アバッキオの妹になる
耳慣れた声に呼び止められた──ような気がした。
「……ッ」
影を探し、振り返る。と、軽やかな音がひとつ。同時に目映い閃光が眼前で弾け、顔を顰めた。
「……名前、」
「えへへ、……怒らないでくださいよ、兄さん」
オレに向けられていたのは旧式のポラロイド。そしてそれを構えているのは妹の名前だった。
真昼の往来。観光客に混じってカメラを構えたこいつは事もあろうに勤務中のオレを呼び止め、しかもその姿をファインダーに収めたというわけだ。まったく、何を考えているのか。……何も考えていないんだろうな。頭を掻きながら笑う名前に悪びれた様子はない。
「……いてっ」
そんなだったからオレはその額を人差し指で小突いてやった。「邪魔すんじゃねぇよ」呆れから零れるのは溜め息。いったいどうしてこんなおバカに育ってしまったのか。せっかくの休日まで兄の尻を追っかけたがるなんて理解に苦しむ。
が、名前にとってはそんなオレの方が不可解な存在らしい。
「何言ってるんですか、兄さん」
ふんぞり返り、ふふんと笑うその姿。なんとなく腹が立つが、いちいち殴っていたらキリがない。続きを促すために沈黙を守る。
「私が撮りたいのは仕事中の兄さんなんです!だからこれはやむを得な……いたっ、痛いです!引っ張らないでください!頬っぺた伸びますって!ねぇ兄さん聞いてます!?」
……けれど聞いてすぐその選択を後悔した。
聞くほどのことじゃなかった。名前が考えていることなんてその程度。ぐにぐにと捏ねくり回される頬を見下ろして、オレは再び溜め息を吐いた。
手を離してやると名前はすぐに解放されたばかりの両頬を押さえた。別に取れやしないのに、その無事を確認してる我が妹はやはりどこかずれている。緩いというかネジが一本外れているというか……こんな調子でよく学校に通えているなと感心すらした。
「なら黙って撮ってりゃいいだろ」
「盗撮容認ですか?警察なのに……」
「……それとこれとは別だ」
「ふむふむなるほど」
我ながら屁理屈を言っているなと思わなくもない。し、盗撮されたらされたでその方が怒っていたようにも思う。たぶん、見つけたら衝動で写真を破り捨てていたろう。
だが名前がそういった点で反論することはなかった。わかったのかわかってないのか。よくわからないが、神妙な顔で頷いている。……けど、たぶん何も考えちゃいない。
名前は「確かに私も最初はそうしてたんですが……」と真面目な顔で言うと、
「でもやっぱり目線が欲しくなったので!あはは……ごめんなさい!!」
最後にはやっぱり笑って、でも今度は思いきり頭を下げた。その勢いが凄まじく、こっちの方が一歩引いてしまうくらいだ。
折り目正しく九十度。綺麗なお辞儀のお陰でオレから見えるのは名前の丸い頭だけ。流れる髪はオレと揃いの白銀。それを見ているとあれやこれや言っているのがバカバカしく……おかしくなってくる。
「……別に、そこまで怒っちゃいない。休憩中だったしな」
そう、ちょうど昼休みを貰ったところだったのだ。だからオレは『さて昼メシはどうするか』と通りの店を物色していた。そんなところを背後から呼び止められ──写真を撮られてここに至るというわけだ。だから実際のところ邪魔をされたと憤慨するほどのことではない。ただ名前に対してはいつもこんなノリだってだけ。名前もオレも気にしちゃいない。
事実名前はオレの許しにパッと顔を上げ、「やっぱりそうだったんですね!」と目を輝かせた。
「そんな気はしてたんです」
「どんな気だよ。ストーカーか?」
「違いますよ!相手が兄さんだからです!休憩中っぽい雰囲気だなーって思っただけですってば、」
休憩中っぽい雰囲気ってなんだ。なんでそんなことがわかるんだ。まさかオレは自分で思うよりずっと顔に出やすい質なのだろうか。
気にはなったが鏡で確かめるわけにもいかない。そんなわけでちらりとショーウィンドウを一瞥してみる。が、とりたてて異常はない。たぶんいつもの世迷いごとだろう。言った張本人の名前はもう興味を別に移している。
「お昼なら一緒しませんか?この間いいお店見つけたんです」
「嫌だよ、なんで昼までお前の世話しなきゃなんねぇんだ」
「もうそんな子供じゃないですよー」
名前は笑い、「あっ」と声を上げた。何事か。見ていると、名前はポラロイドから出てきた写真に目を落としていた。どうやら写真が出来上がったらしい。
「出てきましたよ!なかなかいい具合です」
「どれ、見せてみろ」
「はい、」
写真には間の抜けた顔の男が写っていた。銀の髪に黄金の瞳。よーく覚えのある顔だった。毎朝鏡で見ている顔だった。だがそれとは認めがたい表情でもあった。
「…………」
「ああっ!止めて!破らないで!!」
慌てふためいた名前は無我夢中といった顔でオレの手から写真を奪い取った。とんだ馬鹿力。こいつも警官を目指しているようだが、もしそうなったら特別注意を払わないと犯人まで病院送りにしてしまいそうだ。
名前は警戒心たっぷりにオレを見上げていた。野性動物さながらだった。たぶん、狼とかそういった類いの。
そんな名前を宥めるためにオレは「さっさと行くぞ」と声をかけた。
「え?」
「昼メシ、……食いに行くんだろ?」
「……はいっ!」
しかしこんなちっぽけなことでころりと表情を変えるところは飼い犬よりもよほど『それ』らしかった。大きく振られた尻尾まで見えるくらいだ。
「そういやいったいいつの間にそんなカメラ買ったんだ?」
駆け寄ってくる名前の胸元にぶら下がるのは大きくて黒い、古めかしいばかりのポラロイド。撮影時に上手く固定するためか、ストラップをつけて首に括っているが、鈍い色はその重たさを如実に表している。
……どうせならそんな不便なカメラじゃなくて最新式のを買ってやるというのに。なのに名前は大事そうにそれを抱え、「つい最近ですよ」と答えた。
「バイト代貯めてたんです。やっぱりこういうので撮った方が兄さんは映えるかなぁと思って」
「被写体限定しすぎだろ」
こいつの言うことはさっぱりわからない。こんな面白味のない男を写真に残してどうするというのか。わからない、が、楽しげな様子の名前を見ていると『まぁいいか』という気になってくるから不思議だ。
「だって制服姿の兄さんは世界一格好いいですから!」
見上げてくる名前の目には眩しいほどの煌めきが宿っていた。尊敬や憧憬。焦がれる色合い。純粋な、それ。
「……そうか」
オレは帽子を被り直した。
妹の期待は余りに真っ直ぐで、そのまま受け取るには些か座りが悪かった。そしてそれを悟られるのもまた罰の悪いものだった。
だがだからといってそれが嫌だとも思えなかった。まったく、忌々しいことに。今のオレにとっては旧式のポラロイドの方がずっと重たげに映っていた。
──そこでふと意識は浮上する。
最初に聞こえたのは雨音だった。酷い雨だった。窓ガラスを打ち据え、伝い落ちる雨。大いなる奔流に呑み込まれた気分だった。
オレはソファから身を起こした。爪先が蹴飛ばすのは空いた酒瓶。軽い音と重たい音が重なって床を転がった。それ以外には水音があるばかり。雨はシャワーどころか滝といってもいいような具合だった。
窓の向こうは夜の闇で外界はようとして知れぬ。だからこそ雨が劇場の幕のようにオレを取り囲んでいる錯覚に陥る。深い深い隔たり。オレとそれ以外。オレの手ではもう届かない世界。そうしたものを思い出していた。たぶん懐かしい夢を見ていたせいだろう。
今ごろ名前はどうしているだろうかと思った。『あの事件』以来、実家には帰っていない。もう顔も見たくないと激昂したのは父だった。母は泣いていた。名前は……どうだったのだろう?オレは妹の顔を最後まで見ることができなかった。
元気でやっているといいんだが、と思う。あいつもかつてのオレのように正義感でできていた。けれどオレよりもずっと器用だったし、世渡りも上手かった。名前ならオレと同じ轍は踏まないだろう。オレのようなどうしようもない人間とは違う。名前は良くできた妹だった。
「…………?」
その時、雨音に混じって呼び鈴が鳴った。玄関の音だった。訪問者を報せる音色だった。
オレは首を捻った。今晩は酷い嵐だ。そんな約束はない。もしもこれがフーゴなら事前に連絡を入れているだろう。急な仕事だろうとそうでなかろうと、ヤツはそういった性格だった。
じゃあブチャラティかと考えながらオレは玄関に向かった。何か厄介ごとでも発生したのだろうか?これでもし相手がなんかの勧誘だとかセールスだったらブッ飛ばしてやる。天気のせいか、オレの気分は最悪だった。
「……お久しぶりです、兄さん」
けれど違った。オレの予想は何もかも外れていた。オレの前に立っているのはつい先刻まで夢に見ていた顔だった。妹の、どこかぎこちない笑顔だった。
名前、とオレは口を動かした。掠れた声だった。雨に紛れて、それは地面に落ちていった。だが名前は頷いた。その髪は雨で張りつき、雫は膚を伝い落ちていった。
「なんで、」
名前は傘すら差していなかった。もしかするとどこかで飛ばされたのかもしれない。それくらいにすっかり濡れそぼり、なのにそんなことちっとも気に止めてやしなかった。
名前は「あはは」と頭を掻いた。懐かしい仕草だった。困った時の名前がよく見せるそれだった。
そして名前は笑いながら、
「私、勘当されちゃいまして」
と言い放った。耳を疑う発言だった。少なくともオレにとってはそうだ。だが名前は決まり悪げに、しかし少しの悲しさも見せずに笑っていた。その方がよっぽど信じられなかった。
「ええっとその……なのでしばらくお世話になってもいいですか?」
「あ、あぁ……」
オレの頭を占めるのは疑問ばかり。であったがためにそのひとつとして言葉にならない。
オレは呆然としたまま名前を家に上げた。まだ夢を見ている気分だった。だが廊下に点々と落ちていく雨粒や濡れた足跡はどうしたって現実で、名前がシャワーを浴びる音を聞きながら、オレはようやく溜め息を吐いた。
「部屋、片付けなくちゃあな……」
『事件』以来、どうにも怠惰が身についてしまい、何もかもが後手に回っていた。空いた酒瓶もそのひとつで、オレは頭を押さえた。まずはゴミを纏めて……それから雨が上がったら洗濯をしよう。これからの話はその後だ。