ミスタの妹になる


 ドアを開けたのは見知らぬ女だった。

「ええっと……」

 降りるのは沈黙。ぼくはチャイムに手をかけたまま。互いに互いの顔を探るように見つめ、……やがて気まずさに目を逸らす。
 そうしてからぼくはこの部屋が確かにミスタのものであるのを確認し、もう一度ドアを開けた女に視線をやった。

「あの、……ミスタは?」

 遠慮がちに問うと、女はどこかぼんやりとした顔で首を振る。

「いない。……たぶん、すぐ帰ってくる、はずだけど」

「そう、ですか……」

 ぼくは内心『まいったな』と思っていた。
 知る限り、ミスタは一人暮らしだ。彼からもそういった話は聞いたことがない。だが彼女はごく自然にぼくの鳴らしたチャイムに答えたし、ぼくが部屋を間違えたというわけでもない。彼女はミスタのことを知っている。知っているけれど、家主はいない。そして家主が己の留守を任す女。──とくれば、自然答えはひとつ。
 だからぼくは『まいったな』と思う。他人の──それも同僚の──『そういう』話なんて、気まずいことこのうえない。

 ──さて、どうするか。

 こんなことならわざわざ家まで訪ねなければよかった。別に電話でも済む用件だったのだ。ただたまたま近くまで足を伸ばしたから、ついでに明日の仕事について話をしようと思った。それだけだった。こんな間の悪いことになるとは想定していなかった。

「あの、……あなたは?」

「あ、ああ……、ぼくは彼の……同僚です」

「同僚……」

 警戒していたのか。半開きのドアの向こう、顔だけを覗かせていた彼女だが、ぼくの言葉を反復すると、しばし悩むように視線を宙に投げ、──そして。

「……じゃあ、家、上がってく?よければ……その、何もないけど」

 彼女の心中を表すかのように。人一人分ドアを開け、彼女はぼくを上目で窺い見る。
 白い膚と無感動な眸が印象的な少女だった。氷のようだ、とぼくは思う。硝子玉みたいな眸は怖いほど透き通っていて、なんだか見つめることに抵抗があった。だから彼女の後を追いかけるぼくの背も自然真っ直ぐ伸ばされる。沈黙が痛く、ひりひりと膚を刺した。
 ミスタの部屋は思ったよりも小綺麗なものだった。ぼくは彼女が掃除でもしてやったのだろうかと思った。ミスタがそんなマメな質には思えなかったからだ。花瓶に生けられた花だとか、皺のないテーブルクロスだとか、そうしたところに几帳面さが見受けられた。

「……どうぞ」

「あ、ありがとう」

「ううん、……」

 促されるがまま。椅子に腰かけると、目の前にカフェが置かれた。ついでに添えられているのは一切れのクロスタータ。手作りらしい、若干の歪さ。でも味は文句なし。ぼくはなんだか奇妙な気持ちになりながら、彼女とミスタのことを考えた。
 彼女はぼくの向かい側に座った。座って、本を開いた。たぶんぼくが来るまでもそうしていたのだろう。ぼくたちの間には沈黙があった。落ち着かない、沈黙が。
 針の音がいやに耳についた。時計の針。たびたび見ても進みが鈍い。彼女の手もほとんど静止。視線は文字を追っているが、ページを捲るのが端から見ても遅いように思われた。
 ぼくは気まずさから目をさ迷わせた。何か、この静寂を緩和するものが必要だった。ぼくには、──彼女には。だからぼくは話題を探し──

「それ、」

「え?」

「それ、ボルヘス……好きなんですか」

 彼女の持つ本、そのちらりと見えた表紙から見当をつけた。
 ボルヘス──ホルヘ・ルイス・ボルヘス。アルゼンチン出身の作家。独特の世界観、幻想的な物語が特徴の人だ。彼女が読んでいるのはそんな彼の短編集、『伝奇集』の訳語であろう。
 そう記憶と照らし合わせ、そろりとぼくは問いかける。
 ──すると、彼女の頬がすっと色づいた。

「う、うん……あの、『バベルの図書館』が……一番すき」

 本から上げられた顔。──それを先刻ぼくは無感動な、と形容した。無表情、無感動。蝋人形のような──それ。けれど今は。今は──赤く色づいた頬は歓喜を、硝子玉の輝きは星を、囁きは梢を、緩む唇は綻びの薔薇を示していた。彼女のどこにももう冬の気配はなかった。

「『バベルの図書館』……可能無限か実無限かという議論のできる話ですね」

 それが何故だか嬉しくて──会話の糸口が掴めたことに安堵もして──ぼくの口は無意識のうちに知識の図書館を叩いていた。
 『バベルの図書館』──『無限の書架から引き出す未知の本。きわめて低い手すりで囲まれた、不定数の、おそらく無限数の六角形の回廊で成り立っている。どの六角形からも、それこそ際限なく、上の階と下の階が眺められる』──その図書館にはアルファベットと記号の二十五文字で表現できるすべての本が収められている、という話だ。

「すべての可能性が内包されているわけですから、その図書館は完結しうる無限であり、アレフゼロ冊であると定義できる……。無論これについちゃ可能無限の立場からも反論ができますね……実際図書館が有限かっていうのはわかりませんし、……」

 アリストテレスによる無限の分類。それを交えて語ってから、──ぼくははたと気づく。
 彼女がぽかんとした顔でぼくを見ていることに。

「……ごめん、あの、そこまで考えて読んでなかった……」

「そう、ですか……」

 彼女はひどく申し訳なさそうな顔をした。ぼくはそれに相槌を打つだけ。しまった──そう思いはするが、かといって取り繕う言葉も思いつかない。せっかく和らいだ緊張感がぼくたちの間に再来する。
 嫌な沈黙に、ぼくが目を落とした時。

「……あなた、博識なんだね」

 彼女の落ち着いた、けれどどこか賞賛を含んだ呟きが響いた。
 彼女はぼくを見ていた。──相変わらず、輝いた目で。眩しいものでも見るみたいな眼差しでぼくを見ていた。

「いえ、」

「ううん、否定しなくていい……。今のは私が無知なのがいけなかったから……あなたが羨ましい」

 最後の方は噛み締めるようにして。言う彼女の目には自虐の色。悲しげな、しかし諦念に満ちた目を一瞬伏せ、すぐに彼女は笑った。

「私、よくバカにされるから……兄さんにもしょっちゅう。だから、」

 羨ましいのだ、と彼女は繰り返す。
 ぼくは咄嗟に「そんなことない」と否定しかけた。そんな、知識ばっかりがあったってどうしようもない。だってぼくは──そう、端から見たらぼくは敗北者だ。何も羨ましいことなんかない。
 そう言いかけ、しかし否定は許されないのだと思い至る。彼女にとってぼくは憧れで、ぼくにはそれを否定することすらできない。ぼくたちはただそれだけなのだ。友達でもなんでもない。だからぼくはそれ以上のことは言わなかった。
 彼女もそれ以上を望まなかった。気遣わしげに時計に目をやり、「さっきは……」とまた眉尻を下げて困った様子でぼくを見た。

「さっきはすぐ帰ってくる、って言ったけど、……その、あの人はああいう人だから……、実際もう予定よりずっと遅れてるし……」

「ああいう?」

 問い返すと、躊躇いひとつ。逡巡し、言葉を探し──

「……きれいな女の人に目がないから」

「それ、は……」

「だから……その……あんまり遅いようだったら、……ごめんなさい、引き留めなければよかった、かも……」

 ──それは、あんまりじゃないかと思った。
 ぼくらは友達でもなんでもない。今目の前の彼女の名前すら知らない。その手で作られたクロスタータを食べ、カフェを飲み、好きな本の話をしたけれど、でもそれだけだ。だからぼくに『それ』を言う資格はない。
 でもあんまりじゃないかと思った。恋人が自分以外の誰かに熱を上げて、あまつさえ連絡のひとつなしに置き去りにして──謝罪までさせるなんて。

「そんな、君が謝るようなことなんて、なにも、」

 何か言わなくてはと思った。どうしてぼくが、とも思ったが、ここまで付き合ってしまったんだ、しょうがないという気持ちもあった。何より彼女の眸──透徹したそれをいつしか綺麗だと思うようになっていた。
 だからぼくは慌てて言葉を募り──そうしたところで、玄関の方から呑気な声が聞こえてきた。

「あれ、フーゴじゃねぇか……どーした、なんか用でもあったか?」

「用って、」

 ミスタだった。家主の彼は、そりゃあもうごく自然体で部屋に入り、彼女の側にあったカップをなんの伺いもなく手に取った。彼女は柳眉を釣り上げたが、しかし無言。諦めたように溜め息を吐くものだから、ぼくが代わりに口を開いてやった。

「あのね、ミスタ……確かにぼくは他人だ。でもね、普通……常識的に考えて……約束をほっぽって火遊びってのはどうかと思うぜ」

「約束?オレお前と約束なんかしてたか?」

「だから……ぼくじゃなくて、」

 彼女とだ、と当事者であるはずなのにどこか他人事の少女を指し示す。と、ミスタは首を捻り、すぐに「ああッ!」と手を叩いた。

「わりぃわりぃ、ちょっときれいなおねーさんがいてな……、でも頼まれてたもんはちゃんと買ってきたぜ」

 この期に及んでどこか得意げに、ミスタは買い物袋を広げてみせる。オリーブオイル、ワイン、ミネラルウォーター、牛乳……どれも重量のあるものばかりだ。ミスタはそれを買いに出掛けて……女に現を抜かしてた、というわけだろう。まったく、買い物ひとつ満足にできないなんて。

「これ、違う……私が言ったのはコラティーナ……これはオリアローラ……」

「あ?一緒だろ、違いなんかわかんねぇって」

「……やっぱり失敗だった」

 そうだろうな、とぼくは内心で思う。ミスタのような軽薄でデリカシーのない男、物静かな彼女には似合わない。気の迷いというやつだ。
 それにしたって間の悪いこと。ぼくはそもそもの用件のことは後回しにして、玄関の方を見やった。いつでも帰れるようにだ。別れ話なんかに巻き込まれる気はちっともなかった。
 でも結局逃亡は失敗に終わった。誰に阻まれた、というわけではない。ただぼくの想像が何もかも間違っていた、ただそれだけの話。

「兄さんに買い物を任せるのは早すぎた。失敗」

「なぁに言ってんだよ!お前一人じゃあ荷物持てねーって言うからオレが行って来てやったんだろ」

「そもそもこの買い物自体兄さんの分ばかり。私には不要、議論の余地なし」

「オレだってメシ作ってくれなんて頼んでねぇぞ」

「なら偏った食生活をして早死にすればいい」

「この……」

「まてまてまて」

 黙っていればいつまでも続きそうな口論。その間に入ると向けられる二対の目。黒々としたそれと青ざめたそれ。まったく似ていない。似ているところを見つける方が難しい。でも無表情の時、どこか冷たさを感じさせる空気は……同じだった。

「きみ、妹いたのか」

「お?おお、いるぜ、小生意気な妹が一人な……」

「一言余計。……あの、ごめん、知ってるとばかり」

 後半はぼくに向けて。やっぱり申し訳なさそうに頭を下げる彼女を見ると、ぼくはもう何も言えない。勘違いをしていたのはそもそもぼくひとり。彼女もミスタも何一つ嘘は言っていない。ぼくが勝手に早合点して……先走ってしまっただけ。
 ぼくは「いえ、お気になさらず」と曖昧に笑った。それから改めて自己紹介をした。彼女は名前、ぼくと同い年の学生、らしい。

「フーゴ、……そう、呼んでも?」

 名前はぼくの名前を特別なもののように囁いた。大事そうに、秘めやかに。子供のような無邪気さで、ちっぽけなものにも喜びを見出だして。きらきらと輝く眸はやはり綺麗だなと思った。