原作沿い悲恋エンド


ナランチャルートが原作通りに終わったら。






 宵に滲むオレンジの灯り。名前は居心地のいいソファに座り、ゆっくりとページを捲った。
 窓の外は既に闇。コオロギの鳴く声がどこからか聞こえてきた。それ以外は本を捲る音と詩集を読み上げる名前の声が規則的に響くだけ。辺りは穏やかなる静けさに満たされていた。

「“I could not love thee, Dear, so much, Loved I not Honour more.”……」

「それってどういう意味?」

 声は名前の膝から聞こえた。
 名前は掲げ持っていた本をどけ、目を落とす。膝の上、寝転がるのは深い色の瞳。煙る紫の目は澄んだ眼差しを名前に向けていた。
 名前は微笑んだ。微笑み、ナランチャの頬に手を伸ばした。

「別れる時になってなお一層恋人への愛情が強まった……って詩よ。『今となって初めて私がどれほど貴女を愛していたかが分かった……』ってね」

「ふーん……」

 膚に落ちる髪。青みがかった黒の色。滑らかなそれを指先で除けると、ナランチャは擽ったそうに目を細める。それから小さく欠伸を洩らすものだから、名前はくすくすと笑った。

「眠いの?」

「ん、そうかも……」

 「子守唄がよかったせいかな」とナランチャは目を擦る。
 けれど彼は席を立とうとはしなかった。名前の膝の上、寝心地がいいとはいえないだろうに、そこから動こうとしなかった。
 「ならベッドに行かないと」名前はそう言ったけれど、でも内心では『このままでいいかな』とも思っていた。このまま、不便な格好のままでも。彼とならなんだってよかった。なんだって幸福だと思った。

「明日の予定は?」

 名前が訊ねると、ナランチャはぼんやりと思考した。
 「午前中はフーゴに勉強教えてもらって……」後はいつもの見回りくらいなものかな、とナランチャは言う。特別仕事はない。けれどそれは名前も同じだった。街の人から依頼があって動くことの方が多い。事前に予定が立っているのは滅多になかった。

「それじゃあ午後は空いてるのね。どうする?この間言ってたCDプレイヤーでも探しに行く?」

「あー……、それもいいなァ〜……」

 「でもせっかくだしなぁ」とナランチャは続けた。せっかく明日はみんな空いてるんだ。どうせならみんなで何かしたい、と。

「なんだっけ、ええっと、こないだ名前たちがやってたトランプのヤツ……」

「ブリッジ?」

「そう、それ。もっかい挑戦してみたいんだ」

「私はいいけど……」

 名前は記憶を辿りながら言葉を探した。「前に『もうやらない』って言わなかった?」
 以前は名前とナランチャ、それからフーゴとアバッキオでブリッジゲームを行った。フーゴは恐ろしいほど巧みにゲームを支配し、アバッキオは堅実な手を選ぶのが特徴だった。そしてナランチャはといえば勘が鋭く、時おり驚くほどの結果を齎した。だが切り札の存在だとかは忘れがちで、指摘してきたフーゴと揉めることもあった。
 だから名前はナランチャの提案に目を丸くし、じいっと彼の目を見つめた。その深い色、夜の奥底を浚うようにして。
 ナランチャは名前の言葉に小さく顎を引いた。「そうなんだけどさ、」逸らされた視線に滲むのは恥じらい。目許を微かに色づかせ、ナランチャは口ごもる。

「バカにされんのはムカつくけどさ、……それも悪くないかなって」

「……そう、」

 名前は笑みを深め、ナランチャの髪を梳いた。流れるのは小川で、清浄なるせせらぎさえ聞こえてきそうなほど。彼からは草原の気配がした。広々とした青空だとか深遠なる海だとか、そうした澄み渡るものによく似ていた。他にない尊さが彼にはあった。喪いがたい愛情と温かさと善良さが宿っていた。
 心地のいい沈黙があった。仄かなるランプの灯り。絹のクッション。愛しい眼差しは微睡みに閉ざされ、けれどそのうちにまた名前を見上げた。

「さっきの詩だけど、」

 そして右手を上げ、今度はナランチャが名前の髪を撫でた。名前が彼にしてやったように。とても繊細な手つきで触れ、彼は猫のように笑った。

「けどオレならそんなダサいこと言わないね」

 「好きだよ、名前」と彼は囁いた。口許に浮かぶのは悪戯な笑み。けれど対照的に瞳は真っ直ぐで、手が届きそうなほどに澄んでいた。秋の空のようだった。落莫たるほどに澄み渡り、──名前は怖くなった。

「ナランチャ、」

「好きだよ、名前。今までも、これからも」

 ナランチャは笑っていた。笑いながら、残酷な言葉を吐いた。

「だから笑って。オレを名前のヒーローにさせてよ」

 その笑みはクレマチスの花だった。クレマチスで、アマリリスで、五月の白百合だった。一晩で凋みながらも永遠の光を宿す草花であった。そんな風に感じてしまうことが恐ろしくて、名前はナランチャの手を握り締めた。

 ──けれど、その掌には灰の一片さえも残ってはいなかった。

 名前は目を覚ました。ランプは消え、炉のほとりには温もりの残滓すらなかった。辺りを支配するのは闇と静寂。死の気配だった。
 窓を打ち据えるのは虫の鳴き声などではなく、嵐のような雨音だった。ソファで眠っていたのは名前ひとり。どこにも彼はいない。もう、どこにも。この世界の果てにだって彼はいないのだ。

「────ッ」

 それを、唐突に痛感した。
 名前は体を折った。膝に顔を埋め、スカートを濡らした。瞼の裏にあるのは去っていった面影で、耳に残るのは彼の心地いい声だった。

「ナランチャ……ッ」

 今になって思い知る。自分がどれほど彼を愛していたのかを。どれほど彼に救われていたのかを。彼のいない世界がこんなにも色褪せて見えるのだということを。彼が去った今、ようやく思い知った。

「好きよ、大好き。あなたは、あなたこそが私のヒーローよ……」

 答えても返事はない。とうに彼は船路の旅に出た。聖なる焔の灯る道。天国行きの馬車に乗って、彼らはいってしまった。名前にはもう手の届かないところに。もう二度と、名前はナランチャに触れられない。エデンの花よりも美しきものは名前の手から永遠に喪われたのだ。