前……君もそこにいるのだろう……?』

 あぁ、と名前は吐息を溢した。
 ずっと前から知っていた。ずっと前から──望んでいた。また、彼に名前を呼んでもらう日を。彼が生きているのだと、ずっとずっと信じていた。信じていたかった。信じなければならないと思っていた。

「あなたは……まさか……まさか……ッ!」

 その名を名前が口にすることはなかった。けれど男にはそれで十分だった。彼は何もかも諒解しているといった風だった。何かを答えるということもなかったけれど、一瞬の沈黙が肯定だった。名前には満足げに頷く男の顔さえ見ることができた。彼がどんな風に笑うのかも名前にはよくわかっていた。

 ──ポルナレフ、

 目許に涙がせり上がり、視界が潤んだ。「名前?」どういうことだとブチャラティが訊ねてくる。怪訝そうな顔。対してジョルノの方はすべて察した様子で表情を崩さなかった。

「ブチャラティ、私……、」

 名前は声を震わした。

「私、行くわ、一人ででも……。行かなくちゃ……、この人に会わなきゃいけないの」

 もう後悔したくない。そう祈りを込めてブチャラティに懇願した。どうか許してほしい。訴えかけると、ブチャラティは「……そうか、」と呟いた。

「そうか、それがお前の目的だったんだな」

「……ええ」

 名前は頷いた。頷く名前を見て、ブチャラティは唐突にすべてを理解したようだった。得心がいったという風に、静かな眼差しだった。

「わかった。……あんたを信じようッ!」

 前半は名前に、後半は男に向けてブチャラティは言った。力強い声だった。その声に名前はほっと息をついた。
 胸に手をやるとドクドクと脈打ってるのがわかった。不安を上回る期待があった。急く心を落ち着けさせる必要があった。
 名前は目を閉じた。──早く、会いたい。思い浮かべるのは懐かしい顔ぶれ。エジプトへの旅路。しかし胸に横たわるのは穏やかな郷愁で、かつてのような激しい悲しみはどこにも存在しなかった。